鏡の布
祖父の三回忌で、その家に泊まることになった。
母方の本家で、山あいの村にある。法事そのものは昼に終わったが、翌朝も仏間の片づけが残るからと、私は伯母に言われて一晩だけ泊まることにした。子どものころには何度も来た家だったが、大人になってからは法事のたびに顔を出すだけで、泊まるのは十年以上ぶりだった。
家は古い平屋で、仏間のほかに客間が二つ、廊下の突き当たりに鏡台の置かれた小部屋がある。今は誰も使っていない部屋だが、昔は祖母が髪を結っていたらしい。鏡台は背の低い古いもので、三面鏡ではなく、大きな一枚鏡がついていた。木の枠は黒ずみ、引き出しの取っ手だけが少し赤く残っている。
夕方、親族がほとんど帰ったあと、伯母がその部屋の前で言った。
「夜になったら、鏡に布をかけてね」
「鏡に?」
「そう。この家ではそうするの」
「全部?」
「見えてるのはあれだけだから、あれだけでいいよ」
理由は言わなかった。
私は「ふうん」と答えた。法事のある家には、そういう細かな決まりが一つや二つあるものだと思っていた。実際、この家にも、仏間の襖は夜に閉め切らないとか、最後の線香の灰は朝まで払わないとか、昔からの決まりがいくつかある。どれも理由は曖昧で、聞けば「昔からそうだから」で済まされる。
鏡の布も、その一つなのだろうと思った。
伯母は台所の戸棚から白い布を一枚出し、私に渡した。
「寝る前でいいから」
「はい」
「忘れないようにね」
「そんなに大事?」
伯母は少し考えてから、
「うちじゃ夜はそうするの」
と言った。
「祖母さんにも、そう言われてきたから」
それだけだった。
––
法事が終わった家は、夜になると急に広くなる。
昼間は人が出入りし、声も絶えなかったのに、夕飯を終えてしまうと、仏間も廊下も元の静けさへ戻っていく。伯母は台所を片づけ、私は座敷の盆を下げ、使った湯呑みを洗った。外はもう暗く、雨戸を閉めると、家の中の灯りだけが木の柱に黄色く残った。
伯母は早く寝る人だった。九時を回るころには、「私は先に休むから」と言って奥の部屋へ引っ込んだ。
私は一人で居間に残り、祖父のアルバムを少し見ていた。若いころの祖父や祖母、まだ小さかった母、知らない親戚たち。何冊かめくるうち、時間は思ったより過ぎていた。
そのとき、突然、家の灯りが消えた。
ぱつん、と切れたというより、明かりが一度薄くなってから、すとんと落ちた。家の中がいきなり黒くなり、私はしばらく何も見えなかった。
停電だった。
外で風の音がした。さっきまで静かだったのに、雨戸の向こうで木々がざわついている。山の上のほうで雷が鳴ったようにも聞こえた。
「なに、停電?」
奥から伯母の声がした。
私は手探りでスマホを探し、明かりをつけた。細い白い光で廊下を照らすと、板の艶だけが浮き上がった。伯母の部屋へ行くと、伯母はもう起き上がっていた。
「懐中電灯、どこだったかな」
「台所の吊り戸棚じゃない?」
「電池、生きてるかしらね」
二人でばたばたと家の中を動き回った。懐中電灯は見つかったが、一つは暗く、もう一つは点いたり消えたりした。ブレーカーを見に行っても異常はなく、村じゅう停電しているらしかった。伯母は冷蔵庫を気にし、私は携帯の電波を確かめ、外の様子も見ようとしたが、雨戸が閉まっているのでよくわからない。
停電は思ったより長引いた。
伯母はろうそくを出してきて、仏間と居間に一本ずつ灯した。ろうそくの火は小さく、家の隅までは届かない。人が動くたびに影が揺れ、柱の角が別の形に見えた。
私はそのころには、鏡のことをすっかり忘れていた。
伯母も口にしなかった。停電のせいで寝る支度も遅れ、布団を敷くのも、戸締まりを見直すのも、何もかも順番がずれていた。結局、その晩は「もうこのまま寝てしまおう」ということになった。
廊下の突き当たりの小部屋は暗いままだった。
鏡に布をかける話を思い出したのは、布団に入ってからだった。
そういえば、と思ったが、もう起き直すのが億劫だった。小部屋まで行くにはろうそくかスマホの灯りがいるし、伯母も寝息を立てはじめている。停電の晩に鏡へ布をかけ忘れたくらいで何があるものか、と私はそのとき本気で思っていた。
––
夜のあいだ、何度か目が覚めた。
雷ではなく、家鳴りのせいだったかもしれない。古い家は、人がいなくなると音が増える。梁が鳴る音、柱の縮む音、雨戸の向こうの木の擦れる音。そのたびに目が覚めかけ、また眠った。
ただ一度だけ、廊下の向こうに薄く明るいところがある気がして、私は半分だけ目を開けた。
