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亡き奥様を敬っていたのは、旦那様ではなく後妻の私だったのでは?  作者: 九葉(くずは)


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第8話 証人の欄

給金日の三日前に、厄介な依頼がひとつ舞い込んだ。


三代続いた織物商の相続で、蔵にあったのは反物より借用書のほうが多かったという話。貸主が七口、利率がばらばらで、期日が絡まり合っている。書生ふたりが三日かけて解けなかった綴りが、朝いちばんに私の机へ回ってきた。


昼過ぎまでかかって、返済の順序を引き直した。利率の高い口から畳む。繰上げの機を逃さない。手が覚えている仕事だった。五年間、毎月、自分の家のためにやっていたことを、初めて他人の家のためにやった。他人の家のためのほうが、息がしやすいのはなぜだろう。たぶん、礼を言う人がいるからだ。織物商の未亡人は、引き直した表を一目見て、これなら息子に店を渡せます、と言った。表一枚で人の顔色が変わるのを、私は初めて正面から見た。あの家で、表が誰かに読まれたことは一度もない。


夕刻、レンナルト氏が私の整理案を手に、事務所の真ん中に立った。


「織物商の件は、この案で進めます。設計はマレーナさんです。先方へは、当所の名の下に、設計者の名を添えて出します」


書生たちが顔を上げる。受付の老人が、湯呑み越しにこちらを見て、目だけで笑った。名前を添えて出す。それがこの事務所でどれほどの扱いか、来て日の浅い私にも分かる。


仕事のあと、氏に呼ばれた。机の上に、給金の改定の紙が一枚。書かれた額は、求人の刷り物にあった額の、五割増しだった。


「頂きすぎです。私はまだ、来て一月半で」

「一月半で、書生が三日解けない綴りを半日で解きました。額は働きに付けるものです。年数に付けるものではありません」

「ですが」

「マレーナさん」


氏は紙を、私のほうへまっすぐ押した。


「救うつもりはありません。あなたの計算に、正当な値段をつけたいだけです」


値段。あの家で、私の仕事には名前も値段もなかった。名前と値段は、どうやら同じ扉から入ってくるものらしい。私は紙を受け取り、承知いたしました、と言った。声が少し揺れたのは、聞かなかったことにしてもらえたと思う。


その晩は、店じまいのあとも綴りの整理が残った。


書生たちが帰り、受付の老人が帰り、事務所には灯りがふたつ。私の机と、氏の机。頁を繰る音が、川の音に混ざって、ときどき区別がつかなくなる。


「ひとつ、伺っても」


先に口を開いたのは私だった。訊くなら、灯りがふたつだけの晩がいいと、いつからか決めていた。


「五年前から、なぜ私の書類だけ、あんなふうにご覧になっていたのですか。署名が疲れていく、と仰るほどに」


氏はペンを置いた。一拍。あの、踏み込む前の一拍。


「十六の冬に、国境を越えました。家名は、越える前に置いてきた。置いていけ、と言われたので」


淡々と、勘定を読み上げる声だった。


「名前のない者として三年働きました。荷運び、帳付け、代筆。覚えたのは、仕事には署名がなくても、癖が残るということです。誰がやったかは、紙を見れば分かる。名前が消されていても、仕事は消せない。……それを知っている目で見ると、あなたの書類は、五年間ずっと、名前を消された人の仕事でした」


灯りの下で、氏は続けた。


「家の名で署名された紙の、家の名の下に、いつも同じ人がいた。設計も、字も、畳み方も、ひとりの人の癖だった。書類は五年、その人の名前を一度も載せなかった。載らない名前を読むのが、私の古い癖です。それだけのことです」


それだけのこと、と言うには、五年は長い。長いあいだ、この世でただひとり、この人だけが私を見ていた。書類しか見ない人だと、思い込んでいたのは私のほうだ。書類の向こうを見るために、書類を見ている人だった。


「私も、ひとつ申し上げても」


自分の声が、思ったより静かで、助かった。


「五年、妻と呼ばれてまいりました。奥様、とも。ですが、名前では一度も呼ばれませんでした。……口に出してみると、存外、小さな話ですね」

「小さくありません」


氏の返事は、早い。踏み込む前の一拍が、このときだけは、なかった。


「人がひとり、五年間、記録から外れていた話です。小さいはずがない」


記録の人らしい怒り方だと思った。私のかわりに腹を立ててくれる人がいる。それは妙な言い方だが、上等な毛布に似ている。掛けられて初めて、いままで寒かったのだと分かる。感情の言葉をひとつも使わずに、この人はいちばん深いところに触れる。灯りがひとつ、芯を短くして揺れた。私たちはそれ以上は話さず、それぞれの綴りに戻った。戻ってからのほうが、部屋は前より暖かい。


