第3暦 あの日、振り向かなかった
二年前、診療所は病人で埋まっていた。
灰熱病は喉の痛みから始まり、最後には血を灰のような色に変えたものを吐く。
ミアの呼吸が浅くなった夜、俺は薬を探して街を走った。
薬屋は閉まり、教会は病床を増やすために長椅子を外へ出していた。
橋の袂で、突然少年に袖を引かれた。
「母さんが動かないんだ」
少年は涙を懸命に堪えながら、橋の下を指差した。
母親らしきら女が倒れていた。まだ息はあったように見えた。
「誰か、大人を呼べ」
「みんな、行っちゃう」
俺は時間が惜しいとばかりに袖を振りほどいた。
「俺も急いでるんだ」
少年の指が空を掴んだ。
何かを言っていたような気がした。
俺は振り向かなかった。
薬は見つからなかった。
ミアも、助からなかった。
*
「ナオだよ」
診療所の少年は名乗った。
俺のことは覚えていないようだった。
「お母さんの名前は」
「忘れた」
責められるより、苦しかった。
セレナは、ナオは西の施療院から移ってきた子だと言った。保護記録に母の名がなく、引き取り手も見つからないのだと。
俺は椅子に座った。
ナオの目の高さまで、顔を下げる。
「明日も、ここに来ていいか」
「なんで?」
許してほしいから。
そう言いかけて、飲み込んだ。
この子は、俺を楽にするために生きているわけじゃない。
「お母さんを探すの、手伝いたい」
ナオは林檎を見た。
「名前が分からなくても?」
「うん」
*
翌日の昼、ナオと川沿いを歩いた。
ミアは仕立屋の休み時間を使って来た。俺が説明すると、彼女はナオに尋ねた。
「誰かがいなくなったとき、最初にどこへ聞きに行った?」
少年は考え込んだ。
ミアは答えを待ちながら、隣を歩いた。
「橋の、おじさん」
ナオが指したのは、渡し船の料金所だった。
橋は二年前に修理され、その間だけ、小舟が向こう岸まで人を運んでいた。
俺の記憶では、病の流行と同じ時期に橋の床板が腐り、大勢が遠回りをした。
ミアは、修理は半月で済んだと言った。
俺はもっと長かったように思ったが、今は確かめなかった。
料金所の男はナオの顔を覚えていた。
「施療院に引き取られたんじゃなかったのか」
「母さんのこと、覚えてる?」
男は帽子を脱ぎ、頭を掻いた。
「悪いなあ。子供連れの女の人なんて、大勢通ったから」
ナオは服の裾を掴んだ。
俺は身を乗り出しかけた。
だが、ミアが先に言った。
「渡し船の帳面、残ってますか。あの頃、施療院の送り状を運んでいたって聞いて」
男は小屋に入り、湿った紙の束を持ち出した。
施療院の印。人数。寝台の数。
そして、名前を書く欄だけが不自然に広く空いていた。
「ここは?」
「元から、書いてなかったんだろ」
男の指は紙の上を滑った。
俺には見えた。
消えた文字の筆圧だけが、紙の裏に残っている。
「貸してもらえますか」
鉛筆を寝かせて、薄く擦った。
最初の一画が浮かんだ。
ナオが息を止める。
だが、形になりかけた途端、その部分だけ紙が柔らかくなった。
芯が破れ目へ沈んだ。
名前は、出てこなかった。
「ごめん」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
ナオは紙の穴を見つめていた。
「書いてあったんだね」
俺は少年を見た。
「母さんの名前かもしれないのが、ここに、あったんだね」
確かめられなかった、と言いかけてやめた。
この子にとっては、何もなかったのと同じではなかった。
「ああ。誰かが書いた名前があった」
ミアは料金所の男に礼を言い、破れた箇所を別の紙で挟んだ。
川風で飛ばないよう、慎重に。
