第5話 領収書の筆跡
学院からの手紙は、わたし宛てだった。中に書いてあったのは、わたしには払えない額の話だった。
来季のご学費のお納めが確認できません、期日までにお手続きを、と細い字で並んでいる。督促状というものを、わたしは生まれて初めて見た。うちは伯爵家で、お金の話は空気と同じで、あるかないかを考えたことすらなかった。手紙は二度読んだ。二度読んでも、額は減らない。数字というものは読み手の都合で動いてくれないのだと、このとき初めて知った。
考えたことがなかったのは、考えなくて済むように誰かがしていたからだ。それを、わたしは先週、厨房で知った。
お父様は朝から出ておいでだった。債権者、という聞き慣れない言葉を、家政婦長が小声で使っていた。わたしは書斎に入る。入ってはいけない部屋だけれど、いけない理由のほうが、もう分からなくなっていた。
机の上に、綴りが紐で括られて積んである。題箋の字は、みんな同じ手。仕入れ。給金。修繕。社交。租税。祭壇。祭壇、という綴りがあることに、まず驚いた。花の代金が、月ごとに几帳面に記されている。五年ぶん。厨房で聞いた話は、ほんとうだった。
いちばん上に、総目録という頁があった。どこに何があるか、ぜんぶ書いてある。迷子にならないように手を引いてくれる書き方だった。わたしは目録に従って、社交の綴りを開いた。
わたしのドレスの領収書が、そこにあった。仕立屋の名前、布地、日付。去年の冬の、若草色の一着。あの色は、わたしが選んだ色ではない。目の色に映えますから、と勧められて、勧めてくれた人の顔を、わたしはよく見もしなかった。仕立て上がりを褒めてくれたのは学院の友人たちで、つまりわたしは、礼を言われる筋の人に、一度も礼を言っていない。袖のレースを直してもらったぶんまで、控えが挟んである。隣の頁には学院の月謝。三年ぶん、ひと月も欠けずに。
控えの字を、わたしは知らなかった。
お母様の字なら分かる。丸くて、伸びやかで、語尾の跳ねる字。お母様の手紙は、いまも文箱に取ってある。お父様の字も分かる。太くて、途中で急ぎだす字。これは、どちらでもない。小さくて、均一で、飾りのない字。数字は、定規を当てたみたいにまっすぐ並ぶ。
同じ字が、綴りじゅうにあった。仕入れにも、給金にも、祭壇にも。五年ぶん、ぜんぶ。
社交の綴りの奥に、薄い紙の束が挟まれていた。質屋の名前の入った受取。品名の欄を読んで、指が止まった。
真珠の飾り櫛。金鎖の頸飾り。琥珀の耳飾り。
ぜんぶ、お母様のものだ。肖像画のお母様が髪に挿している、あの櫛。受取は十七枚あって、日付は五年のあいだに散らばっている。どの紙にも、買い戻し、と書いてある。買い戻しということは、その前に、手放した誰かがいたということだ。
血の気が引く、というのを、わたしは初めて体でおぼえた。
台所へ降りて、ベルタに受取を見せた。ベルタは前掛けで手を拭いてから、紙には触らずに、目だけで読んだ。
「櫛のことは、存じませんでした。……ですが、腑には落ちます」
「どうして」
「先代の家令様が、お暇のときに仰っておいででした。新しい奥様は商家で帳場をお預かりだった方だ、この家はもったいない方を頂いた、と」
「帳場って」
「数字のお仕事でございます、お嬢様。誰にでもできるお仕事ではございません」
もったいない方。その言い方を、わたしは五年間、一度も聞いたことがなかった。この家であの人に付いていた言葉は、地味、気が利かない、お母様とは違う。ぜんぶ、わたしも使った言葉だ。
受取を返すベルタは、それ以上何も言わなかった。言わないことで、言っていた。厨房の湯気は、今日は薄い。仕入れが細っているからだと、いまのわたしには分かる。
夜になって、お父様が戻られた。書斎に灯りがつくのを待って、わたしは綴りを二冊と、受取の束を抱えて入った。机の上には、昼にはなかった紙が散っている。督促、催告、支払期日。同じ意味の言葉が、いろんな字で並んでいた。
お父様は疲れた顔をしておいでだった。それでも、わたしは待たない。机に紙を並べる。ドレスの控え。月謝の控え。祭壇の綴り。
「この領収書の字は、お母様の字ではありません。お父様のでもありません」
「ティルダ、いまはそれどころでは」
「では、誰の字なのですか」
お父様は紙を見た。長いこと見て、それから目をそらして仰った。
「遺産で払っていたはずだ」
「はずだ、というのは、どういう意味ですか」
「ヴィオラの遺産があった。この家の払いは、それで回っていた。ずっとそう聞いて」
「誰に、お聞きになったのですか」
返事はない。
「お父様は、その遺産をご覧になったことがあるのですか。証書でも、目録でも、一枚でも」
沈黙が長かった。かわりに出てきたのは、子どもが口を挟む話ではない、という言い方だった。いつもなら、わたしはそこで引き下がる。いつもなら。
「わたしの学費の督促状が来ています。これは子どもの話です」
お父様は、それには答えられなかった。答えられないということが、いちばんの答えだった。わたしは紙を机に置いたまま、書斎を出た。
廊下に出てから、左手にずっと握っていたものに目を落とす。書斎の机の隅で拾った、空の封筒。差出しの刷りに、公証人レンナルト事務所、とある。住所の行に、川沿いの通りの名前。封筒の隅を、指の腹でなぞる。中身は抜かれて、封筒だけが屑籠の脇に落ちていた。
この事務所は、あの字の行き先か、出どころか、そのどちらかだ。訊いて教えてもらえるかは分からない。それでも、名前と場所の刷られた紙は、いまのわたしには地図に近かった。皺にならないよう、伸ばして持ち直す。
寝る前に、お母様の部屋に入った。五年間、時間の止まったままの部屋。宝飾箱は、棚のいつもの場所にあった。
蓋を開ける。樟脳の匂いが、五年前と同じ濃さで立ちのぼる。内蓋に、畳んだ紙が挟んであった。目録。品名が十七、日付が十七。字は、あの字だった。この部屋の時間を止まったままにしていたのも、埃を払い、匂いを保ち、箱の中身を揃え続けていたのも、時間の外にいる誰かの手だ。
真珠の飾り櫛を手に取る。歯は一本も欠けていない。肖像画の中でお母様の髪にあるのと、同じ形。ずっとここにあったのだと、わたしは信じていた。ずっとここにあるように、そのたびきちんと戻した人がいただけだった。
命日の晩、花の色のことを口にしたのは、わたしだ。来年は純白にいたします、とあの人は言った。刺した棘のぶんだけ、いまは自分の指が痛い。
お母様の形見は、一度、質屋の棚にあった。




