帰り石
町はずれに、小さな祠があった。
子どものころから知っている。細い生活道路が県道へ出る手前、使われなくなった空き地の角に、杉板の屋根だけを掛けたような古い祠がある。鳥居も柵もなく、石の台の上に祠が載っていて、その前に白っぽい小石がいくつか積まれていた。何を祀っているのかは知らない。町内の誰も、詳しくは言わなかった。ただ、毎朝きれいに小石が積み直されているのだけは、昔から変わらなかった。
祖母は、あそこは夕方から触るなと言っていた。
子どものころ、祠の前の石を手に取ろうとしたら、後ろから手首を叩かれたことがある。別に怒鳴られたわけではない。ただ、祖母にしては珍しくきつい手つきだったので、私はそれをよく覚えていた。
「昼ならまだいいけど、暗くなってからはだめ」
祖母はそう言った。
「崩れてても、そのまま」
「なんで」
「なんでも」
その言い方が嫌で、私はそれ以上聞かなかった。祖母は、そういうことをうまく説明しない人だった。理屈があるというより、聞かれても困る顔をするだけだった。
大人になってからは、祠のことをほとんど忘れていた。
その町に戻ったのは、母から頼まれたからだった。平日の夕方、仕事のあとに実家へ寄って、仏壇へ上げる果物を持っていく。それだけの用事だった。祖母はもう亡くなっていたし、実家のある町へも、最近は盆と正月に顔を出すくらいになっていた。
その日も、用事はすぐ済んだ。母と少し話し、仏壇に線香を上げ、暗くなる前に帰ろうと玄関を出た。最寄駅まで歩くつもりだった。近道をすれば、あの祠の前を通る。
六月の終わりで、空はまだ少し明るかったが、町の隅はもう夕方の色になっていた。人の少ない裏道に入ると、道端の草が湿って見える。祠の前まで来たとき、私は思わず足を止めた。
石が崩れていた。
いつも三つか四つ、きれいに積まれている白い小石が、その日はばらけていた。一つは祠の台から落ち、二つは斜めに重なっている。雨か猫か、誰かが蹴ったのかもしれない。見ていると妙に落ち着かない崩れ方だった。
私は、ついしゃがみ込んだ。
子どものころに言われたことなど、もう半分も本気にしていなかった。ただ、目の前で崩れているものを見ると、元に戻したくなる。その程度のことだった。
指先でいちばん丸い石を拾い上げたとき、後ろから声がした。
「おやめ」
驚いて振り向くと、斜め向かいの家の前に、近所のタキさんが立っていた。祖母と歳の近かった人で、今もあのあたりに住んでいるらしかった。夕方の買い物袋を下げたまま、こちらを見ていた。
「それ、今やるもんじゃない」
私は石を持ったまま立ち上がった。
「崩れてたから、直そうかと」
タキさんは首を振った。
「明日の朝でいい」
「でもこのままじゃ」
「いいの」
普段は穏やかな人なのに、そのときだけ妙にきっぱりしていた。
私は少し笑って、
「別に、石ですよね」
と言った。
「落ちたの戻すだけだし」
タキさんはすぐには返さなかった。私の手の中の石を見てから、小さく言った。
「触った人、あんまりよく帰れないことがあるから」
その言い方が、冗談に聞こえなかった。
けれど、だからといって本気で怖がるほどでもなかった。昔の人はそういう言い方をする。私はそう思って、結局、拾った石を元の上へ載せた。もう一つも持ち上げ、落ちていた石も台へ戻した。崩れる前の形をはっきり覚えていたわけではないので、なんとなくそれらしく積み直しただけだった。
石と石が触れたとき、かち、と乾いた音がした。
小さな音だったのに、夕方の道では妙にはっきり聞こえた。
タキさんは何も言わなかった。ただ、少しだけ顔をしかめたまま、袋を提げ直した。
私は軽く頭を下げ、そのまま歩き出した。
––
最初は、ただの遠回りをしただけだと思った。
