第8暦 救った側の人間
セレナは俺たちが持ってきた観察表や見聞きしたことを纏めた紙を読み終えると、険しい顔をしながら机の縁に両手をついた。
「原料になる記憶の提供は、同意を得ていると聞かされていたわ」
「子供が同意したと?」
トビアスの声に、女医は目を閉じた。
「…確かめることはしていなかったわ」
言い訳は続かなかった。
彼女は診療鞄を開け、薬瓶をすべて机に並べた。
「これは使わない…いえ、使えない。けれど急に薬を断てば七人の体が保たない。脈と熱を見て、どれだけ時間を稼げるか調べる」
ミアは椅子に座り、自分から袖を捲った。
セレナは脈を測り、血圧計の古い革紐を締めた。
俺は何かできることがないかと立ち尽くし、湯を沸かして、と頼まれてようやく動いた。
薬を止めずに、成分だけを確かめる方法はないか。
俺がそう尋ねると、女医は薬瓶を灯りに透かした。
「通常の毒なら、薬草への反応や、沈殿で見分けられる。でも、これは何度試しても、薄い塩水と同じ結果しか出ない」
「薬としては、何も入ってない?」
「体に作用するものが、私の知る成分とは限らないということ」
彼女は小皿へ一滴を落とした。
透明な液体が広がる。
それを見ても、俺には何の声も聞こえなかった。
誰かの記憶だというなら、少しくらい、苦しんでいるものの形をしていてほしかった。
「知らずに飲めるように、作られてるんだね」
ミアが呟いた。
セレナは頷かなかった。
否定もしなかった。
そのとき、突然ミアが胸を押さえた。
椅子の背から肩が滑る。
セレナがすぐに受け止め、寝台へ横たえた。
「薬は、今朝いつ飲んだ?」
「いつもと……同じ」
ミアが俺の方を見た。
目は開いている。
しかし、俺を見ていなかった。
「お母さん、そこ、窓開けないで」
俺はミアに駆け寄ろうとした足を止めた。
二年前の病床で、同じことを言った。
寒い、と言ったあと、汗をかいているのに毛布を欲しがった。
「ミア、ここは診療所だ」
彼女の唇が動く。
「レイン、仕事は」
「休み」
「また、怒られる」
同じ会話だった。
俺はあのとき、怒られて済むならいい、と答えた。
今も、同じ言葉が喉まで来た。
セレナが俺の肩を掴んだ。
「今の彼女に話しかけて」
「強い記憶をなぞると、古い経過へ引かれるかもしれない。今、あなたが知っているこの子の話をして」
俺はミアの手を握った。
「…袖、直してたろ。あの子の。剣を振れるように」
目が、わずかに動いた。
「お店、見たよね。窓が大きいやつ。棚の下を空けて、子供が座れるようにするって」
セレナが銀環を手首へ嵌めた。
薄い光が点る。
「扉、作るんだろ。俺が。仕事だから金は払うって、お前が言った」
ミアの指が、俺の掌を引っ掻いた。
爪の痛みが、少し嬉しかった。
「……引っかかるの、駄目」
声が、戻った。
セレナが呼吸を数え、長く息を吐いた。
「いまのは、熱の発作ではないわね。薬が切れたときと同じ不安定さが出ている」
セレナは寝台の端を握った。
「上で何か、調整されたのかもしれない。あなた一人に処方されている薬じゃないから」
暦院の中で誰かが操作すれば、ここにいるミアの呼吸が変わる。
俺はその距離の短さに、初めて本当の恐ろしさを感じた。
*
ミアが眠ったあと、セレナと二人で、医療記録の棚を開けた。
灰熱病の年の帳面には、途中から筆跡が変わった頁があった。
セレナはそこへ指を置いた。
「この三日間、私は家へ帰っていないのよ」
紙には、命を救えなかった人の名が並んでいた。
「ミアの脈が止まったのを、見たか」
俺が尋ねると、彼女は長く息を吸った。
「私が覚えているのは、治療が奏功した方だけ。でも、この控えには死亡確認の時刻がある。あなたの話す経過と一致している」
ペンを持つ指が、震えていた。
「この処置の欄を書いたのも、私の字。何度も胸を押して、それでも戻らなかったと。記録は読めるのに、その場面の記憶は、一つもない」
俺はその場面を覚えていた。
ミアを助けられなかったことを、誰に謝っていたのかは覚えていない。
「どちらの記録が正しいか、私には自分の記憶で判断できない。あなたにはできる。その違いを、無視していた」
セレナは頁を閉じなかった。
「私は、自分が救ったという方を信じたかった。薬の中身が分からないのに、続ければ生きられるからと、続けさせた」
「それが間違いだったとして、今やめて死んだら、正しいのか?」
俺の問いに、彼女はすぐには答えなかった。
