↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/8

第5暦 生きている人の話をして

「何の話だ」


俺が問うと、ガレスは一拍置いた。


「失礼。死亡簿の記憶についてです」


言い直し方が、滑らかすぎた。


彼は、二年前の流行時に試験的な救命措置が行われたと話した。古い記録には、その結果が正しく反映されていないのだという。


「ミアさんの日常を守るためにも、閲覧はお控えください」

「守るって、誰から」


返事はなかった。


馬車が去ってから、ミアは朝食の皿を片づけた。

俺も手を伸ばすと、皿を遠ざけられた。


「昨日、仕立屋さんに行ったんだってね」

「確かめたかった」

「私が本物かどうか?」


否定できなかった。


「ねえ、今日の私が何をしたか、聞いてくれない?」


彼女は布巾を握り直した。


「昨日は袖を逆につけて叱られた。一昨日は、子供の晴れ着を任せてもらった。来月、職人の試験がある。……私、自分のお店が欲しいんだよ」


知っていた。

幼い頃から、何度も聞いた夢だった。

でも彼女の口から「来月」という言葉を聞くのは、二年ぶりだった。


「お前が死んだのを、忘れられない」

「うん」

「今も、目を離したら」


続かなかった。

ミアは布巾を置いた。


「怖いのは分かった。でも、私の代わりに全部決めないで」


ミアは椅子を持ち上げ、壁の方へ向きを変えた。

俺が直した脚を確かめ、座る。膝に、仕事用の針山を置いた。


「今日、見に来て」

「どこへ?」

「お店。お昼過ぎなら、女将さんも少し暇だから」


俺は頷いた。

彼女はほっとしたように、針に糸を通した。

俺に見せるためではない、今日の仕事を始めた。


     *


仕立屋の女主人は、エダという人だった。

俺の顔を見るなり、手を洗ってから入れと言った。


「布は、お前の仕事場の材木と違って、削れば済むものじゃないんだよ」


ミアが奥で笑った。女主人の言い方を知っている笑いだった。


店には、少年が一人いた。

新しい晴れ着の袖を持ち上げ、不満そうに腕を振っている。


「窮屈」

「どこが?」

「ここ。剣を振るとこ」

「式では剣、振らないよ」


ミアは言いながらも、縫い目をほどいた。

少年が両手を上げても肩が突っ張らないよう、脇に小さな布を足す。

俺には、完成した服のどこを変えたかほとんど分からなかった。

だが少年は着直すと、さっきより大きく腕を振った。


「できる!」


ミアはすぐに針を置いた。


「お店の中では駄目だよ?」


母親が頭を下げ、二人は出ていった。

戸が閉まると、ミアは残った小さな布切れを集めた。


「いつから、あんなことできるようになった」

「この二年で。最初は縫い直しばっかりだった」


エダが帳簿の向こうで鼻を鳴らした。


「今もだよ。ただ、客が何を嫌がってるか聞くようになった」

「褒められたと思っていいですか」

「好きにしな」


ミアが少し胸を張った。その顔を、俺は知らなかった。


閉店前、彼女は店の裏へ案内してくれた。

狭い物置の壁に、紙が貼られていた。

窓の大きな、小さな店の絵。

入口に段差がなく、棚の下が広く空いている。


「ここ、なんで空いてるんだ」

「座ったままでも、布を選べるように。あと、子供が入れる場所。大人がお話してると、退屈するでしょ」


隅には、小さな花が描かれていた。

昔の缶に俺が彫ったものに似ていた。蟹には、見えなかった。


「店の名前は?」

「まだ決めないよ」


彼女は迷いなく答えた。


「開けることになってから、考えたい。名前だけ決めたら、もうできた気になりそうだから」


俺は絵を見た。