帰りに、三人で焼き栗を買った。
ナオは紙袋を抱え、温かい、と言った。
それから一つだけ、袋の底へ戻した。
俺は見ないふりをした。
ミアは見ていたが、何も言わなかった。
診療所へ戻る前に、橋の男が教えてくれた市の保護窓口へ寄った。
元の引き取り先を辿れば、母親の身元へ届くかもしれない。
受付の女は、ナオの名と年齢を聞き、薄い名簿を捲った。
「この子の届け出なら、あります」
俺は身を乗り出した。
女は机の奥から、二年前の控えを出した。
保護場所は、橋の北。
見つかった日付も、俺が走った夜の翌朝だった。
「保護者の欄は」
「不明です。引き渡し先は、西の施療院。その後の記録は、医療担当の管轄になります」
紙には、はっきりと保護者不明と書かれていた。
俺はその下の空白を見た。
今度は、文字が消えた跡もなかった。
「最初から、そう書いてあったんですか」
女は困ったように頷いた。
「原本の通りです」
ミアが窓口の横に立った。
「レインは、この子がお母さんと一緒にいたところを見ています。その証言を、書き足せませんか」
受付の女は、最初の届け出を指で押さえた。
「確認できない情報を、確定の欄へ書くことはできません」
俺の口が開きかけた。
ミアは、その前に尋ね直した。
「じゃあ、この子がそう話したという記録なら?」
女は二人を見た。
少し考え、別の用紙を出した。
「聞き取りの追記なら、できます」
俺が椅子へ座り、あの夜に見たことを話した。
橋の下に女の人が倒れていたこと。少年が母さんと呼んでいたこと。
受付の女は、俺の名を証言者の欄へ書いた。
「そのあと、この子はどこへ?」
「分かりません。俺は、そこを離れたから」
ナオは俺の横に座り、黙って聞いていた。自分の過去なのに、俺から聞く以外に手掛かりがない。
「俺、戻ったのかな」
少年が尋ねた。
俺は、その先を作れなかった。
「ごめん。そこは見ていない」
女は、確認できたのはそこまでだと記した。
ナオは二度、頷いた。
「俺は覚えてない。でも、この人は見たんだね」
紙の上に、短い証言ができた。
母親が誰かを証明するものにはならない。
それでも、俺しか覚えていなかった人の存在が、証言という形で机の上に置かれた。
女は読み上げ、間違いがないか尋ねた。
ナオは、自分でも読みたいと言った。
読めない字は、ミアが教えた。
「これ、取っといてくれる?」
「記録として保管します」
女は頷いた。
俺は、また文字が変わるかもしれないと思った。
今の俺には、これが消えないと保証できなかった。
だから、その受付の女の名を聞いた。
「リゼです」
「また、確かめに来ます」
女は顔を上げ、今度は少し丁寧に頷いた。
口を出ると、ナオは前より静かだった。
疲れたのかと聞けば、首を振る。
「母さん、いなかったってことに、されなくてよかった」
俺は道端で立ち止まりそうになった。
病気で亡くなったのかもしれない人を探す仕事の、そのずっと手前に、この子はいた。
名前や居場所を見つけるより先に、誰かがいたということを、信じてもらう必要があった。
ミアが少年へ、残った焼き栗を渡した。
ナオは袋の底から、一度戻した一粒を出した。
まだ、少しだけ温かかった。
診療所へ着くと、少年は入口で立ち止まった。
「今日、見つからなかったけど」
こちらを向く。
「また、行く?」
俺は頷いた。
胸が痛んだ。
一日歩いて、名前一つ見つけられなかった。それなのに、この子はまた来てほしいと言っている。
「行こう」
*
夕方、俺は倉庫へ戻った。
ベルトは片づけを始めていた。
直しかけの棚は、そのまま壁際に置かれていた。
