二度目の鈴
祖母の一周忌で、久しぶりに実家へ戻った。
法事そのものは昼に終わったが、片づけやら親戚への挨拶やらで、気づけば夕方になっていた。伯母に頼まれて供物の包みを一つ持っていくことになり、帰る前に裏山の神社へ寄った。子どものころからある、小さな社だった。石段は短いが勾配がきつく、両脇の杉が夕方になると早く暗くなる。
社の前には、近所のトメさんがいた。
もう八十は過ぎているはずだが、腰はまだ曲がりきっていない。竹箒で石畳の端を掃いていて、私を見ると、手だけ止めた。
「おや、帰ってたのかい」
「今日、法事だったので」
「そうかい」
私は軽く頭を下げ、賽銭箱の前へ立った。鈴の綱は古く、握るところだけ白く擦れている。手を伸ばしたとき、トメさんがふいに言った。
「一度でいいよ」
私は綱を持ったまま振り返った。
「え?」
「鳴らすのは、一度でいい」
言い方が妙だった。参拝の作法として、一度でいいも悪いもないだろうと思ったが、トメさんはそれ以上何も言わなかった。ただ、箒を持つ手だけが止まったままだった。
私はそのまま綱を引いた。
鈴は、普通に鳴った。山の小さな神社らしい、少し乾いた金属音だった。ひとつ、ふたつと揺れて、すぐ収まる。私は手を合わせた。祖母のことを少し思い、あとはいつも通りのことを黙って願った。
そこで終わるはずだった。
だが、拝んでいる途中で、賽銭が箱の縁に引っかかるのが見えた。中へ落ち切っておらず、斜めに立ったままになっている。どうでもいいことなのに、その半端さが妙に気になった。願いごとも、途中で別のことを考えてしまって、最後まできちんとまとまらなかった気がした。
もう一度だけ、と思った。
ほんの軽く鳴らし直して、それで終わりにするつもりだった。
私が綱へ手を伸ばしたとき、トメさんが急にこちらへ来た。
「だめだよ」
さっきまでの声ではなかった。低くて、短くて、本気で止める声だった。
私はその強さに少し驚いて、
「いや、いまのちゃんと鳴ったかなと思って」
と笑いかけたが、もうそのときには指が綱を引いていた。
二度目の鈴は、一度目より低かった。
音が重い、と思った。金属がよく響いたというより、水を含んだものを打ったみたいな鳴り方だった。しかも、社の前で広がって消えるのではなく、音だけが石段を下りていった。拝殿から離れ、参道を伝って、鳥居のほうへ降りていくように聞こえた。
私は綱を放したまま、しばらく動けなかった。
トメさんは石段の下を見ていた。私のほうではなく、もう暗くなりかけた杉のあいだを。
鈴の余韻が消えたあと、少し遅れて、もう一度だけ金属の触れる音がした。
今度は社の上ではなく、石段の途中あたりから聞こえた気がした。
「……ほら」
トメさんがそう言った。
責める言い方ではなく、嫌なものが出てきたときの声だった。
私は何も返せなかった。何を聞けばいいのかもわからなかった。風はなかったのに、綱の先だけがまだ小さく揺れていた。
「帰んな」
とトメさんが言った。
「今日はもう、鳴らさないで帰んな」
私はうなずいて石段を下りた。
途中で、自分の足音が一段ぶん遅れて返ってくるのに気づいた。石段だから反響しているのかと思ったが、音は後ろからではなく、少し下から聞こえた。私が一段踏むと、そのあとで、もう一つ下の段へ誰かが乗るような音がする。
振り返りたかったが、なんとなくやめた。
鳥居を出るまで、私は一度も後ろを見なかった。
––
実家へ戻ると、もう食卓が片づきかけていた。
母が茶碗を重ね、伯母が残りの煮物をラップしている。私は神社へ寄ってきたことを告げ、供物を渡した。誰もそれ以上は聞かなかった。法事の日の家には、余計な話をしないほうが落ち着く時間がある。
台所で湯呑みを取ろうとしたとき、棚の中で金属が小さく鳴った。
