第1暦 死んだ幼なじみが、パンを焦がしていた
第一部 きみのいる朝
死んだはずの幼なじみが、俺の台所でパンを焦がしていた。
「おはよう、レイン。先に言っとくけど、これはパン屋さんが悪い」
ミアは真っ黒に焦げ上がったパンのような物体を一枚つまみ上げ、真剣な顔で言った。
「薄さが不均等だったの」
「……お前、何してる」
「だから、朝ご飯」
開いた窓から、白いカーテンがふくらんだ。
向かいの屋根に鳩が二羽。階下では大家が水を撒いている。昨日までと変わらない朝の真ん中に、彼女だけがいた。
二年前、俺はこの手でミアの棺に土をかけた。
「レイン?」
右の眉だけが、少し上がる。
怒る前も、困ったときも、ミアはそういう顔をした。
椅子に膝がぶつかった。倒れる音がやけに遠かった。
彼女の手首を掴む。
「痛いんだけど?」
その一言で、力が抜けた。
温かかった。
指の腹に脈が触れる。手首の内側に、小さな火傷の痕。十一の夏、飴を作ろうとして鍋をひっくり返したときのものだ。
--お前、死んだだろ--
口にすると、朝が壊れる気がした。
ミアは俺を見つめた。
それから、掴まれた手とは逆の手を伸ばし、俺の額に触れた。
「嫌な夢でも見た?」
*
隣の家には、ミアの母親がいた。
サナおばさんは洗濯籠を抱え、俺の顔を見るなり笑った。
「また二人で喧嘩?」
「…ミアは、ずっとここに?」
「あの子が朝寝坊するたび、起こしに来てるのは誰だったかしら」
庭の隅にあるはずの、小さな白い墓石がなかった。
代わりに豆の支柱が立っていた。
「あそこって…」
「豆? 今年はよく育ってるでしょう」
土は柔らかく、耕したばかりだった。
俺だけが知っている墓の場所に、青い蔓が巻きついている。
俺は庭へ降りた。
土に膝をつき、豆の根元に指を差し込む。墓石を抜いた跡があるはずだった。深く埋めた台座なら、まだ残っているかもしれない。
「レイン、何してるの!」
おばさんが洗濯籠を下ろして駆け寄ってきた。
俺は答えず、土を掻いた。
爪の間に湿った泥が詰まる。蔓が揺れ、白い花が一つ落ちた。
「やめなさい!」
肩を掴まれた。
振り返った瞬間、おばさんが息を呑んだ。
「……そんな顔しないでよ、おばさん」
彼女の目には怒りがなかった。
俺はそのことに、余計に耐えられなくなった。
「…ここに、あったんです」
どれだけ小さな墓だったか、言おうとした。彫ってもらう金がなくて、名前は俺が刻んだ。最後の一文字を失敗して、雨の日にはそこにだけ水が溜まった。
おばさんは毎朝、布で拭いていた。
俺より先に起きて、いつも。いつも。いつだって。
「何が?」
その人の口から、そう聞かれた。
俺は指を開いた。
掌の土に、豆の細い根が一本混じっていた。
「ごめんなさい」
おばさんはしゃがんで、俺の汚れた手を取った。
「喧嘩したなら、仲直りしなさい。あの子も頑固だけど、あんたに何かあれば、まずあんたのところへ走る子だから」
知っていた。
知っているから、聞きたくなかった。
庭を出ると、ミアが木戸の横に立っていた。
両手に、俺の倒した椅子の破片を持っている。
「脚、折れちゃってた。後で直そう」
彼女は泥だらけの俺の手を見た。
何も尋ねず、首に巻いていた手拭いを差し出した。
受け取れなかった。
「仕事は」
「今日は午後から。昨日、言ったでしょ」
昨日。
俺の昨日に、彼女はいなかった。
「昨日、俺は何をしてた」
ミアは眉を寄せた。
「倉庫で棚を直して、そのあと雨樋の仕事に行って……私に針を買ってきてくれた。忘れた?」
針を買った覚えはあった。
仕事用に、丈夫な帆布を縫うためだった。