この店がいつか本当に建つかどうか、まだ誰にも分からない。

それでも、ミアは棚の高さを考え、椅子の場所を決めている。

死んだ人の夢として、大事に仕舞っておくための絵ではなかった。


「扉くらいなら、作れる」


そう言うと、ミアがこちらを向いた。


「ちゃんと、お金払うよ」

「幼なじみから取れるか」

「仕事だもの。私だって、あなたの上着、今度から直し代もらう」


払ったことはない、と言いかけ、黙った。

彼女はそれに気づき、今度はからかわなかった。


「扉、頼むね。開くたびに引っかからないやつ」


俺は頷いた。

胸の中に、初めて、墓石以外の形が浮かんだ。


帰り道、ミアは空き店舗の前で立ち止まった。

昔、果物屋だった場所だ。

板戸には貸し出しの札が下がり、窓の下に割れた植木鉢が残っていた。


「見るだけ」


俺が何も言わないうちに、彼女はそう断った。

戸の横から中を覗く。

薄暗い土間に、朝の光が入りそうな大きな窓があった。


「ここ、いいかも。裏が倉庫で、上に部屋があって」


ミアは指で寸法を測るように、両手を広げた。

俺は戸口の梁を見た。

右の柱が少し沈んでいる。雨のあとには、戸が閉まりにくくなるだろう。


「直すなら、下からだな」


言うと、ミアが振り返った。


「もう見積もりしてる?」


「仕事だからな」


彼女は笑った。

俺も、少し笑えた。


管理人は裏の家に住んでいた。

ミアが窓越しに声をかけると、老人が鍵を持って出てきた。

見るだけだと繰り返す彼女へ、見るのはただだと笑って答える。


中は埃っぽかった。

ミアが咳き込み、窓を開けようとした。

俺は止めた。

彼女の体を案じてではなく、窓枠の釘が浮いていたからだった。


「指、切る。少し待って」


工具を取り出し、金具を押さえる。

ミアはその間、傍らの雑巾で窓の下を拭いた。

どこからか持ってきた小さな椅子に乗り、上の埃を落とす。


「借りるかどうかも決めてないのに」


俺が言うと、彼女は手を止めずに答えた。


「貸してもらって開けたんだから、汚したままにはできないでしょう」


修繕した留め具が動いた。

窓を押し上げると、通りの音が入ってきた。

荷車の軋み。魚売りの声。向かいの家で、誰かが椀を洗う音。

ミアは椅子から降り、土間の真ん中へ立った。


「ここに机を置いたら、通れる?」


俺は彼女の差す場所に工具袋を置き、客のつもりで歩いた。

狭い。

荷物を持っていれば、角へぶつかる。


「机をもう少し奥へ。あと、ここに椅子を置くなら、脚を短くして」


ミアは頷いた。

紙を持っていないので、埃の上に指で印をつけた。

俺もしゃがみ、戸が開く範囲に線を引いた。


二人で床へ絵を描いていると、管理人が見に来た。


「借り賃、聞かんのか」


ミアが顔を上げた。

告げられた金額に、口を閉じる。

手元の貯金では、契約時の金にも足りないらしかった。


俺は財布へ手を伸ばしかけた。

彼女が俺を見た。

首を横に振った。


「今日は、見に来ただけ」


管理人へ頭を下げ、ミアは床の印を雑巾で拭いた。

俺も工具を片づけた。


表へ出ると、彼女は大きく息を吐いた。


「すぐできる気がしたのに。数字、聞いたら、遠いね」


俺は、慰め方を考えた。

必ずできると言うのは簡単だった。

でも借り賃は、俺の言葉では安くならない。


「次は、寸法を書いて帰ろう」


ミアが俺を見た。


「もっと安い場所も見て、どれくらい直す金が要るか、比べよう」


彼女は頷き、笑った。


「それ、次の用事ね」


俺は頷いた。

死んだ彼女を思い出すとき、いつも、できなかったことを数えていた。

ここで一緒に、まだできないことを相談できる。

その違いを、言葉にはできなかった。