「その二つしかないという説明を、受け入れてしまったことが間違いだった」
セレナは新しい帳面を開いた。
投与時刻、発作の時刻、俺が話した内容、銀環の反応。
一つずつ書いていく。
「今は、分からないことを分かったふりはしない。できたことも、偶然かもしれない。だから全部記録に残す」
俺は椅子を寄せた。
記録する間、ミアの寝息が途切れないか、耳を澄ませていた。
*
その後、ミアの容態が気になったがオルンにも話をするためにトビアスと共に向かった。
オルンは観察表と話を纏めた紙の端を指で叩いた。
「供給停止というのは、薬をやめる意味ではなさそうだな」
「どういうことだ?」
「毎日少しずつ奪う代わりに、最後にまとめて消す。そうすれば薬を届ける必要がなくなる」
誰も、しばらく口を開かなかった。
トビアスが荷札を数え直した。
「……明朝の荷車、箱が十九ある」
十九人。
頭の中で数字にした瞬間、背筋が冷たくなった。
「名前を調べよう」
俺は紙を引き寄せた。
*
中央暦院に乗り込む前に診療所に戻ると、見計らったかのようなタイミングでガレスが診療所へ来た。
衛士は連れていなかった。
「観察表を返してください」
「子供たちを先に返せ!」
男は俺たちの顔を一人ずつ見た。
最後に、ミアで止まった。
「あなたが薬を拒めば、何が起きるか。聞きましたか?」
「聞きました」
「あなた一人の問題ではない。七人の中には、もう一度働き始めた父親もいる。ようやく眠れるようになった子もいる」
ガレスは外套の内側から、小さな靴を出した。
履き潰された、片方だけの靴。
「私の息子も、その一人です」
怒鳴れなくなった自分が嫌だった。
ガレスは靴をしまった。
彼は窓辺へ歩いた。
通りの職員がこちらを見上げ、すぐに顔を戻した。
「あなたは、暦院の全員がこの件を知っていると思っていますか?」
俺は答えなかった。
「出生届を書き、婚姻の記録を整え、亡くなった人の名前を間違えないよう、毎日働いている者がいる。その仕事は、疑われれば全部止まる」
「だから黙れって?」
「そうは言っていない」
ガレスは振り返った。
「あなたが公開したいのは、真実ですか?それとも、誰かを悪人にするための分かりやすい話ですか」
嫌な言い方だった。
それでも、俺が怒りの向け先を探していたことは否定できなかった。
「子供を消す話を、複雑だからで済ませないで」
ミアが寝台から起き上がろうとした。
セレナが止める。
彼女は寝たまま、ガレスを見た。
「記録のお仕事が大事なのは知っています。私も仕事で、お客さんの寸法を書きます。間違えたら困るから」
息を整える。
「でも、そこに人が合わせられないからって、その人の方を切り捨てたら、何のために測ったんですか」
ガレスは返事をしなかった。
ミアは視線を外さなかった。
「あなたの息子さん、今、何が好きですか?」
唐突な問いに、男の眉が動いた。
「木で作った、鳥を」
「空、飛びますか」
「……飛びません。翼が動くだけです」
口元が、ほんの一瞬緩んだ。
それを自分で抑えるように、唇を結ぶ。
「リタは、布の兎を持っていました。鼻が破れかけていて、自分で拭いて、大事にしてました。…私が見たわけじゃないですけど」
ガレスは目を伏せた。
「十九人、って、あなたも言うんでしょう。でも、一人ずつ、そういうものがあります」
ミアの声が掠れた。
セレナが水を飲ませる。
ガレスは何も言わず、その間待っていた。
彼が帰るとき、俺は扉の前へ立った。
「明朝まで、止められないのか?」
「定着はすでに始まっています。止める猶予は、中心の耐久に左右される」
「息子のことを、中心って呼ぶなよ」
言った瞬間、ガレスの顔が歪んだ。
殴られるかと思った。
男は片手を握り、また開いた。
「……明朝の移送は、遅らせます。私にできる範囲で」
譲歩なのか、時間稼ぎなのかは分からなかった。
譲歩が本当なら、その間にできることがある。俺は男の返事を、忘れないように覚え直した。
「灰熱病の夜、私は病床の順番を守った。他所の子を押し退けなかった。薬を奪わなかった。正しい父親であろうとして、息子を死なせた」
彼の指が、留め金をうまく掛けられずにいた。
「やり直せると分かったとき、あなたなら断れましたか」
俺は、ミアを見た。
彼女は俺の答えを待っていた。
「断れなかったと思う」
そう言うしかなかった。
「でも、知らなかったままには戻れない」




