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大樹  作者: 常居嗣子
第二章

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【5】珠


 珠が生まれた時、英定は最初に安堵した。


 玉の時のような、世界が一歩ずれる感覚とは少し違う。

 もっと個人的で、もっと身勝手な安堵だった。


 手元に置ける。


 そう思ってしまった自分を、英定は今でも忘れていない。


 男児は本家へ。

 余理の慣わしは明確で、その明確さが玉を遠くへ連れて行った。

 だから珠が女児だと分かった瞬間、英定の胸の底へ最初に落ちたのは“失わずに済む”という安堵だった。


 ひどい話だ、と今なら思う。

 生まれてくる子そのものより、失われぬという条件へ先に救われたのだから。


 だが当時の英定には、そのひどさを責める余裕はなかった。玉を本家へ渡した後の半年は、自分でも思っていた以上に長く尾を引いていた。晴蒼の腕に珠が収まり、余理邸の中で乳の匂いと寝息が再び満ち始めた時、英定は初めて少しだけ息を深くした。


 珠は、玉と顔立ちが違った。


 まだ赤子のうちは曖昧だと思っていたが、英定にはどうもそうは見えなかった。玉はどこか輪郭がすっきりしていて、眠っていても静かな子だった。珠はもう少し顔に愛嬌があり、起きている時の表情がころころ変わる。晴蒼はそれを聞いて、「まだ早いでしょう」と言ったが、英定には確かに違って見えた。


「玉の時には、そこまで申されませんでしたのに」


 ある時、晴蒼がそう言った。


 英定は珠の揺り籠を覗き込みながら、少し眉を寄せた。


「言ったところで、どうせ本家へ行く」


「それは玉が気の毒です」


「気の毒なのは私だ」


 思わずそう返してしまい、英定は自分で少し驚いた。

 晴蒼もまた、一拍だけ黙った。


 失言だったかと思った瞬間、晴蒼が目を伏せて、ほんの少しだけ笑った。


「ええ。存じております」


 その言い方はやさしくはない。

 だが、分かっていると言われた気がした。


 珠は手元で育つ。


 その事実は、英定の日々を少し変えた。

 夜泣きが聞こえる。

 乳母の足音が近くで止まる。

 晴蒼が髪を乱して眠たげな顔をする。

 英定自身も、仕事や記録探しの合間に様子を見に行くようになる。


 玉が遠くにいることは、変わらず胸を刺した。

 だが珠が近くにいることで、その痛みは別の形を取り始める。

 手元に守るべきものがある。

 そう思うだけで、人は少し動き方を変えるのだと英定は知った。


 珠はよく泣いた。

 だが泣くばかりでもない。

 乳母の指を掴み、晴蒼の髪に手を伸ばし、英定の袖に絡みつく。


 そのたびに英定は戸惑った。


 玉の時には、そうした時間が少なかった。

 少なかったから、どう受け止めればよいのか分からない。


 ある晩、珠がなかなか寝つかず、乳母も困り果てていたことがある。晴蒼は帳面の整理をしていて、すぐに手が離せなかった。英定は少し離れたところで書物を開いていたが、泣き声があまりに長く続くものだから、結局立ち上がった。


「貸せ」


 乳母が目を丸くする。

 無理もない。英定が自分からそう言うことは多くない。


「ですが」


「いい」


 珠を受け取る。軽い。玉を抱いた時よりは、手の置き場に少し迷いが少ない。慣れたのか、それとも手元にいるというだけで恐れが薄れたのか、自分でも分からなかった。


 珠は一度ひくりと息をして、それから英定の衣へ額を寄せた。泣き止むまでにはしばらくかかったが、乳母の腕の中よりは早かったらしい。晴蒼が帳面から目を上げて、その様子を見ていた。


「ずいぶんと、お気に入りのようです」


 晴蒼が言う。


「誰が」


「珠が」


 英定は珠の頭を支えながら、少しむっとした。


「私が気に入られてどうする」


「父ですから、よいのでは」


「玉はそうでもなかった」


 口にした瞬間、部屋の空気がほんの少しだけ止まった。


 晴蒼は何も言わない。

 だが、言わなくても分かる。


 玉がそうでもなかったのではない。

 英定が、玉とそうなれる時間を持てなかっただけだ。


 英定はそれ以上何も言わず、珠を揺らし続けた。やがて小さな寝息が落ちる。乳母がそっと受け取って奥へ下がると、晴蒼が帳面を閉じた。


「あなたは」


 静かな声だった。


「玉のことを、思っておいでですね」


「当たり前だ」


「ええ」


 晴蒼は頷いた。


「けれど、珠が近くにいることで、その思いが少し変わってきているようにも見えます」


 英定は言葉を返さなかった。

 変わっているのだろうか。

 変わっているのだとすれば、どういう意味で。


 玉は遠い。

 珠は近い。


 その距離差は、英定の内側に二つの父性を作りかけていた。

 取り返せぬものへの執着と、今ここで触れられるものへの責任。

 どちらも父であることには違いない。だが、温度が違う。


 珠を見ていると、英定は“守りたい”と思う。

 玉を思う時は、それに“取り返したい”が混じる。


 その違いを口にする気はなかった。

 晴蒼もまた、それ以上は問わなかった。


 余理邸には、珠が生まれてからしばらく、穏やかな時間があった。


 玉は遠い本家にいる。

 だが生きている。

 珠は手元で育つ。

 晴蒼は相変わらず静かで、余理家のことを捌きながら、時折英定へ資料探しの成果を淡々と報告する。


 何も見つからないことの方が多かった。

 それでも晴蒼は、記録を当たり続けた。

 古い帳面、奉納の控え、神祇官から返された書面。

 英定の力へ直接結びつくようなものは、ついに見つからなかった。


「申し訳ありません」


 晴蒼が一度だけそう言ったことがある。


 英定はその言葉に、珍しくはっきり首を振った。


「お前が謝ることではない」


「ですが、見つかると思っておりましたので」


「私もそうだ」


 そこで英定は少しだけ息を吐き、付け足した。


「探してくれているだけで十分だ」


 晴蒼はその時、ほんの少しだけ目を見開いた。


 英定がそういうことを口にするのは珍しい。自分でも分かっていた。けれど珠の寝息が近い場所で、玉が生きていると知っていて、余理邸がまだ家の形を保っている時期だったからこそ、たまにはそういう言葉も出たのだろう。


 今にして思えば、あれは幸福な時期だった。


 長くはなかった。

 派手でもなかった。

 だが確かに、家族としての時間があった。


 玉が遠くにいて、珠が近くにいて、晴蒼がその間を静かに整えている。英定は完全に穏やかにはなれないまでも、その家の一部として呼吸していた。


 だから後になって焼けた時、失われたのは建物ではなく、まずその“穏やかだった時間”だったのだと分かる。


 英定は正庁の机へ向かったまま、そこで筆を一度置いた。

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