第7暦 私の薬
「手を上げて。ゆっくり」
扉を開け言葉を発したのは、若い衛士だった。
剣先は俺の胸に向いているのに、男の目はミアの薬瓶に釘づけになっていた。
「君は…仕立て屋のフェルさん……確か、ミア・フェルだったか?」
ミアは男を見た。
「あなたは…工房に、制服の直しを出した人」
衛士の喉が動いた。
「ここで何をしている?」
「それは私が聞きたい。あの子に何をしてるの?」
ミアが寝台を指さして問うと、
衛士は空の寝台を見た。
「あの子って」
ミアが俺を見た。
今度は俺が、女の子の名を言った。
「リタ。そこにいる。兎を持ってる」
衛士は目を細めた。
剣先が下がる。
「……昨日の搬入票に、その名前があった。俺は票の通りに寝台を運んで、皿を置いただけだ。そこにいるのに、俺には見えないのか」
腰の鍵束が鳴った。
「明日の未明に、下の子たちは移送される。上の病室は閉鎖。理由は聞かされてない」
「移送先は?」
「…中央暦院、基底室」
リタが寝台を降りた。
ミアの上着の裾に触れる。
ミアは触れられた場所を見下ろしたが、彼女の顔は見つけられなかった。
「お姉さん、元気になった?」
俺はその言葉を、ミアに伝えた。
「……なったよ」
ミアの膝が折れた。
手探りで、小さな手を探す。
「ごめんね、見えなくて。…ごめんね、知らなくて」
リタは首を傾げた。
「よかった。痛いの、嫌だもんね」
その言葉を伝えるか迷いながらも、ミアに告げた。
ミアは顔を伏せた。
*
衛士の名はユリスだった。
俺たちを裏口へ逃がすと、彼は鍵束の一本をトビアスへ投げた。
「今夜の当番は俺だ。朝になれば変わる」
「一緒に来ないのか」
「子供を置いていけない」
門が閉まった。
外の空気を吸った途端、ミアの足がもつれた。
俺が支えると、彼女は大丈夫と首を振った。
だが、手の先が異様に冷たかった。
トビアスが荷車の覆いを捲った。
「座って。ここから東の道で出る」
「薬の箱、ここに置いたら」
「今は空だよ。中身は全部、置いてきた」
ミアは箱の横へ腰を下ろした。
俺は荷台の後ろへ乗ろうとして、やめた。
塀の中から、誰かが怒鳴る声がした。
「運び屋を呼び戻せ!」
トビアスは取っ手を握ったまま、俺を見た。
「歩け。走るな。後ろを見るな」
門の前に男が二人出てきた。
俺たちは曲がり角まで、普通の速さで進んだ。
車輪が敷石の溝に落ちる。
いつもの荷運びなら何でもない段差が、崖の縁のように感じられた。
「そこの荷車!」
トビアスが立ち止まった。
逃げれば間に合う距離ではなかった。
彼は苛立った顔を作り、肩越しに振り返った。
「今度は何?」
「受け取りの枚数が合わない。七箱とあるが六箱しかないぞ」
俺は掌を握った。
トビアスは荷台の伝票を持ち上げ、灯りの方へ向けた。
「そりゃ、七じゃなくて、六の書き直しだ。ここ、見ろよ。前の配達の番号が裏から透けてる」
男が寄ってきた。
ミアは顔を伏せ、外套の胸元を押さえた。
薬瓶の鎖が、わずかに鳴った。
「その女は」
「うちの見習い。荷受けの場所、覚えさせてる」
男の手が覆いにかかった。
俺は彼の手首を掴みかけた。
その前に、塀の内側で皿の割れる音がした。
「人が倒れた! 誰か来い!」
ユリスの声だった。
男が顔を上げた。
トビアスは伝票を彼の胸に押しつけ、取っ手を持ち上げた。
「明日の午前までに確認して。間違ってたら、残りを持ってくるから」
俺たちは角を曲がった。
トビアスが速度を上げる。
それでも、走らなかった。
「ユリス、平気かな」
ミアが荷台で言った。
誰も、平気だとは言えなかった。
橋の下まで来てから、トビアスは荷車を止めた。
膝に手をつき、息を吐いた。
その指は、取っ手に沿って白くなっていた。
「あの伝票、俺が書き替えた。戻ってきたら、たぶんばれる」
「だったら、さっき」
「切り抜けなきゃ、三人とも捕まってた」
俺は黙った。
彼は手の震えを隠すように、伝票の残りを畳んだ。
「次は、同じ入り方はできない」
廃棟の灯りは、川の向こうに小さく見えた。
あの部屋に、まだリタがいる。
ルカも、いる。
無事に外へ出たことを、俺は喜べなかった。
ミアが俺の袖を引いた。
「二人とも、帰ろう。今夜見たこと、忘れないうちに書こう」
彼女は、泣きそうな顔のままそう言った。
俺たちは頷き、再び車輪を回した。
帰り道、ミアは薬瓶の蓋を開けた。
俺は反射的に手を掴んだ。
「捨てるな」
彼女は俺の手を見た。
声を荒らげなかった。
「レイン。私、明日も生きたいよ」
蓋の内側で、一滴が揺れた。
「試験も受けたい。お母さんを一人にしたくない。あなたと朝ご飯、食べたい。だから、捨てたら全部済むみたいには思ってない」
彼女は自分で蓋を閉めた。
「でも、あの子に、また同じこと言わせたくない」
俺は手を離した。
「どうすれば、両方できるか考えよう」
ミアは頷いた。
いつもより、強く。




