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亡き奥様を敬っていたのは、旦那様ではなく後妻の私だったのでは?  作者: 九葉(くずは)


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第6話 伯爵の金庫

金庫を開けるのは、五年ぶりだった。


支払いを待たせている商会に、担保になるものを示さねばならない。権利書か、金子か、何か。扉の奥にあったのは、紙が二枚きりだった。


一枚は、離縁状。発たれた日に書斎の机で見つけ、その日のうちにここへ仕舞った。仕舞えば見ずに済むと、どこかで思っていたのだろう。


もう一枚は、見覚えのない証書だった。


弁済完了証書、とある。債務者の欄に、ヴィオラの名。貸主が四つ。元金の合計は、この屋敷の一年の実入りを超えていた。利息を含めた総額の欄を読み、私は数字を三度たしかめた。三度たしかめても、額は変わらない。完済の日付は、命日の翌週。証書の下には、返済の一覧が添えてある。月ごとの日付と、額。六十と幾つの行が、五年の長さで並ぶ。行のひとつひとつに、私の知らない朝と、私の知らない道のりがある。


ヴィオラに、借金。言葉として結びつかない。あれは明るい人だった。庭に薔薇を増やし、季節ごとに夜会を開き、竪琴に金の弦を張った。金の話をする顔を、私は一度も見ていない。請求の紙が屋敷から消えていくのを、家の格が払うものだと、あの頃の私は疑いもしなかった。紙は、誰かが拾わなければ消えない。


見ていない、ということの意味を、私はこの歳になるまで考えたことがなかった。


翌日、貸主の筆頭の商会を訪ねた。


番頭ではなく、主人が出てくる。伯爵家の当主が自ら来たことに驚いた顔で、それでも綴りは正確に開かれた。


「お支払いは、五年間、ひと月も遅れたことがございません。毎月、決まった日に、奥方様がご自身でお運びでした」

「妻が。……ヴィオラは、五年前に亡くなっている」

「存じております。お運びだったのは、後の奥方様でございます」


主人は頁を繰った。受取の控えが月の順に並び、どの欄にも同じ署名がある。家の名。私の家の名。私が書いた覚えのない、私の家の名。


「借り入れの経緯も、伺ってよろしいか」

「亡くなられた奥方様が、ご存命の折に。お嫁入りの前後に集中しております。手前どもは、その、ご実家の子爵様のお口添えの筋でございまして」


イーヴォの名が、そこで出た。


「畳み方は、見事なものでございました。利率の高い口から順に、繰上げの機をひとつも外さず。手前ども相手に五年でこの畳み方は、玄人のお仕事でございます。……失礼ながら、後の奥方様は、どちらでお勘定を覚えられたのでしょう」


答えられなかった。妻の経歴を、私は何ひとつ知らない。静かな人だ、と思っていた。その時は、それを美点の側に数えてすらいた。静かなのではない。話す相手の数に、私が入っていなかっただけだ。


十日後の夜会には、出るべきではなかったのかもしれない。だが出ないことは、認めることに思えた。


会場で、イーヴォの声はよく通った。


「義弟どのの家は、いま少し風向きが悪いようだが。なに、妹の遺したものがある家だ、じきに持ち直すとも。妹は、良いものを遺す女だった」


輪の中に、あの商会の主人がいる。


主人は何も言わなかった。ただ、盃を口に運ばず、目を伏せて、ゆっくりと輪の外へ一歩下がる。それだけだった。それだけのことが、広間の空気を変えた。扇の陰で囁きが走る。公証記録、という言葉が、切れ切れに耳へ届く。完済。後の奥方。名義は、妹君の。


イーヴォが私を見た。何か言え、という目だった。言えることは、何もない。その夜の帰りの馬車は、来たときと同じ道のはずなのに、長かった。


「イーヴォ殿。ヴィオラの借財のこと、ご存じだったのか」


囁きの届かない柱の陰で、私は訊く。義兄の顔から、社交の色が抜けるのを初めて見た。


「……家の名誉の問題だ。妹は嫁いだ身、あとの勘定は婚家のものだろう」

「知っていて、遺産と言い続けられたのか」

「言葉のあやというものだ。それで誰も困りはしなかった」


困った者はいた。五年間、毎月、決まった日に川沿いへ通った者が。だがそれを義兄に言う資格が、私にあるのか。同じ屋根の下で五年、困っている者に気づきもしなかった私に。


イーヴォはその晩、早々に会場を辞した。あの声の大きい男が、辞去の挨拶だけは、誰にも聞こえない声だった。


翌週から、招きが途絶えた。


倶楽部では、席は空いているのに、私の卓にだけ相席が立たない。給仕の礼は正しく、視線は正しく逸れる。二十年通った倶楽部で、給仕の名をひとりも覚えていないことに、この日気づいた。覚えていなくても、困らずに来られた場所だった。後妻に借金を返させて追い出した家。その言い回しは、どこかで刷られたように、皆の口で同じ形をしていた。刷った者などいない。事実が、勝手に版を組んだのだ。


屋敷に戻ると、玄関広間にティルダが立っていた。旅装で、足元に鞄がひとつ。発っていく者は、皆、荷が軽い。荷を軽くしてやっていたのが誰だったか、この家はもう知っている。


「寮に移ります。学費は、ドレスを手放して工面しました。若草色の。値の調べ方は、あの方の綴りが教えてくれました」

「ティルダ、待ちなさい。話せば分かる。遺産のことは、私とて知らされていなかった。遺産などなかったと、なぜ誰も言わなかったのだ」


娘は答える前に、祭壇のほうへ目をやった。枯れた一輪が、まだそのままになっている。挿げ替える者のないままに。


「言わなかったのではありません。お父様が、聞こえない場所にいたのです」


それから娘は、一度だけ振り返った。


「祭壇の花を五年、誰が替えていたか。ベルタにお聞きになってください。わたしの口からは、申し上げません」


訊けば済む。厨房へ降りて、ひとこと訊けば。その一言の遠さが、いまの私と、この家に五年いた人との距離だった。


答えを待たずに頭を下げ、娘は馬車に乗る。車輪の音が門を抜けて、聞こえなくなるまで、私は広間に立っていた。広間には、私と、肖像画のヴィオラと、枯れた花だけが残った。


夜、もう一度金庫を開けた。


権利書は、いずれ商会へ渡ることになる。金子はない。残るのは紙が二枚。読み返すたび、証書の数字は同じで、離縁状の署名も同じだった。マレーナ、という字を、指の先でなぞる。妻の字を、まともに見たのはそれが初めてだった。五年分の家の綴りを埋め続けた字の、最後の一枚。祭壇の枯れた花を、私はまだ捨てられずにいる。捨て方も、次の頼み方も、知らないままで。


今なら分かる。私は亡き妻を敬っていたのではない。思い出の中に住めば、生きている者の顔を見なくて済んだ。それだけのことを、五年間、敬いと呼んでいた。


金庫の中で一番重いのは、紙の軽さだった。

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