第2暦 きみの知らない葬式
「薬、まだ飲んでるのか」
ミアはスープに匙を入れたまま頷いた。
「朝に一滴ね。セレナ先生が、勝手にやめちゃ駄目だって」
「二年前から?」
「そう。あのときは死にかけたからね」
軽い言い方だった。
それがどうしようもなく許せなかった。
俺は匙を置いた。
「死にかけたんじゃない。死んだんだ」
火の落ちた暖炉で、薪が崩れた。
「雨が降ってた。おばさんが立てなくなって、俺が代わりに花を置いた。お前の茶色い靴は、右の踵が減ってて……それじゃあっちでも歩きにくいからって、直してから棺に入れた」
言う必要のないことまで、止められなかった。
ミアの唇から笑みが消えた。
「私、あの靴、今も履いてるよ」
戸口には茶色い編み上げ靴が揃っていた。
右の踵にだけ、新しい革が当ててある。
「…見せたいものがある」
俺は寝室の床板を外した。
缶の箱。その中にしまっていた、青いリボン。
葬式の翌日、ミアの部屋でもらったものだ。
蓋を開けると、空だった。
ミアは自分の髪に手をやった。
青いリボンが、指に絡んだ。
「なんで…」
俺は箱を閉じた。
蓋の角がうまく噛み合わなかった。
何度押しても、わずかに浮いた。
ミアが後ろから指を添えた。
「ここ、曲がってる」
昔から、そういう箱だった。
十二の誕生日に、俺がやったものだ。
菓子を買う金がなくて、空き缶を磨き、蓋に花を彫った。花には見えず、ミアは最初、蟹かと聞いた。
それでも、毎日持ち歩いてくれた。
「なんで、これがここにあるの」
ミアは蓋の花をなぞった。
「おばさんに、もらった」
「私のものなのに?」
俺は缶を置いた。
彼女の問いには、怒る理由がちゃんとあった。
死んだ人の遺品として受け取ったものを、生きている持ち主にどう説明すればいい。
「お前の部屋を、片づけたときに」
ミアの手が止まった。
「全部?」
「服は残した。机も。お前が嫌がるから、刺繍の箱は開けてない」
そこまで言って、しまった、と思った。
箱の中を知らないことを、俺は誠実さのように口にしていた。
ミアは少しだけ後ずさった。
「私、まだそこに住んでるんだけどな」
声が小さかった。
俺は缶を差し出した。
「返す」
彼女は受け取らず、しばらく見ていた。
やがてゆっくりと両手を出し、胸に抱えた。
「ありがとう」
礼を言われると、もっと苦しかった。
夜、ミアが帰ったあとで、俺は台所の椅子を直した。
折れた脚を継ぎ、裏側から木片を当てる。金槌を打つたび、隣家の窓が揺れた。
灯りが消えるまで作業を続け、消えてからも、もう一度釘を打った。
この二年間、音を立てるのを避けていた。
夜、隣の家が静かになれば、ミアの死が取り返しのつかないことだと分かった。そこで一人、金槌を振るうのは、あの人の眠りまで邪魔する気がした。
窓が開いた。
「まだ起きてるの」
向こうに、寝巻き姿のミアがいた。
「うるさかったか」
「ううん。椅子、直った?」
「もう少し」
彼女は頷き、窓枠に頬杖をついた。
昔、眠れない夜によくそうして話した。
「私、明日は晴れると思う」
「なんで」
「お母さんの膝が痛まないから」
馬鹿みたいな理由だった。
でも俺は、明日の天気を誰かと話すのが随分久しぶりだと、そのとき気づいた。
「レインは?」
「晴れると、いいな」
ミアが笑った。
その顔を見て、俺は釘を握ったまま動けなくなった。
葬式の朝も、晴れてほしいと思った。
最後に見せる空くらい、青ければいいと。
叶わなかった願いを、今、同じ相手に向かって言っている。
「また、怖い顔してる」
ミアは頬杖を解いた。
「今日はもう寝よう。続きは明日、一緒にやればいい」
明日。
彼女は何のためらいもなく、その言葉を使った。
「……うん。それと、今日はごめん」
