第5暦 生きている人の話をして
「何の話だ」
俺が問うと、ガレスは一拍置いた。
「失礼。死亡簿の記憶についてです」
言い直し方が、滑らかすぎた。
彼は、二年前の流行時に試験的な救命措置が行われたと話した。古い記録には、その結果が正しく反映されていないのだという。
「ミアさんの日常を守るためにも、閲覧はお控えください」
「守るって、誰から」
返事はなかった。
馬車が去ってから、ミアは朝食の皿を片づけた。
俺も手を伸ばすと、皿を遠ざけられた。
「昨日、仕立屋さんに行ったんだってね」
「確かめたかった」
「私が本物かどうか?」
否定できなかった。
「ねえ、今日の私が何をしたか、聞いてくれない?」
彼女は布巾を握り直した。
「昨日は袖を逆につけて叱られた。一昨日は、子供の晴れ着を任せてもらった。来月、職人の試験がある。……私、自分のお店が欲しいんだよ」
知っていた。
幼い頃から、何度も聞いた夢だった。
でも彼女の口から「来月」という言葉を聞くのは、二年ぶりだった。
「お前が死んだのを、忘れられない」
「うん」
「今も、目を離したら」
続かなかった。
ミアは布巾を置いた。
「怖いのは分かった。でも、私の代わりに全部決めないで」
ミアは椅子を持ち上げ、壁の方へ向きを変えた。
俺が直した脚を確かめ、座る。膝に、仕事用の針山を置いた。
「今日、見に来て」
「どこへ?」
「お店。お昼過ぎなら、女将さんも少し暇だから」
俺は頷いた。
彼女はほっとしたように、針に糸を通した。
俺に見せるためではない、今日の仕事を始めた。
*
仕立屋の女主人は、エダという人だった。
俺の顔を見るなり、手を洗ってから入れと言った。
「布は、お前の仕事場の材木と違って、削れば済むものじゃないんだよ」
ミアが奥で笑った。女主人の言い方を知っている笑いだった。
店には、少年が一人いた。
新しい晴れ着の袖を持ち上げ、不満そうに腕を振っている。
「窮屈」
「どこが?」
「ここ。剣を振るとこ」
「式では剣、振らないよ」
ミアは言いながらも、縫い目をほどいた。
少年が両手を上げても肩が突っ張らないよう、脇に小さな布を足す。
俺には、完成した服のどこを変えたかほとんど分からなかった。
だが少年は着直すと、さっきより大きく腕を振った。
「できる!」
ミアはすぐに針を置いた。
「お店の中では駄目だよ?」
母親が頭を下げ、二人は出ていった。
戸が閉まると、ミアは残った小さな布切れを集めた。
「いつから、あんなことできるようになった」
「この二年で。最初は縫い直しばっかりだった」
エダが帳簿の向こうで鼻を鳴らした。
「今もだよ。ただ、客が何を嫌がってるか聞くようになった」
「褒められたと思っていいですか」
「好きにしな」
ミアが少し胸を張った。その顔を、俺は知らなかった。
閉店前、彼女は店の裏へ案内してくれた。
狭い物置の壁に、紙が貼られていた。
窓の大きな、小さな店の絵。
入口に段差がなく、棚の下が広く空いている。
「ここ、なんで空いてるんだ」
「座ったままでも、布を選べるように。あと、子供が入れる場所。大人がお話してると、退屈するでしょ」
隅には、小さな花が描かれていた。
昔の缶に俺が彫ったものに似ていた。蟹には、見えなかった。
「店の名前は?」
「まだ決めないよ」
彼女は迷いなく答えた。
「開けることになってから、考えたい。名前だけ決めたら、もうできた気になりそうだから」
俺は絵を見た。
この店がいつか本当に建つかどうか、まだ誰にも分からない。
