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亡き奥様を敬っていたのは、旦那様ではなく後妻の私だったのでは?  作者: 九葉(くずは)


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第7話 五年ぶんの名前

川沿いの朝は、屋敷の朝より一刻早い。


事務所の鎧戸を開けるのは、いまは私の仕事だ。受付の老人が湯を沸かし、私は前日の綴りを棚から降ろす。石段を上がってくる靴音で、客の用向きは半分わかる。急ぎ足は借財、ためらう足は相続。教わってはいない。耳が勝手に覚えた。窓の下を、朝いちばんの荷舟が下っていく。積み荷は樽。どこかの屋敷の酒だろうかと、見送る癖がついた。屋敷、という言葉は、私の中でもう地名に近い。


受付の老人は、私を、マレーナさん、と呼ぶ。さん付けの名前は、朝の湯呑みと同じ温度で、毎日そこにある。


机は窓際にひとつもらった。抽斗には、私の名前の書かれた袋。取扱人の欄に、私は一日に何度も自分の名前を書く。マレーナ。書くたびに減るものは、もう何もない。書くたびに増えるものなら、ある。私の字で綴られた、私の仕事の記録。


昼までに写しを三通、督促の文を二通仕上げる。文面の型は、ここへ来てから自分で三種こしらえた。こしらえた型に、今度は私の名前が控えとして残る。


給金日は、月の終わりに来る。初めての給金で何をするかは、もう決めてある。


その日の客は、靴音のない客だった。


受付の老人が取り次ぎに来て、声を低くする。お名指しでございます、と言う。名指しの名は、マレーナ様。家名のつかない呼び出しに、心当たりは一人しかいなかった。


応接の椅子に、前の旦那様が座っていた。


立ち上がりかけた受付の老人を、目で制したのは私だ。取り次がれた客を選ばないのが、勘定場の作法だから。膝の上で手を組む。指は震えていない。それを確かめてから、顔を上げた。


痩せておいでだった。上着は上等のままで、その上等が、かえって着ている人の削げ方を目立たせる。私は机を挟んで腰を下ろした。レンナルト氏は隣の自分の机で、書類を繰る手を止めない。同席を断らないことと、口を挟まないこと。あの人はその二つを、きっと同じ重さで守っている。


「息災か」

「はい」

「そうか。……働いているのだな、ここで」

「はい」


沈黙が卓の上に置かれる。卓の木目の上を、旦那様の視線が往復する。屋敷の応接間なら、この沈黙は給仕が埋めた。ここに給仕はいない。沈黙は、置いた人が自分で持ち帰る決まりだ。氏の机の砂時計は、裏返されないまま立っている。この話は、時間で測られない。


先に口を開いたのは、向こうだった。


「証書を読んだ。綴りも、読める端から読んだ。ヴィオラの借財のことも、商会で聞いた。君が、五年」


言葉が切れる。私は待った。待つことなら、この五年でいちばん上達している。


「済まなかった。この言い方で足りないことは、分かっている。だが、ほかの言い方を知らない。戻ってきてくれ、マレーナ」


マレーナ。


その音を、この人の声で聞いたのは初めてだった。婚礼の誓いでは家名ごと読み上げられ、あとの五年は、おい、や、君、や、奥、で足りていた。名前というものは、呼ぶ側に呼ぶ気がなければ、帳面の上の記録でしかない。呼ばれた名前が胸のどこにも届かないことは、この五年で確かめ終えている。言葉には届く時期というものがあって、それはもう、過ぎた。


「その名前は、この五年、どちらにございましたか」


問いのつもりで言った。責めのつもりは、半分もなかった。それでも旦那様は、目を閉じる。閉じたまま、しばらく開かない。


「屋敷が回らない。それは事実だ。だが、金の話だけで来たのではない」

「では、何のお話でしょう」

「やり直したい。いや……始めてもいないものは、やり直せないな。始めたい、と言うべきか。今度こそ」


言い直しの途中で、ご自分の言葉にご自分で気づいていく。気の毒なほど正直な、迷子の言い直しだった。五年前に、この正直さの十分の一でもあったなら。考えかけて、やめる。仮定の帳尻を合わせる仕事は、勘定場の外の話だ。