匙か何かが当たっただけだろうと思った。だが、その音が、さっきの二度目の鈴の最後の余韻と少し似ていた。短く、湿っていて、すぐには消えない感じがあった。
そのあとも、似た音が何度かした。
玄関の鍵を置いたとき。洗面台のコップの縁に歯ブラシが触れたとき。仏間で線香立てを戻したとき。どれも、ごくありふれた小さな音なのに、そのたび一瞬だけ、神社の鈴の残りが家の中へ紛れ込んだ気がした。
気にしすぎだ、と自分に言い聞かせた。
それでも夜になって布団へ入ると、耳が勝手にその音を待っていた。
最初に聞こえたのは、縁側のほうだった。ちり、と、爪で薄い金物をはじいたような音だった。次はもう少し近く、廊下で鳴った。家鳴りとは違う。風鈴とも違う。ただ、鈴そのものではなく、鈴が止む前の最後の細い揺れだけが、場所を変えながら近づいてくるようだった。
私は布団の中で目を閉じたまま、耳だけ澄ませていた。
音は、廊下の途中で止まった。
けれど止んだだけで、なくなった感じはしなかった。
––
翌朝、早く目が覚めた。
外はもう明るかったが、家の中はまだ静かで、母も伯母も起きていなかった。私は顔だけ洗い、誰にも言わずに神社へ向かった。
石段の下には、昨夜のまま杉の影が落ちていた。朝だというのに、下から見上げると上の社だけ少し暗く見える。トメさんはもう来ていて、竹箒を石段の脇へ立てかけていた。
私を見ると、何も驚かなかった。
「来たのかい」
「……昨日のあれ、何だったんですか」
トメさんはすぐには答えなかった。社の前へ目をやって、それから私の手元を見た。
「鳴らしたね」
とだけ言った。
それは確認だった。知っている人の言い方だった。
私は少し黙ってから、
「二度目だけ、変な鳴り方をして」
と言った。
「夜、家でもあの音がしてました」
トメさんはまた石段の下を見た。
「そうだろうね」
「何が来たんですか」
「知らないよ」
返ってきた言葉は短かった。
けれど、知らないと言いながら、本当に何も知らない人の顔ではなかった。見たことはある。聞いたこともある。けれど、それを人へ説明できるほどの理屈では持っていない。そういう顔だった。
「一度で済めばね」
とトメさんが言った。
「上で終わるんだよ」
「二度目は」
トメさんは首を振った。
「鳴らし直すもんじゃない」
結局、それだけだった。
私はそれ以上聞かなかった。聞いても、同じところを回るだけだと思ったからだ。昨日の夕方、本気で止めたときの顔だけで十分だった。
社の前には行かなかった。石段の途中で立ったまま、小さく頭を下げて戻った。
下りるとき、足音は私ひとりぶんしかなかった。
––
その日の午後、私は町へ戻った。
帰り際、母が神社へ寄っていかないのかと聞いたが、もう行ったとだけ答えた。鈴のことは話さなかった。話したところで、母は「あんた昔から変に気にするから」と笑うだけだろうと思ったし、私自身もうまく話せる気がしなかった。
それから何日かは、金物が触れるたびに少し身構えた。
玄関の鍵。自転車のベル。駅の改札。湯呑みの縁。携帯の充電器を机へ置く音。何でもない音の中に、ときどき二度目の鈴の最後の揺れが混じる気がした。はっきり聞こえるわけではない。思い出すというのとも違う。ただ、その音だけは、一度鳴ったあとでまだ終わっていない感じがする。
しばらくして、それも少なくなった。
消えたのか、私が慣れたのかはわからない。
ただ、神社で鈴を鳴らすたび、あの夕方のことは思い出すようになった。賽銭が半端に落ちても、願いごとを途中で噛んでも、私はもう鳴らし直さない。拝み方が中途半端でも、そのまま下りる。二度目だけは、しない。
一度目はただの鈴だった。二度目だけが、誰かに聞かせる音だった気がしている。




