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第6暦 空っぽの病室

トビアスの夜の配達に紛れて、俺たちは北の旧療養棟まで来た。

建物に、灯りは一つしかなかった。

塀の内側には雑草が伸びている。閉鎖の告示は、雨で半分剥がれていた。


「裏の納入口は夜に開く」


トビアスが荷車から白い外套を出した。


「入ったら、俺から離れないで。納入口の先は、道を知ってる奴の顔で歩け」


軽い口調だったが、トビアスは荷札を握り直していた。

俺は二つの箱を抱え、ミアへ受領用の伝票を渡した。


ミアは一番小さいものを羽織った。

俺を見る。


「止めないでね」

「離れるなよ」

「そっちも」


納入口で、トビアスは荷札を見せた。

門番は薬の箱を数え、俺たちの顔は見なかった。


通用廊下の先で、湯気の立つ皿を抱えた女が曲がってきた。


トビアスは何食わぬ顔で、箱の上の荷札を叩いた。


「薬の追加。受け取りの判、誰に貰えばいい?」


女は片肘で廊下の奥を示した。


「事務室。ここに置かないで。前の人、床に置いたから中まで湿ったんだよ」

「そりゃひどいな。苦情、言っとく」


彼は笑いながら進み、角を曲がってから、小声で俺たちへ言った。


「前の人って、俺だけど」


ミアが思わず笑いかけ、慌てて口を押さえた。

俺の肩も、少し下がった。

緊張を解いたのだと気づいて、トビアスを見たが、彼はもう事務室の扉を数えていた。


四枚目の扉の向こうで、男たちの声がした。


「外来の一名だけ、どうして別扱いなんだ」

「初期の試験対象だ。日常環境での経過を見る必要がある」


俺は足を止めた。

ミアが袖を引いた。


「聞こう」


彼女の声は震えていた。

それでも、逃げようとは言わなかった。


「他の患者が不満を言ってる。家へ戻れると話したのに、いつまで置くんだと」

「次の定着で完了する。上からも、もう追加予算は出せないと言われた」

「下の採取群は」

「移送の指示を待て」


椅子を引く音がした。

俺たちは一つ先の角へ移った。

ミアは壁に掌を当て、浅く息をしていた。


「初期の、一名って」


俺は答えなかった。

彼女が薬瓶を握る手に、自分の手を重ねた。


上の階から、咳が聞こえた。

ひどく年を取った男の声がした。


「頼むよ。家じゃなくてもいい。窓から通りを見たいだけなんだ」


看護人らしい声が、安静に、と返す。

俺たちは階段の下で動けなくなった。


廊下の壁に、上階の入院者名が貼ってあった。

五つの名前。

そのうち一つに、ミアが目を留めた。


「ドランさん」

「知ってるのか」

「工房で頼む靴の金具を、前に作ってくれた。病気で引退したって聞いてたけど」


他の患者の顔が、初めて想像できた。

俺にとっては、まだ死亡簿の黒い欄だった人たち。

ミアにとっては、話したことのある街の人だった。


「会いに行く?なにかわかるかも」


ミアが言った。


「今は駄目。あの人たちのところへ行っても、何もできない」


俺自身が言うべき言葉を、彼女が先に言った。


事務室で判を貰う間、俺たちは水差しを運ぶ手伝いをさせられた。

持っていく先は下の階だった。

廊下へ出ると、さっきの女が食器を持って戻ってきた。

彼女は俺たちを見ず、壁の小窓を閉めた。


その隙に、トビアスが俺たちの肩を押した。

俺たちは空き部屋へ身を隠した。


そこは、子供部屋だった。

小さな寝台が六つ。

畳まれた服。削りかけの鉛筆。紐で吊るした紙の鳥。

誰もいないのに、一つの毛布が動いた。


「誰だ」


声をかけると、ミアが俺の袖を掴んだ。


「レイン、何見てるの」


寝台の端に女の子が座っていた。

痩せた膝に、布で作った兎を抱いている。