「報酬は払う。家政を、勘定を、任せたい。妻としてでなくてもいい。客分でも、雇いでも、君の望む形で構わない」


「ギスベルト様」


初めて、私もその名を呼んだ。呼んでみると、ただの名前だった。五年間、呼ぶ機会のなかった、ただの。


「あなたがお屋敷へ呼び戻したいのは、私でしょうか。それとも、家を回していた手のほうでしょうか」

「……両方だ、と言えば、正直に過ぎるか」

「正直で結構でございます。ですが手のほうは、もう売り先が決まっております。この事務所が、先に値段をつけてくださいました」


値段、という言葉に、旦那様の眉が動く。人を値段で語るな、と言いたいのだろう。五年のあいだ、値段どころか名前もつけなかった家の方が。それは言わずにおいた。言えば諍いになり、諍いは対等な者同士の贅沢だから。


隣の机で、頁の繰られる音がひとつ。規則正しい、いつもの速さ。あの速さが変わらないことに、私はたぶん、助けられている。


「私のほうは、と申しますと。お受けできません。怒っているからでは、ないのです。お返しするものが、もう何ひとつ残っていないだけです。義理も、負い目も、期日のある紙も。負い目のない場所から、人は戻りません」


旦那様は黙った。黙って、それから、勘定の話ではないことを訊いた。


「祭壇の花が、枯れたままになっている。ベルタに聞いた。五年、君が替えていたそうだな。毎週、夜明け前に、自分の手で。なぜだ。ヴィオラに、君が義理立てする理由は、どこにもなかったはずだ」


理由。あの白い花に、私は理由の札をつけたことが一度もない。それでも、問われて出てくる言葉は、とうに決まっていた。


「奥様のお名前は、あの家に残る、数少ない綺麗なもののひとつでした。借財のことを外へ漏らさなかったのも、宝飾を一つずつ町から連れ戻したのも、そのためです。祭壇の埃を払い、水を替え、週にひと括りの白を絶やさなかったのも。五年間、あの祭壇の前にいちばん長く立っていたのは、私です。命日の手順を五度、間違えずに数えたのも、私です」


旦那様の顔から、順番に色が引いていく。思い出の中に住んでいた人が、その思い出の家賃を誰が払っていたのかを、いま初めて知る顔だった。


一拍、置いた。置いたぶんだけ言葉は重くなる――それを教わったのも、隣の机の人からだ。


「奥様を悼んでいらしたのは、あなたではなく、私だったのではありませんか」


旦那様は、長いこと動かなかった。


やがて、膝の上の自分の手を見たまま、はい、と言った。伯爵が、家を出た後妻に、はい、と。短く、二度。それがこの方の、五年ぶんの返事だった。はい、という返事の向け先を、この方はたぶん使用人にしか持ったことがない。その一語が卓を渡ってくるまでに、五年と、屋敷ひとつぶんの距離があった。


立ち上がった旦那様は、何も持たずに来て、何も持たずに帰る人の顔をしておいでだった。扉の前で、一度だけ振り返る。


「花の頼み方を、ベルタに聞いてみる。いまさらだが、手順というものを、覚えてみようと思う」

「花屋は腕の良い店でございます。帳場の孫娘さんが、茎を切るのが上手になりました」


余計なことを、と自分でも思う。それでも、あの祭壇にまた白い花が立つのなら、手順の行き先くらいは示しておきたかった。花には、罪がない。


それが、私たちの最後の会話になった。なるであろうことが、互いに分かる終わり方だった。


扉が閉まり、靴音が石段を三つ降りて、聞こえなくなる。


隣の机で、レンナルト氏が書類を揃え直す音がした。それから氏は立って、砂時計を横に倒し、棚へ仕舞った。今日はもう、時間を測る客は来ない。


「続きの綴りは、明日に回しても構いません」

「いいえ。今日のぶんは、今日のうちに」

「そう仰ると思いました」


氏は湯を頼みに戸口へ向かう。すれ違いざま、一度だけ足を止めた。


「……同じ部屋に、いてくださいました」

「書類を読んでいただけです」

「ええ。それが」


それ以上は言わず、氏も訊かなかった。あとから、湯呑みがふたつ届いた。ひとつは私の机に、ひとつは氏の机に。湯気は同じ高さで立ちのぼり、別々の机で冷めていく。それでいい。いまは、それがいい。私はペンを取り直す。取扱人の欄に、私の名前。今日、何度目かの、私の名前。この名前は、これからは私の暮らしと、私の仕事にだけ使う。


扉が閉まる音は、五年間で一番静かだった。

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