ミアは通りの先の店を見た。

布地が窓に並んでいた。

俺は彼女の隣へ、歩く速さを合わせた。

何も起きない一時間を、こんなに長く覚えていたいと思ったことはなかった。


     *


その日の夕方、二人でセレナを訪ねた。

ミアは診察台の上に、薬瓶を置いた。


「これが何なのか、私にも話してください」


セレナは長く黙った。

やがて鍵をかけ、処方箋の裏に七つの丸を描いた。


「あなたを含めて、七人。同じ日に、この薬を始めた患者がいる」

「全員、助からなかった患者か」


俺の問いに、彼女は頷いた。


「私は、回復したと思っていた。自分の手で脈を確かめたから。でも、古い死亡票が残っていた。報告すると、処方に口を挟むなと言われた」

「いつから知ってた」

「半年くらい前」


ミアは、静かに薬瓶を引き寄せた。


「先生は、私を診るたびにそれを考えてたんですか」


セレナは顔を伏せた。


「……ごめんなさい」

「謝るなら、これから隠さないでください」


小さな瓶の底に、透明な一滴が残っていた。

セレナが七つの丸のうち一つを指で押さえる。


「供給が、今週で止まるみたい」


窓の外で、夕方の鐘が鳴った。

ミアの丸の隣で、七人目の丸だけが、滲んで見えた。


   *


診療所を出て、俺たちは運び屋の荷置き場へ向かった。目当てのトビアスは、夜の配達分を荷車に積んでいた。


「北の旧療養棟へ、今夜も行くのか」


彼は手を止めこちらを振り向いた。


「行くけど。なんで?」


薬の供給が止まることを話すと、彼は荷台の箱を見た。箱の側面に、以前見せてもらった荷札と同じ印があった。


「俺たちも連れていってほしい」


「見学の受付はやってないと思うよ」


「お前と一緒なら入れるだろ。薬がどこで使われているのか、確かめたい」


トビアスは、俺からミアへ視線を移した。


「あんたも?」


「私が飲んでいるものだから。レインに聞いてきてもらうだけにはしたくない」


彼女はそう答え、薬瓶を握った。

トビアスはすぐには頷かなかった。


「俺がここを怪しんでるのは、運び先が帳簿と違うからだ。喧嘩を売りたいわけじゃない。配達を切られたら困るしな」


俺は、工具袋を肩から下ろした。


「調べるだけだ。荷を運ぶ手伝いとして入って、受け渡しの間に中を見る。騒ぎは起こさない」


「見つかったら、俺もお咎めなしで済むと思う?」


返せなかった。

彼は箱を持ち上げ、荷台の奥へ押し込んだ。


「……最近、空き家のはずの場所へ子供用の毛布まで運ばされてる。配達の控えには寝具としか残らない。何かあったら、運んだ俺の名前だけは残るんだろうな」


荷札を裏返し、自分の署名を見せる。


「届けた先が何をしてるか、俺も確かめたいとは思ってた。一人で門を潜って、こっそり見て回る度胸はなかったけど」


俺は彼を見た。

助けるから任せろ、とは言わなかった。

彼にも、知っておきたい理由があった。


「納入口から、俺が案内する。お前は箱を運べ。彼女は受け取りの伝票を持つ。配達の補助なら、二人増えても言い訳はできる」


トビアスは荷台を叩いた。


「ただし、受領の判を貰うまで。奥へ行く道がなければ、今夜は帰る。いいな」


俺はミアを見た。

彼女が頷いたのを確かめてから、俺も頷いた。


「分かった。頼む」


「外套を借りてくる。荷運びの連中が使ってるやつ。そこで待ってろ」


彼が倉庫へ入ると、ミアは荷札を手に取り、届け先と箱の数を読み直した。

俺は積み残しの箱を持ち上げた。

何ができるのかは、まだ分からない。

それでも、そこへ行くための役目は決まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。