給金日の翌々日、ティルダ様から手紙が届いた。


宛名は、私の名前。川向こうの下宿の、私の部屋あて。文面は硬く、書き出しには三度書き直した跡がある。書き直しの跡ごと、読んだ。跡のほうに、本文より多くのことが書いてある。


伯爵家は分家の後見に入ったこと。屋敷の勘定は後見の会計士が引き継ぎ、ベルタは残っていること。自分は寮で息災であること。それから、便箋の最後の一枚に、こうあった。


祭壇の花は、いまはわたしが替えています。月に二度、学院の帰りに。花屋のお孫さんと、友達になりました。茎の切り方を教わっています。お返事は、くださらなくて構いません。ただ、書くことだけ、お許しください。


窓の外の川を、荷舟がひとつ下っていくのを見送ってから、私は短い返事を書いた。


花の水は、朝に替えると長持ちします。それだけの一文と、私の署名。許しでも、和解でもない。手順の申し送りだ。けれど手順というものは、渡す相手がいて初めて、続いていく。あの祭壇の白が続くのなら、渡す先は、あの綺麗な目の子でいい。返事を封じてから、あの子の字が少し私の字に似てきていることに気がついた。綴りを読んで、値の調べ方を覚えた子だ。字は、教わった相手に似る。


給金の袋は、その週の終わりに受け取った。


袋の表に、私の名前。封の内に、改定後の額。人生で初めての、私自身の金だった。使い道は、とうに決めてある。


信託の窓口は、事務所の一階の奥にある。氏に頼めば書式は簡単に済んだのだろうが、私は順番どおりに並んだ。列の前には、市場の女将と、荷役の親方。給金の袋を握る手が、私を入れて三人ぶん。どの袋にも、それぞれの名前が書いてあるのだろう。列に並ぶことが、こんなに真っ当な心地のするものだとは知らなかった。順番どおりに呼ばれ、順番どおりに、口座開設の申込みの紙を受け取る。


名義人の欄。


ペンを構えたところで、横から、見覚えのある軸が差し出された。書き味の重い、事務所でいちばん良いペン。氏が、いつのまにか窓口の脇に立っていた。


「署名は、良いペンでなさるものです」

「これは、完済のときの」

「ええ。区切りの署名の専用にしようかと」


ペンを受け取る。重さが、手に馴染む。名義人の欄に、マレーナ、と書いた。誰の代筆でもない。誰の家の名でもない。金額の欄に、初めての給金の額。小さな数字だ。小さな数字から始まる綴りを、私はこれから、自分で付けていく。


紙の下段に、証人の欄があった。


保証でも、後見でもない。この署名が本人のものだと、見ていた人が名前を並べるだけの欄。私は顔を上げて、脇に立つ人を見た。五年間、書類の向こうから私を見ていた人。載らない名前を、読み続けてくれた人。


「証人の欄に、あなたの名前をいただけますか」


氏は一拍、置いた。踏み込む前ではなく、受け取るための一拍に見えた。それから、私の手からペンを受け取り、証人の欄に自分の名前を書いた。几帳面な、飾りのない字。私の名前の隣に、その名前が並ぶ。


「これで、あなたの名前は、この町の記録に二つあります。当所の袋書きと、この欄に」


ペンを置いて、氏は言った。


「三つ目を増やすかどうかは、いずれ、あなたが決めることです」


いずれ、という言葉の長さを、私はもう怖がらない。期日のない約束を、初めて心地よいと思った。窓口の係が控えに判を捺し、真新しい通帳が、私の前に置かれる。


一行目に、今日の日付と、預け入れの額と、名義。


インクはまだ新しく、光っている。乾くまで、閉じずに待つ。急ぐ理由は、もうどこにもない。隣で氏が、控えの紙を几帳面に畳んでいる。窓口の外はもう夕方で、川の面が銅の色に変わっている。今日の日付を、私はたぶん、忘れない。


通帳の一行目に、私の名前が乾いていく。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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