ろうそくの火が残っているのかと思った。けれど、その明るさは揺れていなかった。四角く、低く、暗い家の中でそこだけ少し白く見えた。廊下の突き当たり、小部屋のあたりだった気がする。
私は寝ぼけていたし、そこまではっきり見たわけでもなかった。停電しているのだから、そんな明かりがあるはずがない。夢のつづきのようなものだろうと思って、また目を閉じた。
––
朝になって、灯りは戻っていた。
伯母の家の朝は早い。私が目を覚ましたときには、伯母はすでに台所にいて、湯を沸かしていた。雨戸が少し開けられていて、白い朝の光が廊下の板に細く落ちている。
「電気、夜中のうちに戻ってたね」
と伯母が言った。
「そうみたいだね」
私は布団を畳みながら答えた。
そのとき、少しだけ妙な感じがした。
廊下が、昨夜より長く見えた。
本当に長くなっているわけではない。だが、仏間から台所へ行く途中、曲がり角の位置が少し遠いように感じられた。寝起きのせいだろうと思って歩き出したが、今度は仏間の襖の開き方がいつもと逆のように見えた。右に引くはずの襖が、左へずれて見える。もちろん触れば普通に右へ開いたから、見え方の問題なのだとわかった。
朝の家は静かで、昨夜の停電が嘘みたいだった。
私は顔を洗い、居間へ戻ろうとして、柱に掛けてあった家族写真に目を留めた。祖父母と親戚たちが並んだ、法事のたびによく見る写真だ。昨日も見たはずなのに、その朝は全員がほんの少し横を向いているように見えた。正面を向いて撮った写真のはずなのに、視線が揃っていない。しかも、その揃わなさが、ただの偶然ではなく、同じ方向へわずかに流れている感じだった。
私は写真を持ち上げ、首を傾げた。
「どうしたの」
と伯母が台所から聞いた。
「いや、写真って前からこんなだった?」
「どれ」
伯母が来て見ると、
「別に普通だよ」
とだけ言った。
私は写真を戻した。伯母には本当に普通に見えているらしかった。そのことが、少し嫌だった。
朝食のあと、私はふと思い出して小部屋の前へ行った。
鏡だった。
昨夜、布をかけ忘れた鏡が、そのままむき出しになっているはずだった。私は戸を少し開け、中を見た。
鏡台は、昨日のままそこにあった。
ただ、鏡の前に白い布が掛かっていた。
私は一瞬、足を止めた。昨夜、自分では絶対にかけていない。伯母が夜中に起きてやったのかと思ったが、あの騒ぎの中でそこまで気が回るとも思えなかった。
近づいてみると、布はきちんと畳んで掛けたのではなく、誰かの肩から落ちかけたみたいに片側だけが長く垂れていた。昨日伯母に渡された布と同じものに見えたが、そんな掛かり方をするだろうかと思うような、不安定な形だった。
「伯母さん、これ」
と呼ぶと、
「何」
と台所から返事があった。
「鏡の布、かけた?」
「かけてないよ」
その答え方は、ただの即答だった。知っていて隠すような調子ではなかった。
伯母が来て、小部屋を覗き込んだ。布を見た瞬間、顔が少しだけこわばった。
「……かけてないよ、ほんとに」
と小さく言った。
「私もやってない」
「そうかい」
伯母は戸口のところで立ち止まり、しばらく中を見た。
「外す?」
と私が聞くと、
「いや、そのままにしといて」
と言った。
「昼のうちは、そのままでいい」
それ以上は何も言わなかった。
––
その日、家の中はずっと少しずつ変だった。
襖の開きが見た目と手で触った感じで合わない。座布団を置くと、どれも縁の向きが揃っているはずなのに、一枚だけ反対向きに見える。廊下の突き当たりが、歩くたびに近くなったり遠くなったりする。茶箪笥の引き出しも、右から三番目だと思ったところが左から二番目だったりする。
大きな異変ではない。
物が消えるわけでもないし、何かが出てくるわけでもない。けれど家の中の向きや位置が、こちらの覚え方と噛み合わなくなっていく。まるで、家がもう一つあって、その向きが少しずつこちらに混じってくるようだった。
昼ごろ、私は廊下で伯母とすれ違った。
伯母は仏間から来たはずなのに、台所のほうを見ながら歩いてきた。ほんの一歩ぶん、体の向きと目線が合っていなかった。いや、そう見えただけかもしれない。だが、声をかけると伯母は少し遅れてこちらを向いた。
「やっぱり、変だよ」
と私は言った。
伯母は小さくうなずいた。
「夜に布をかけるのは、こういうのが嫌だからなんだろうね」
「前にもあったの」
「私は知らないよ」
「じゃあ、なんで」
「祖母さんがやってたから」
伯母はただそれだけを言った。
「私もそうしてきただけ」
その返し方に、妙な真実味があった。