それでも、ミアは棚の高さを考え、椅子の場所を決めている。
死んだ人の夢として、大事に仕舞っておくための絵ではなかった。
「扉くらいなら、作れる」
そう言うと、ミアがこちらを向いた。
「ちゃんと、お金払うよ」
「幼なじみから取れるか」
「仕事だもの。私だって、あなたの上着、今度から直し代もらう」
払ったことはない、と言いかけ、黙った。
彼女はそれに気づき、今度はからかわなかった。
「扉、頼むね。開くたびに引っかからないやつ」
俺は頷いた。
胸の中に、初めて、墓石以外の形が浮かんだ。
帰り道、ミアは空き店舗の前で立ち止まった。
昔、果物屋だった場所だ。
板戸には貸し出しの札が下がり、窓の下に割れた植木鉢が残っていた。
「見るだけ」
俺が何も言わないうちに、彼女はそう断った。
戸の横から中を覗く。
薄暗い土間に、朝の光が入りそうな大きな窓があった。
「ここ、いいかも。裏が倉庫で、上に部屋があって」
ミアは指で寸法を測るように、両手を広げた。
俺は戸口の梁を見た。
右の柱が少し沈んでいる。雨のあとには、戸が閉まりにくくなるだろう。
「直すなら、下からだな」
言うと、ミアが振り返った。
「もう見積もりしてる?」
「仕事だからな」
彼女は笑った。
俺も、少し笑えた。
管理人は裏の家に住んでいた。
ミアが窓越しに声をかけると、老人が鍵を持って出てきた。
見るだけだと繰り返す彼女へ、見るのはただだと笑って答える。
中は埃っぽかった。
ミアが咳き込み、窓を開けようとした。
俺は止めた。
彼女の体を案じてではなく、窓枠の釘が浮いていたからだった。
「指、切る。少し待って」
工具を取り出し、金具を押さえる。
ミアはその間、傍らの雑巾で窓の下を拭いた。
どこからか持ってきた小さな椅子に乗り、上の埃を落とす。
「借りるかどうかも決めてないのに」
俺が言うと、彼女は手を止めずに答えた。
「貸してもらって開けたんだから、汚したままにはできないでしょう」
修繕した留め具が動いた。
窓を押し上げると、通りの音が入ってきた。
荷車の軋み。魚売りの声。向かいの家で、誰かが椀を洗う音。
ミアは椅子から降り、土間の真ん中へ立った。
「ここに机を置いたら、通れる?」
俺は彼女の差す場所に工具袋を置き、客のつもりで歩いた。
狭い。
荷物を持っていれば、角へぶつかる。
「机をもう少し奥へ。あと、ここに椅子を置くなら、脚を短くして」
ミアは頷いた。
紙を持っていないので、埃の上に指で印をつけた。
俺もしゃがみ、戸が開く範囲に線を引いた。
二人で床へ絵を描いていると、管理人が見に来た。
「借り賃、聞かんのか」
ミアが顔を上げた。
告げられた金額に、口を閉じる。
手元の貯金では、契約時の金にも足りないらしかった。
俺は財布へ手を伸ばしかけた。
彼女が俺を見た。
首を横に振った。
「今日は、見に来ただけ」
管理人へ頭を下げ、ミアは床の印を雑巾で拭いた。
俺も工具を片づけた。
表へ出ると、彼女は大きく息を吐いた。
「すぐできる気がしたのに。数字、聞いたら、遠いね」
俺は、慰め方を考えた。
必ずできると言うのは簡単だった。
でも借り賃は、俺の言葉では安くならない。
「次は、寸法を書いて帰ろう」
ミアが俺を見た。
「もっと安い場所も見て、どれくらい直す金が要るか、比べよう」
彼女は頷き、笑った。
「それ、次の用事ね」
俺は頷いた。
死んだ彼女を思い出すとき、いつも、できなかったことを数えていた。
ここで一緒に、まだできないことを相談できる。