何本買ったかも覚えている。五本。紙に包み、上着の内ポケットに入れた。
俺はそこへ手を入れた。
紙の包みがあった。
開くと、二本しかない。
「三本、もらったよ」
ミアが俺の手元を覗いた。
何もかも、彼女の言う通りだった。
「……悪い。ちょっと、出てくる」
「一緒に行こうか?」
首を振るのが、こんなに難しいとは思わなかった。
彼女の方を見ないまま、俺は木戸を押した。
*
港に近い倉庫で、俺は木箱の修繕を請け負っていた。
親方のベルトは、仕事を休むと言った俺の顔より、泥だらけの膝を先に見た。
「転んだのか」
「ミアを知ってますよね」
「お前に弁当届ける子だろ。仕事場で始めるなよ、痴話喧嘩は」
倉庫の柱に、干からびた花が吊ってあった。
誰かが祭りのあとに持ち込んだものだと思っていた。
ベルトは俺の視線を追い、呆れた顔をした。
「それも忘れたのか。先月、お前があの子に押しつけられたやつだ」
俺は花の束に触れた。
指先で、細い茎が折れた。
先月の俺は、祭りの仕事で夜まで荷を運んだ。
帰りに一人で、川へ花を流した。
ミアが好きだった白い花だった。
「顔色が悪いぞ」
ベルトが椅子を引いた。
俺は座れず、窓の外を見た。
港へ続く坂道を、母親と女の子が手をつないで歩いていた。
当たり前の景色に、突然、足元をなくしたような気がした。
墓も、仕事場も、昨日の針も。
確かなものを探すたび、俺の方だけが間違っていく。
街へ走った。
診療所。薬屋。彼女の勤め先だった仕立屋。
誰も、ミアが死んだことを知らなかった。
仕立屋の女主人は、帳簿を突きつけた。
「昨日だって働いてたよ。ほら。裾直し三件、袖替え一件。あの子がいなきゃ回らないんだから」
帳面にはミアの筆跡が並んでいた。
俺の袖を直してくれた、丸みのある字だった。
夕方、最後に暦院へ行った。
生まれた日も、死んだ日も、この街では暦院が記録する。
閲覧窓口の若い書記は、俺の申請を見て顔を曇らせた。
「亡くなった方とのご関係は」
「幼なじみです」
出された死亡簿には、確かにあった。
ミア・フェル
二年前の雨季、第二十七日
死因、灰熱病
俺は頁の端を握った。
紙なら信じられると思った自分が、ひどく情けなかった。
「これを写してもいい…」
「失礼しました」
書記の声が急に硬くなった。
俺の肩越しに、灰色の制服を着た男が立っていた。
「旧版ですね」
男は手を伸ばし帳面を閉じた。
「訂正前の記録です。彼女は生きています」
「じゃあ、これは何ですか」
「誤記です」
一人分の死を、男はその二文字で片づけた。
帰るよう促され、立ち上がる。
そのとき、閉じきらない帳面の間に、赤い文字が見えた。
――改暦対象七名。
続く六名の欄は、黒く塗られていた。
*
家へ戻ると、ミアが玄関の段に座っていた。
膝の上には、布に包んだパンが二つ。
「今度は、お店で焼いてもらった」
俺の隣を、掌で叩く。
座ると、まだ温かい包みを渡された。
「夢じゃなかった?」
答えられなかった。
ミアは急かさず、パンをちぎった。
「私、ずっとここにいるよ」
喉の奥が痛んだ。
彼女の左の袖口から、細い銀の鎖が覗いた。
薬の瓶を首から下げるための鎖だった。
棺に入れたときと、同じものだった。
初投稿となります。
お読みいただき、ありがとうございます。
死んだはずの幼なじみがいる朝から、レインの物語が始まりました。
二人(?)の行く先を、見届けていただけたら嬉しいです。
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