住宅街の細い道は、久しぶりに歩くと案外わかりにくい。見覚えのある家も、塀を直したり駐車場になっていたりして、昔の記憶と少し違う。だから、曲がる角を一つ間違えたのだろうと最初は思った。
ただ、次に同じ自販機を見たとき、少しおかしいと思った。
赤い缶の飲み物だけ妙に並んだ古い自販機で、横の側面に剥がれたシールがある。さっき通ったときと同じだった。気のせいではないと思った。そこから少し行くと、小さな空き地があり、フェンスの根元に雑草が固まっている。そこも見覚えがあった。
さらに歩くと、また祠の前へ出た。
私は足を止めた。
祠は、さっき自分が石を積み直したままの形でそこにあった。空き地の角、低い屋根、夕方の湿った空気。間違いようがなかった。
気味が悪い、と思った。けれど、同時に、まだ自分を納得させる余地もあった。たまたま裏道を回り込んだだけかもしれない。実家へ来るのも久しぶりで、足が古い道順を覚えていなかっただけかもしれない。
祠は見ないようにして、今度は大きい通りへ出るつもりで歩いた。
そのあいだ、後ろで小さな音が何度かした。
かち、かち、と、乾いた石を指で積むような音だった。
最初は、誰かが道端の砂利を蹴っているのかと思った。振り返っても誰もいない。猫の姿もない。耳だけが、その音を変に鮮明に拾っていた。
二度目に祠の前へ戻ったとき、石の形が少し変わっている気がした。
一番上に置いた丸い石が、下から二番目に入っているように見える。自分の勘違いかもしれない。だが、さっきはなかった細長い石が一つ増えたようにも見えた。
私は急に、タキさんの言葉を思い出した。
触った人、あんまりよく帰れないことがある。
その言い方を思い出した瞬間、喉の奥が冷えた。
スマホの地図を開いた。現在地はちゃんと表示された。家のマークも、駅の位置も出ている。画面の上では、自分はもう県道に近い場所にいるはずだった。
けれど、顔を上げると、そこはまた祠の前だった。
地図の青い点だけが正しくて、私のいる場所の景色のほうが違っているみたいだった。
私はそれ以上、地図を見ないことにした。見ても余計にわからなくなる気がしたからだ。とにかく、見慣れた大通りへ出ればいい。車の多い道へ出れば、もう平気だろう。そう思って歩いた。
そのうち、本当に見覚えのある景色が出てきた。
ドラッグストアの看板。曲がり角の電柱。線路沿いの細い道へ入る手前の空き地。家の近所だと思った。私はそこで、やっと息をついた。
帰ってきた、と思った。
あと少し歩けば、踏切を渡る前の道へ出る。そこを曲がれば駅がある。もう大丈夫だと、そのとき本気で思った。
前方に、細い道が見えていた。暗くて輪郭は少し曖昧だが、何度も通ったことのある近道に見えた。私は何も疑わず、そこへ向かって歩いた。
「おい」
横から、強い声が飛んだ。
私はそこでようやく立ち止まった。次の一歩を出しかけていた足が、砂利を少し鳴らして止まる。
「どこ歩いてる」
怒鳴ったのは、作業着を着た中年の男だった。線路の保守をしている人らしく、懐中電灯を持っていた。男は私のすぐ横まで来て、腕をつかんだ。
そのとき私は、初めて自分の足元を見た。
コンクリの道だと思っていたのは、踏切脇の保守用通路だった。すぐ先にレールがあり、暗い中で鈍く光っている。あと二、三歩出ていれば、そのまま線路に足を乗せていたはずだった。
私は息を呑んだ。
目の前の看板も、近所の電柱だと思ったものも、よく見れば踏切の警告板と信号の支柱だった。家の近くまで戻ったと思っていた景色が、少しずつ別のものにすり替わっていたのだと、そのとき初めてわかった。
あと少しで家だと思っていた。声をかけられて我に返るまで、自分が線路の際を歩いていることにも気づかなかった。
男は私の顔を見て、
「大丈夫か」
と言った。
私はすぐには答えられなかった。喉が張りついて、何か言おうとしても声が出ない。