その違いを、言葉にはできなかった。
ミアは通りの先の店を見た。
布地が窓に並んでいた。
俺は彼女の隣へ、歩く速さを合わせた。
何も起きない一時間を、こんなに長く覚えていたいと思ったことはなかった。
*
その日の夕方、二人でセレナを訪ねた。
ミアは診察台の上に、薬瓶を置いた。
「これが何なのか、私にも話してください」
セレナは長く黙った。
やがて鍵をかけ、処方箋の裏に七つの丸を描いた。
「あなたを含めて、七人。同じ日に、この薬を始めた患者がいる」
「全員、助からなかった患者か」
俺の問いに、彼女は頷いた。
「私は、回復したと思っていた。自分の手で脈を確かめたから。でも、古い死亡票が残っていた。報告すると、処方に口を挟むなと言われた」
「いつから知ってた」
「半年くらい前」
ミアは、静かに薬瓶を引き寄せた。
「先生は、私を診るたびにそれを考えてたんですか」
セレナは顔を伏せた。
「……ごめんなさい」
「謝るなら、これから隠さないでください」
小さな瓶の底に、透明な一滴が残っていた。
セレナが七つの丸のうち一つを指で押さえる。
「供給が、今週で止まるみたい」
窓の外で、夕方の鐘が鳴った。
ミアの丸の隣で、七人目の丸だけが、滲んで見えた。
*
診療所を出て、俺たちは運び屋の荷置き場へ向かった。目当てのトビアスは、夜の配達分を荷車に積んでいた。
「北の旧療養棟へ、今夜も行くのか」
彼は手を止めこちらを振り向いた。
「行くけど。なんで?」
薬の供給が止まることを話すと、彼は荷台の箱を見た。箱の側面に、以前見せてもらった荷札と同じ印があった。
「俺たちも連れていってほしい」
「見学の受付はやってないと思うよ」
「お前と一緒なら入れるだろ。薬がどこで使われているのか、確かめたい」
トビアスは、俺からミアへ視線を移した。
「あんたも?」
「私が飲んでいるものだから。レインに聞いてきてもらうだけにはしたくない」
彼女はそう答え、薬瓶を握った。
トビアスはすぐには頷かなかった。
「俺がここを怪しんでるのは、運び先が帳簿と違うからだ。喧嘩を売りたいわけじゃない。配達を切られたら困るしな」
俺は、工具袋を肩から下ろした。
「調べるだけだ。荷を運ぶ手伝いとして入って、受け渡しの間に中を見る。騒ぎは起こさない」
「見つかったら、俺もお咎めなしで済むと思う?」
返せなかった。
彼は箱を持ち上げ、荷台の奥へ押し込んだ。
「……最近、空き家のはずの場所へ子供用の毛布まで運ばされてる。配達の控えには寝具としか残らない。何かあったら、運んだ俺の名前だけは残るんだろうな」
荷札を裏返し、自分の署名を見せる。
「届けた先が何をしてるか、俺も確かめたいとは思ってた。一人で門を潜って、こっそり見て回る度胸はなかったけど」
俺は彼を見た。
助けるから任せろ、とは言わなかった。
彼にも、知っておきたい理由があった。
「納入口から、俺が案内する。お前は箱を運べ。彼女は受け取りの伝票を持つ。配達の補助なら、二人増えても言い訳はできる」
トビアスは荷台を叩いた。
「ただし、受領の判を貰うまで。奥へ行く道がなければ、今夜は帰る。いいな」
俺はミアを見た。
彼女が頷いたのを確かめてから、俺も頷いた。
「分かった。頼む」
「外套を借りてくる。荷運びの連中が使ってるやつ。そこで待ってろ」
彼が倉庫へ入ると、ミアは荷札を手に取り、届け先と箱の数を読み直した。
俺は積み残しの箱を持ち上げた。
何ができるのかは、まだ分からない。
それでも、そこへ行くための役目は決まった。