口をついたのは、それだけだった。
「謝らなくていいよ。でも」
彼女は少し迷ってから言った。
「私が生きてるの、困る?」
「困るわけないだろ!!!」
大きすぎる声が出た。
ミアの肩が跳ねた。
「……困るわけ、ないだろ」
二度目は、ほとんど息だった。
*
セレナの診療所には、消毒薬と煮た林檎の匂いがした。彼女は俺の話を最後まで聞き、ミアの処方箋を棚に戻した。
「強い喪失の恐怖が、記憶に影響することはある」
「死亡簿にも名前があった」
彼女の手が止まった。
「暦院へ行ったの」
「先生は何か知ってるのか?」
診察室の奥で子供が咳をした。
セレナはそちらを見てから、小声になった。
「薬を切らさせないで。それだけは約束して」
俺が返事をしないと、セレナは診察用の椅子を示した。
「あなたも座って。眠れている?」
「病気の話にするなよ」
声が尖った。
彼女は少しも驚かなかった。
「その記憶が正しいかどうかと、あなたが倒れそうなことは別の話。まず水を飲んで」
湯呑みを渡された。
中の水を見て、朝から何も飲んでいなかったことに気づいた。
俺は半分ほど飲み、膝へ置いた。
セレナは昨日の食事と睡眠と、仕事の内容を尋ねた。
俺は倉庫の棚を直した話をした。
彼女はその内容を、別の帳面に記した。
「ミアへ針を渡した記憶は?」
俺は顔を上げた。
「あいつから聞いたのか」
「一昨日、指に針を刺してここへ来たのよ。仕事用の細い針がなくて、あなたから貰った太いもので代用したそうよ」
セレナは机の端の紙袋を示した。
細い縫い針が、数本入っている。
「返すものを預かっているから、会ったら渡そうと思っていたの」
俺は袋へ触れた。
机に置かれたものは、俺が何を覚えていようと、誰かがこの診療所で用意したものだった。
「あいつ、昨日も来てたのか」
「一昨日。傷は小さいけれど、仕事道具は正しく選んでと叱った。ミアは、あなたが重い荷を持つより針を使う方が怖いと言って笑っていた」
俺は湯呑みを持ち直した。
知らない俺の話だった。
でも、ミアがそう言う声だけは、簡単に想像できた。
「俺にだけ、この二年が違う」
女医のペンが止まった。
「違う二年があると言った方が、近いかもしれないわね」
慎重な言い方だった。
彼女はすぐ、診断ではないと付け足した。
「今のあなたに、周囲の記憶をそのまま信じろとは言えない。けれど、周囲の人間も、あなたを傷つけるために同じ嘘をついているとは限らない。それだけは考えて」
「ミアも?」
「ええ」
俺は湯呑みの底を見た。
この街中が俺を騙していると思う方が、分かりやすかった。
ミアまで含めれば、失う怖さを怒りへ変えられた。
だが、昨日彼女の目にあった戸惑いは、俺と同じだけ本物だったのかもしれない。
俺は針の袋を受け取った。
礼を言い、椅子を戻す。
セレナは、扉を開ける直前にもう一度言った。
「変わったことがあれば、来て。ミアのことでも、あなたのことでも」
俺は頷いた。
彼女が言った変わったことの中に、何が含まれているかは、その時はまだ考えなかった。
帰り際、待合室の隅に少年が座っていた。
年は十ほど。大きな上着の両袖を握り、誰もいない椅子に話しかけている。
「今日、先生が林檎をくれたんだ。半分取っとくね」
椅子の上には、薄く切った林檎が一片。
「誰か、いるのか」
少年は話しかけた俺を見た。
左の頬に、三日月形の傷があった。
その傷を見た刹那、雨の音が蘇った。
---お兄ちゃん、お願い---
足が動かなくなった。
「わかんない」
少年は空の椅子に目を戻した。
「一人で食べていいのに、なぜか、半分残しちゃうんだ」
誰のために残すのかも、もう分からないのだった。
少年は空の椅子に目を戻した。
「ここにいた気がするんだ。でも、顔が分かんない」