「お兄さん、私が見える?」


俺は頷いた。

女の子はすぐには笑わなかった。

用心するように、兎を少しだけ持ち上げた。


「こっちは?」

「兎も見える」

「よかった。フィノまでいなくなったのかと思った」


ミアは俺が見ている場所に目を凝らした。


「誰かいるの?」

「女の子がいる」


俺は片膝をついた。


「名前、聞いていいか」

「リタ」

「リタって名前らしい」


ミアが小さく繰り返した。

リタ、と。

だが、視線は女の子を通り抜けたままだった。


「そこを見てるのに、分からない」


名前を知っても、彼女にリタが見えるわけではなかった。


リタは兎を下ろした。


「大丈夫。いつもそうだから」


ミアはそこに立ったまま、俺へ掌を差し出した。


「どこにいるか、教えて」


俺はリタへ、ミアの手に触れていいか尋ねた。

少女が頷き、小さな掌を重ねた。

ミアは何かを感じたように指を曲げたが、女の子の姿は見つけられなかった。


「あなたには、見えてるんだね」


俺が頷くと、彼女は空いた手を膝へ置いた。


「じゃあ、その子が言うことを、教えて。私に見えなくても、ちゃんと聞きたい」


リタは二人の手を不思議そうに見上げた。

俺は彼女の前に座った。


「ここにいつからいる?」

「寒くなったとき。……一回前の寒いときかも」

「家は?」


少女は兎の片耳を折った。


「あったと思う」


耳の先に、青い糸が縫いつけてあった。

ミアが触れてもいいかと尋ね、俺が同じ問いを伝えた。

リタが頷くと、彼女は耳の内側を指で確かめた。


「直してある。新しい糸と、古い糸が混ざってる」


俺がそう話すと、リタは少し嬉しそうにした。


「私が直す。先生が、捨てようって言うから」

「どうして」

「汚れてるから。でも洗うと、もっと破ける。だから、拭く」


彼女は毛布の端で、兎の鼻を拭いた。

何度も擦ったせいで、そこだけ布が薄くなっている。


隣の寝台に、木の馬が置いてあった。

脚が一本なく、立たない。

俺はそちらを見た。


「持ち主は?」

「名札は、ルカ。でも、誰のものか分かんない」


少女は隣の寝台を見た。


「夜、毛布が動くことがあるの。一人じゃないといいなと思って、話しかけてる」


リタにも、消された別の子は見えていなかった。


俺は毛布の膨らみを見た。

寝台に、男の子が一人眠っていた。

深く被った毛布に、寝顔が隠れていたのだった。顔が分かれば、そこにいることはもう見失わなかった。


「ルカ」


声に出すと、毛布が動いた。

小さな足が、一度だけ伸びた。


トビアスが入口で喉を鳴らした。

俺たちにだけ分かる、急げという合図だった。

リタは俺の顔を見た。


「もう帰る?」


俺は頷けなかった。

少女は兎の耳を元へ戻した。


「次も、分かるといいね」


自分のことだった。

ここで会った俺が、次には彼女を見つけられないかもしれない。その心配を、慰めるように話している。

俺は、自分の名前を言った。


「レイン」


リタは二度繰り返し、兎の耳元へ口を寄せた。

覚えておいて、と、小さく頼んでいた。


     *


そろそろマズいと思って部屋を出ようとし、入口横の

机に置いてあった観察表が目に入った。

ミアも気づいたようで二人で見ると


 第一段階、近親記憶の欠落。

 第二段階、第三者による認知の不安定化。

 第三段階、在籍の抹消。


薬の名前は、ミアの処方箋と同じだった。

ただし欄が違う。


 ミアは、投与先。







 リタは、採取元。


ミアが紙を持つ手を震わせた。


「私が、飲んでたのって」


答える前に、廊下から鍵の音がした。

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