第4暦 七人目の名前
老人はオルンと名乗った。
かつて、この塔の時計を守っていたという。
「時間を戻した…?」
「針を戻して腹が減る前に戻れるなら、わしはとっくに金持ちだ」
机には、同じ年の街の地図が二枚あった。
一枚では橋が落ち、もう一枚では架かったままになっている。
「暦院が直すのは、出来事のつながりだ。助からなかった者が助かったなら、街はその者が生きた分の辻褄を作る。帳面も、持ち物も、大抵の記憶も」
「どうして俺は覚えてる」
「分からん。だから、あいつらはお前を見るだろう」
オルンは推測を事実のようには言わなかった。
それが、かえって怖かった。
「証拠はあるのか」
俺が問うと、老人は壁の棚を開けた。
中には、木製の札が並んでいた。日付の下に、天気と水位と、渡し船の運航数が細かく刻まれている。
「時計番は、鐘を鳴らすだけじゃない。河が増水すれば荷揚げの時刻を変える。火が出れば半鐘を打つ。ここには、街の暮らしが入ってくる」
二枚の札を差し出された。
同じ日付。一枚には大雨、もう一枚には晴天とある。
「書き間違いなら」
「わしも最初はそう思った」
オルンは雨と記された札の裏を見せた。
丸い染みが、木目に沿って広がっている。
「川へ落とした。拾うときに、左の靴まで流された。晴れていた方の日も、わしは左の靴を新調している。理由は、階段で裂いたことになっていた」
老人は床を杖で叩いた。
「間違いが一つなら、年寄りの勘違いで済む。七つ、十、二十と出れば、さすがに気になる」
「他の人には?」
「言った。塔の修繕費を止められ、仕事をなくした。見せた札は、雨という字だけ消えた」
俺は手元の札を見た。
確かに、雨という字だけ彫られている。
「これは残ってる」
「拾って以来、この塔の下から出しておらん。昔の暦盤の部品が地下にある。近くにあるものは、書き換えが遅い。それで、いくらか残せた」
オルンは俺へ札を差し出したまま、尋ねた。
「いま、どっちに何と書いてある」
「右が雨。左が晴れ」
トビアスも覗き込んだ。
「どっちも晴れだけど」
俺は赤毛の男を見た。
ふざけた顔ではなかった。
オルンは札を取り上げ、棚に戻した。
「わしには、かろうじて違うことが分かる。目を凝らして、前に見た形を思い出して、ようやくな。お前は違う。自分の知るものが間違っているとは、まだ思いきれんのだろう」
答えられなかった。
ミアが死んだという記憶は、俺には痛いほど確かだった。それを持っていることが能力のように扱われると、どうしても違和感があった。
「忘れた方が、幸せじゃないのか」
口に出てから、そんなことを考えていた自分に気づいた。
トビアスは俺の顔を見なかった。
オルンは、しばらく掌の皺を見ていた。
「かもしれん」
老人は静かに言った。
「覚えている側の都合だけで、他人の今を壊していいとも思わん。だから、まず調べるんだ」
「薬は?」
「戻った者を、今ある出来事に留める錨だろう。わしが知るのは古い仕組みだけだ。今の調合は知らん」
トビアスが小さな紙束を置いた。
「これ、北の旧療養棟へ届いてる荷物。薬の容器と、子供用の食器。帳簿じゃ空き家なのに」
食器は七組。
俺は死亡簿に見た文字を話した。
「改暦対象七名、か」
オルンは一番小さい懐中時計を握った。
帰ろうとしたとき、オルンが呼び止めた。
「ミアは今朝、何を食べた」
「パン。焦がしたやつ」
「そうか」
オルンは、ほんの少し笑った。
「疑うのは結構だ。だが、そこまで疑ってやるな」
*
塔を出たあと、トビアスが俺を呼び止めた。
荷車には、まだ配達前の箱が積まれている。
「あの爺さん、前に一人で暦院へ殴り込みかけたことがある」
「どうしてお前が止めた」
「俺が運ぶ予定の部品を、勝手に持っていこうとしたから」
彼は笑ったが、すぐに真顔へ戻った。
「戻ってきた幼なじみ、見たよ。お前にパン渡してた。元気そうだった」
「見てたのか」
「昼も夜も、その辺を回る仕事だからな」
それがどこまで本当なのかは、分からなかった。
「お前、誰かと暮らしたことある?」
急に聞かれた。
「子供の頃は、親と」
「生きてる相手が、毎日思った通りのことをするわけじゃないだろ。お前の知らない二年を持ってるなら、その子はその子なりに生きてたんだと思うけど」
荷車の取っ手を持ち、彼は歩き出した。
呼び止めると、片手だけ上げた。
「親切で言ったんじゃないよ。お前が暴れりゃ、配送先が一つ減る」
俺はその背中を見送った。
結局、礼は言えなかった。
でも帰り道、仕立屋の前を通ったとき、窓の向こうを見た。
ミアが布を広げ、女主人と何か言い合っていた。
笑ってはいなかった。
額を寄せ、真剣に、図面を覗き込んでいた。
彼女が俺の知らない場所で過ごす時間を、初めて、ちゃんと見た気がした。
*
翌朝、家の前に灰色の馬車が止まっていた。
降りてきた男は、暦院で死亡簿を閉じた男だった。
「ガレスです。記録保全部を預かっています」
差し出された名刺は受け取らなかった。
ガレスは手を戻した。
「ミアさんの経過を確認に」
「先生ならいる」
「医療上の話ではありません」
玄関が開き、ミアが顔を出した。
男を見ると、彼女は銀の瓶を握った。
「薬の日、まだですよね」
「ええ。今日はお話だけです」
俺は二人の間に立った。
「七人って、誰だ」
ガレスの視線が、俺の右手首に落ちた。
子供の頃からある、白い輪のような痕。
「どこまで、思い出しましたか」




