【4】慣わし
玉が生まれた日のことを、英定は忘れていない。
忘れられるはずがない、と言うべきかもしれない。
それまでにも生と死の境目を見たことはある。準基の頃には自分の力でそれを捻じ曲げようとしたし、明の頃は弱い身体で生き延びることそのものが境目の上を歩くようなものだった。だが、誰かがこの世へ来る瞬間を、自分の子としては初めてだった。
晴蒼は苦しみに声を荒げる女ではなかった。
むしろ、ぎりぎりまで黙って耐えていた。額に汗が滲み、唇の色が薄くなっても、余計な声を出さない。英定はその沈黙の方が、かえって見ていられなかった。
何か言えばよかったのかもしれない。
励ますとか、大丈夫だとか、よくあることを。
だが、そういう言葉は喉まで来て結局出なかった。安易に大丈夫と言えるほど、英定は生を軽く見ていない。軽く見られるなら、準基の頃にもっと上手く笑えていた。
だから英定はただ、その場にいた。
ひどく不器用な形で。
乳母が湯を運び、産婆が低い声で指示を出し、家の女たちが静かに動く。その輪の外れにいる自分が邪魔なのは分かっていた。それでも立ち去れなかった。
そしてようやく、小さな泣き声が上がった。
英定はその音を聞いた瞬間、自分の足の裏が床へ深く沈んだような気がした。今まで宙へ浮いていたものが急に重さを持った、と言い換えてもよい。あれが安堵だったのか、ただの眩暈だったのか、今でもよく分からない。
産婆が「男児です」と告げた。
男児。
その言葉は嬉しさと同時に、別の現実を連れてきた。
余理家の伝統だ。
男児は本家へ。
余理家では、長子であれば男児は本家――すなわち義伯父家へ養子として預けるのが慣わしだった。家を継げる者を明確にし、余理家の伝統を継ぐため。感情よりも家の形を優先する理屈だ。英定は婚姻前から聞かされていた。頭では理解もしていた。
だが、赤子の泣き声を前にして、その理屈はひどく薄く感じられた。
晴蒼は産後の疲れの中で、それでも静かな顔をしていた。青白い頬のまま、腕の中の子を少し見て、それから英定へ目を向ける。
「抱きますか」
そう言われて、英定は一瞬動けなかった。
自分が。
抱く。
その言葉の重さに、準備ができていなかったのだ。
それでも晴蒼は急かさない。ただ待っている。抱くか、抱かないか。選べと言っているのではなく、そこにある事実を差し出しているだけだ。
英定はゆっくり手を伸ばした。
怖かった。
触れることが、今も怖い。
どれだけ年月を重ねても、この手が何をするか分からない。そういう恐れは消えない。
袖の中へ隠していた幼い日々の癖が、まだ癖として残っている。
それでも、その時だけは伸ばさずにいられなかった。
乳母の手を借り、恐るおそる受け取る。
軽い。
驚くほど、軽い。
こんなにも小さいものが、人なのかと思った。温かい。脈がある。小さな顔がくしゃりと歪み、また泣く。その泣き声が腹の底へ響く。
英定はその時、初めて「父」という言葉の輪郭を、ほんの少しだけ掴んだ気がした。
自分の子なのだ。
誰が何を言おうと、これは確かに自分と晴蒼のあいだから出てきた命であり、名を与え、見届ける責任がある。
玉。
その名が定まるのは少し後のことだが、今の英定にはもう“長子”という実感しかなかった。
晴蒼は疲れた顔のまま、英定が子を抱く様子を見ていた。笑いはしない。ただ、目が少しだけやわらいでいた。あの時の晴蒼の顔を、英定は比較的はっきり覚えている。たぶん、あの女が英定へ向けた表情の中でも、あれはかなり柔らかい方だった。
「落とさないでください」
晴蒼が言った。
英定はむっとした。
「落とすものか」
「でしたら、そんなお顔をなさらないで」