私はその小部屋へ何度も目を向けた。布のかかった鏡は、昼のあいだずっとそのままだった。風もないのに布の端だけが少しずつ位置を変えている気がしたが、触るのは何となく嫌だった。
見て確かめたい気持ちもあった。
布を取れば、何かがわかるのかもしれない。けれど、その瞬間に家の中の向きがおかしくなっている理由まで、はっきりしてしまいそうで、私は手を出せなかった。
––
夕方、伯母が「ちょっとあれ見て」と言った。
居間の柱に掛けた時計だった。法事のときだけ出している丸い掛け時計だ。昨日までは仏間から見やすい位置へ掛けていた。それが、今見ると、文字盤の十二が少し右へ寄って見えた。
壊れているのかと思って近づいたが、針は普通に動いている。けれど、昨日この時計を自分で掛けた私は、少なくともあんな向きではなかったことを覚えていた。
家の中のどこを見ても、全部が少しずつそうだった。畳の目、襖の引手、仏壇の花、写真立て、時計。何一つ大きくはずれていないのに、どれもわずかに“こちらの覚え方”から外れていく。
その夜まで待たず、私たちは布をかけた鏡のことをもう一度確かめることにした。
小部屋の戸を開けると、昼より暗く感じた。まだ外は明るいのに、その部屋だけが少し先に夕方になっているみたいだった。鏡の前の布は相変わらず垂れている。
伯母は私より先に部屋へは入らなかった。
「布だけ、ちゃんとかけ直して」
と言った。
「それだけでいいから」
私は息をついて、小部屋へ入った。
畳は冷たかった。鏡台の前まで行くと、布の下から鏡の端が少しだけ見えた。そこに映っているはずの部屋の色が、今いる部屋より少し暗かった。停電の晩の色みたいに。
私は急いで布の端を持ち上げ、鏡全体を覆い直した。
その拍子に、布の下が一瞬だけ見えた。
鏡の中の部屋は、やはり少し暗かった。そこまではいい。問題は、鏡台の脇に誰かが立っていたことだった。
私ではない。伯母でもない。人影というほどはっきりしていないが、肩から上だけが白く、こちらを向いているものが、鏡の中の小部屋の隅にいた。こちらの部屋には当然何もない。ほんの一瞬だったが、見間違いではないと思った。
私は布を乱暴にかけ直し、後ろへ下がった。
「何か見たの」
と伯母が聞いた。
私はすぐには答えられなかった。
「……人みたいなのが」
伯母は顔色を変えたが、それでも部屋の中は見ようとしなかった。
「じゃあ、ちゃんとかけとこう」
とだけ言った。
布をきちんとかけ直してから、家の中の違和感は少しずつ薄れていった。襖の向きも、写真の目線も、時計の傾きも、夜になるころにはだいぶ元に戻っていた。
それでも、その晩は私はその家にもう一度泊まる気にはなれなかった。
伯母も引き止めなかった。「日があるうちに下りな」とだけ言って、私の荷物を玄関へ運んだ。
––
村を出る前、伯母が古い紙包みを持ってきた。
「鏡台の引き出し、さっき見たらこれが入ってた」
と言って渡されたのは、古びた便箋が数枚だった。どれも同じ家の者の筆跡ではなさそうで、年だけが端に書いてあるものもあった。
伯母は首を傾げながら、
「こんなの入ってたんだねえ」
と言った。
「私も知らなかったよ」
中身はどれも短かった。
「雷で停電 鏡の布かからず 朝、座敷の向き合わず」
「夜中まで明かり戻らず 鏡そのまま 仏壇の花みな内向く」
「停電の晩 鏡の布忘れ 朝、祖父の写真だけ横を向く」
「布かけた後、元へ戻る」
そういう文が、何年かおきにぽつぽつ残っていた。
説明はどこにもなかった。ただ、その晩のことを、思い出したくないので短く書きつけたような字だった。
いちばん古い紙には、たった一行だけだった。
「夜の鏡は、向こうの向きが残る」
私はその紙を何度も読み返した。
伯母は横で黙っていた。読んだからといって、急に何かを理解した顔にもならなかった。ただ、鏡台のほうを見ないようにしているのがわかった。
私は紙を包みに戻し、伯母に返した。
「また仕舞っといて」
と言うと、伯母はうなずいた。
「そうするよ」
それから、小さく、
「やっぱり夜は、布かけとくもんだね」
と言った。
それは何かを説明する言葉ではなく、いつものやり方へ戻るような口調だった。
村を下りる道で、バックミラーへ目が行きそうになった。けれど見なかった。見れば、後ろの景色の向きまで少しずれて見えそうな気がしたからだ。
停電の晩、鏡にだけ布をかけ損ねた。翌朝、家の中の向きが少しずつ合わなくなっていた。
いまでも、旅館や親戚の家で鏡を見つけると、夜になる前に布がないか探してしまう。
理由はうまく言えない。ただ、あの朝の家の感じを思い出すと、夜の鏡だけは、そのままにしておきたくない。