そのとき、足元で、かち、と小さな音がした。
見ると、通路の端のコンクリの上に、白っぽい小石が三つ、きれいに積まれていた。
祠の前にあったのと、よく似た石だった。
私はそのまましゃがみ込みそうになったが、男が腕を引いた。
「座るなら向こうで」
私はようやく、
「すみません」
とだけ言った。
男はそれ以上、何も聞かなかった。踏切の脇の詰所まで連れていき、水をひと口飲ませてくれた。顔を洗うかと聞かれたが、私は首を振った。
頭の中には、祠の石のことしかなかった。
––
線路脇の詰所を出たあと、私はまっすぐ帰らなかった。
自分でも、帰れないと思ったわけではない。ただ、このまま家へ向かったら、またどこかで道がずれる気がした。さっきまで家の近所だと信じていた景色が、まるごと別の場所だったことが、まだ体の中で収まっていなかった。
気づけば、足は祠のほうへ向かっていた。
夜になっていた。町はずれの道には街灯が少なく、祠の前はもうほとんど暗かった。屋根の下の影だけが濃く、石の白さだけが少し浮いて見える。
祠の前に立つと、積み直した石がまた崩れていた。
崩れている、というより、私がさっき置いた形がほどけて、もともとそこにあった並び方へ戻ろうとしているみたいだった。丸い石が端へ転がり、細い石が斜めに挟まっている。
私はしばらく、それを見ていた。
どう置けばよかったのかは、まだわからなかった。けれど、さっきみたいに「それらしく」積むのがまずかったことだけはわかった。形を作るのではなく、触る前の静かな感じへ戻すように置き直さなければならない気がした。
私はしゃがみ込み、今度は一つずつ石を持ち上げた。
最初よりずっと丁寧に触った。置くというより、元に返すように、下の石の傾きに合わせて重ねた。いちばん上の石は、さっき自分が載せた位置とは少し違うところで、そこでようやく落ち着いた。
最後に指を離したとき、石はもう鳴らなかった。
私はそのまま手を引いた。
背後で誰かが見ている気がして振り返ると、少し離れた家の前にタキさんがいた。暗くて表情は見えなかったが、こちらを見ているのはわかった。
「……それでいいよ」
と、タキさんは言った。
私は立ち上がった。
「さっき」
と言いかけたが、タキさんは首を振った。
「帰んな」
その言い方は、夕方と同じだった。ただ今度は、止める声ではなく、本当に帰らせる声だった。
私はそれ以上何も言わず、歩き出した。
祠を離れてしばらくすると、あれほど気になっていた音がしなくなっているのに気づいた。後ろからついてきていた小石の乾いた触れ合いも、どこかで聞こえるはずの足音もない。道は普通の夜道だった。コンビニの灯りも、自販機の赤さも、見覚えのあるままそこにあった。
今度は、ちゃんと駅前へ出た。
家までの道も、もう間違えなかった。
その夜は、線路の夢を見た。家の前の道だと思って歩いていると、足元のアスファルトがいつの間にか砂利に変わっていて、遠くで鈴でもない、石でもない、小さな乾いた音がする夢だった。目が覚めるたび、自分がまだ部屋の中にいることを確かめた。
それからしばらく、町へ戻るたびにあの祠の前を通った。
石は、いつもきれいに積まれていた。誰が積んでいるのかは知らない。昼間に見ても、ただの小石にしか見えない。けれど、夕方から先だけは、私は近づかない。崩れていても、そのまま通り過ぎる。
何を積んでいるのかも、何を触ってはいけなかったのかも、結局わからないままだった。
ただ、触った人はあまりよく帰れないことがある、というタキさんの言い方だけは、あの日から本当らしくなった。
そして、帰れなくなるのは、道が消えるからではないのだと今は思っている。ちゃんと帰れているつもりのまま、別の場所へ歩いていく。そのほうが、ずっとたちが悪い。