「どんな顔だ」
「今にも、自分の方が先に倒れそうなお顔です」
英定は言葉に詰まり、晴蒼はそのわずかな隙へ、ほんの少しだけ笑みを見せた。
その短いやり取りさえ、今では遠い。
玉は半年のあいだ、余理邸にいた。
たった半年。
そう言ってしまえば短い。
だが英定にとっては、それでも十分に長い時間でもあった。
夜半に泣く声を聞いた。
乳母に抱かれて眠る姿を見た。
晴蒼が髪を乱したままあやしているのを見た。
自分でも数えるほどは抱いた。
回数は多くない。
慣れたとは言い難い。
それでも、抱くたびに少しずつ“壊れそうで怖いもの”から“手放したくないもの”へ変わっていった。
だからこそ、その半年は英定にとって短かった。
余理家の慣わしは変わらない。
男児は本家へ。
玉もまた例外ではない。
けれど感情は別だった。
晴蒼は支度を淡々と進めた。衣を整え、必要な品を揃え、乳母と話をする。顔色一つ変えないわけではない。だが、崩れもしない。あの女はそういう時ほど静かになる。
英定は、その静けさを恨めしく思ったことがある。
どうして平気でいられる。
どうして何も言わない。
なぜ自分だけが、こんなにも腹の底でざらついたものを抱えている。
今にして思えば、晴蒼も平気なはずがなかった。
ただ、余理の女として、母として、泣き崩れるより先に整える側へ回っていただけだ。
それが分からぬほど、当時の英定はまだ幼かったのだろう。
迎えの日、玉はよく眠っていた。
乳母に抱かれたまま、目も覚まさず、世界の都合など何一つ知らぬ顔をしている。英定はその穏やかな寝顔を見て、かえって腹が立った。何も知らずに連れて行かれる子へではなく、自分自身へ。
抱ける時に、もっと抱けばよかった。
手元にある半年を、もっと長く感じるほど使えばよかった。
だが後悔はいつも後から形を持つ。
英定は最後に一度だけ、玉を抱いた。
前より少しだけ重い。
けれど、まだあまりにも軽い。
玉は起きなかった。起きないまま、英定の衣の襟を無意識に掴んだ。その小さな指の感触を、英定は今でも忘れていない。忘れられるはずがない。
晴蒼が言った。
「お渡しください」
責めるでも、急かすでもない声だった。
だからこそ、英定はその一言でやっと現実へ戻された。
渡さねばならない。
余理の慣わしだから。
家の維持のためだから。
そういう理屈はたくさんあった。
だが英定には、その瞬間、それらがすべて「だから何だ」にしか思えなかった。
それでも渡した。
渡したから、今がある。
遠い本家へ連れて行かれた玉を、英定は見送るしかなかった。晴蒼もまたそうした。二人とも泣かなかった。泣く暇がなかったのか、泣く筋合いではないと自分へ言い聞かせたのか、今となっては分からない。
ただ、あの日から英定の中に一つ空いたものがある。
それは後に珠が生まれても、完全には埋まらなかった。
珠は手元で育つ。
だからこそ、玉の不在はいっそうはっきりした。
今の英定が玉へ試験書を送り、公の理屈で呼び寄せようとするのは、たぶんあの日の反動でもあるのだろう。
慣わしに従って手放した長子を、今さら別の理屈で取り返そうとしている。その身勝手さを自覚しながら、それでも手を伸ばしている。
正しいかどうかは、分からない。
けれど、あの時何もできなかった自分が、今も胸のどこかでじっとこちらを見ている。
だから英定は、筆を置いてしばし目を伏せた。
長子の伝統。
余理の慣わし。
そして、短い父子の時間。
次に思い返すのは、珠の誕生だ。
玉が遠くなったあと、手元へ来た二子。
晴蒼と英定が、ようやく“家庭”に近いものを持ち始めた時期でもある。
その分、焼けた後の空洞はさらに深くなる。