「明日も休ませてほしい」
俺が言うと、親方は手を止めた。
「幼なじみのことか」
「それと、探してる人がいる」
彼は、すぐには答えなかった。
帳簿を開き、俺が請け負った仕事の欄を見た。
「休むのはいい。だが、この棚の修理は今夜中に納める予定だ。お前ができないなら、別の奴に頼む。そっちの手間賃は、こっちから引くぞ」
俺は頷いた。
仕事を放ってまでやるべきことがあるからといって、誰かがその仕事を代わりにしてくれるわけではない。
「今夜、直します」
「明日の朝までに、でいい。灯りの油は、自分の分を使え」
ベルトは鍵を卓へ置いた。
何を探しているか、詳しくは聞かれなかった。
俺は上着を脱ぎ、棚の前へ座った。
傷んだ板を外す。
節のある木材を選び直す。
鉋をかけていると、昼にナオが紙をなぞった指先が、何度も浮かんだ。
手元を見なくなる。
刃が、木目へ深く入りすぎた。
俺は手を止めた。
やり直すには、もう一枚板が要る。
ベルトに、材料代も払うことになる。
目を閉じ、息を吐いた。
誰かを助けたいと思っているだけでは、目の前の仕事まで上手くなるわけではなかった。
戸が開いた。
ミアが、布に包んだ夕食を持って立っていた。
「まだいた。家にも診療所にもいないから」
「悪い。仕事、残してたから」
彼女は棚を見た。
新しい板を持ち上げ、重そうに両手で支える。
「これ、全部一人でやるの?」
「元々、そういう約束」
ミアは夕食を置いた。
「じゃあ、先に食べよう!私も、持って帰った裾直しの仕事持ってきてあるから」
二人で入口の段へ座った。
豆の煮込みと、硬いパン。
ミアは小さな針山を膝に置き、食べ終えると自分の仕事を始めた。
俺も棚へ戻った。
削る音と、布を引く音。
会話がなくても、隣にいることは分かった。
できあがった棚の脚を揃えるとき、ミアが立ち上がった。
「ここ、押さえればいい?」
「指、そこへ入れるな。上から。そう」
彼女が押さえ、俺が留め具を締める。
平らな床へ立てると、棚はもう揺れなかった。
ミアが掌を離した。
「できたね!」
ただの棚だった。
明日には箱が置かれ、誰が直したかを気にする者もいなくなる。
それでも、俺は一つ仕事を終えた。
明日、誰かを探しに行くために、今夜ここで終わらせなくてはならなかったことだった。
戸を閉めると、通りには灯りが少なくなっていた。
ミアの針仕事は、まだ少し残っていた。
彼女は歩きながら縫おうとしたので、危ないと止めた。
「レインも、考え事しながら刃物、使わないでね」
失敗した木材を、見られていた。
俺は苦笑いを浮かべ頷いた。
二人で家へ帰る道を、覚えるつもりで歩いた。
*
翌日の午後、暦院の裏口で、荷車の男にぶつかった。
紙の束が石畳に散らばる。
「目、ついてんのか?」
赤毛の男は文句を言いながら、俺の袖口に紙切れを押し込んだ。
表向きは荷札だった。
裏に、細い文字がある。
死亡簿を見た男へ。日没、旧時計塔。
顔を上げると、男はもう荷車を引いていた。
旧時計塔の入口は、板で塞がれていた。
裏へ回ると、さっきの赤毛が壁にもたれていた。
「トビアス。運び屋。命以外なら大体運ぶ」
「あの紙はなんのつもりだ」
「捨てろって言われた帳面に、お前の名前が挟まっていた。閲覧者、レイン。要観察」
新たな声と共に、塔の中から杖をつく音がした。
老人が一人、暗がりから出てきた。
腰には止まった懐中時計が七つぶら下がっている。
「その子は、何を持って帰ってきた」
「その子?ミアのことか?
」
「死人が戻るときはな」
老人は俺を見ず、背後の大時計を見上げた。
「帰り道の分まで、誰かが払わされる」




