【5】珠
珠が生まれた時、英定は最初に安堵した。
玉の時のような、世界が一歩ずれる感覚とは少し違う。
もっと個人的で、もっと身勝手な安堵だった。
手元に置ける。
そう思ってしまった自分を、英定は今でも忘れていない。
男児は本家へ。
余理の慣わしは明確で、その明確さが玉を遠くへ連れて行った。
だから珠が女児だと分かった瞬間、英定の胸の底へ最初に落ちたのは“失わずに済む”という安堵だった。
ひどい話だ、と今なら思う。
生まれてくる子そのものより、失われぬという条件へ先に救われたのだから。
だが当時の英定には、そのひどさを責める余裕はなかった。玉を本家へ渡した後の半年は、自分でも思っていた以上に長く尾を引いていた。晴蒼の腕に珠が収まり、余理邸の中で乳の匂いと寝息が再び満ち始めた時、英定は初めて少しだけ息を深くした。
珠は、玉と顔立ちが違った。
まだ赤子のうちは曖昧だと思っていたが、英定にはどうもそうは見えなかった。玉はどこか輪郭がすっきりしていて、眠っていても静かな子だった。珠はもう少し顔に愛嬌があり、起きている時の表情がころころ変わる。晴蒼はそれを聞いて、「まだ早いでしょう」と言ったが、英定には確かに違って見えた。
「玉の時には、そこまで申されませんでしたのに」
ある時、晴蒼がそう言った。
英定は珠の揺り籠を覗き込みながら、少し眉を寄せた。
「言ったところで、どうせ本家へ行く」
「それは玉が気の毒です」
「気の毒なのは私だ」
思わずそう返してしまい、英定は自分で少し驚いた。
晴蒼もまた、一拍だけ黙った。
失言だったかと思った瞬間、晴蒼が目を伏せて、ほんの少しだけ笑った。
「ええ。存じております」
その言い方はやさしくはない。
だが、分かっていると言われた気がした。
珠は手元で育つ。
その事実は、英定の日々を少し変えた。
夜泣きが聞こえる。
乳母の足音が近くで止まる。
晴蒼が髪を乱して眠たげな顔をする。
英定自身も、仕事や記録探しの合間に様子を見に行くようになる。
玉が遠くにいることは、変わらず胸を刺した。
だが珠が近くにいることで、その痛みは別の形を取り始める。
手元に守るべきものがある。
そう思うだけで、人は少し動き方を変えるのだと英定は知った。
珠はよく泣いた。
だが泣くばかりでもない。
乳母の指を掴み、晴蒼の髪に手を伸ばし、英定の袖に絡みつく。
そのたびに英定は戸惑った。
玉の時には、そうした時間が少なかった。
少なかったから、どう受け止めればよいのか分からない。
ある晩、珠がなかなか寝つかず、乳母も困り果てていたことがある。晴蒼は帳面の整理をしていて、すぐに手が離せなかった。英定は少し離れたところで書物を開いていたが、泣き声があまりに長く続くものだから、結局立ち上がった。
「貸せ」
乳母が目を丸くする。
無理もない。英定が自分からそう言うことは多くない。
「ですが」
「いい」
珠を受け取る。軽い。玉を抱いた時よりは、手の置き場に少し迷いが少ない。慣れたのか、それとも手元にいるというだけで恐れが薄れたのか、自分でも分からなかった。
珠は一度ひくりと息をして、それから英定の衣へ額を寄せた。泣き止むまでにはしばらくかかったが、乳母の腕の中よりは早かったらしい。晴蒼が帳面から目を上げて、その様子を見ていた。
「ずいぶんと、お気に入りのようです」
晴蒼が言う。
「誰が」
「珠が」
英定は珠の頭を支えながら、少しむっとした。
「私が気に入られてどうする」
「父ですから、よいのでは」
「玉はそうでもなかった」
口にした瞬間、部屋の空気がほんの少しだけ止まった。
晴蒼は何も言わない。
だが、言わなくても分かる。
玉がそうでもなかったのではない。
英定が、玉とそうなれる時間を持てなかっただけだ。
英定はそれ以上何も言わず、珠を揺らし続けた。やがて小さな寝息が落ちる。乳母がそっと受け取って奥へ下がると、晴蒼が帳面を閉じた。
「あなたは」
静かな声だった。
「玉のことを、思っておいでですね」
「当たり前だ」
「ええ」
晴蒼は頷いた。
「けれど、珠が近くにいることで、その思いが少し変わってきているようにも見えます」
英定は言葉を返さなかった。
変わっているのだろうか。
変わっているのだとすれば、どういう意味で。
玉は遠い。
珠は近い。
その距離差は、英定の内側に二つの父性を作りかけていた。
取り返せぬものへの執着と、今ここで触れられるものへの責任。
どちらも父であることには違いない。だが、温度が違う。
珠を見ていると、英定は“守りたい”と思う。
玉を思う時は、それに“取り返したい”が混じる。
その違いを口にする気はなかった。
晴蒼もまた、それ以上は問わなかった。
余理邸には、珠が生まれてからしばらく、穏やかな時間があった。
玉は遠い本家にいる。
だが生きている。
珠は手元で育つ。
晴蒼は相変わらず静かで、余理家のことを捌きながら、時折英定へ資料探しの成果を淡々と報告する。
何も見つからないことの方が多かった。
それでも晴蒼は、記録を当たり続けた。
古い帳面、奉納の控え、神祇官から返された書面。
英定の力へ直接結びつくようなものは、ついに見つからなかった。
「申し訳ありません」
晴蒼が一度だけそう言ったことがある。
英定はその言葉に、珍しくはっきり首を振った。
「お前が謝ることではない」
「ですが、見つかると思っておりましたので」
「私もそうだ」
そこで英定は少しだけ息を吐き、付け足した。
「探してくれているだけで十分だ」
晴蒼はその時、ほんの少しだけ目を見開いた。
英定がそういうことを口にするのは珍しい。自分でも分かっていた。けれど珠の寝息が近い場所で、玉が生きていると知っていて、余理邸がまだ家の形を保っている時期だったからこそ、たまにはそういう言葉も出たのだろう。
今にして思えば、あれは幸福な時期だった。
長くはなかった。
派手でもなかった。
だが確かに、家族としての時間があった。
玉が遠くにいて、珠が近くにいて、晴蒼がその間を静かに整えている。英定は完全に穏やかにはなれないまでも、その家の一部として呼吸していた。
だから後になって焼けた時、失われたのは建物ではなく、まずその“穏やかだった時間”だったのだと分かる。
英定は正庁の机へ向かったまま、そこで筆を一度置いた。




