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亡き奥様を敬っていたのは、旦那様ではなく後妻の私だったのでは?  作者: 九葉(くずは)


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第4話 料理長の証言

マレーナ様が発たれて、今日で七日になる。


騒ぎは初日の昼に始まった。書斎を整えに入った家政婦長が、机の上の紙を見つけて、青い顔で降りてくる。旦那様は夜半のお戻りで、まだお休みだった。起こすかどうかで小一時間。結局、昼餉の席で紙が渡った。それきり旦那様は書斎にこもって、夕餉には降りてこなかった。昼餉の皿は、ほとんど手つかずで戻ってくる。手つかずの皿ほど、厨房に多くを教えるものはない。


厨房は、その晩も普段どおりに回った。回ったのは、その晩までだ。


二日目、献立の覚えを出す先がないことに気づいた。毎朝、仕入れの覚えを家政室に置けば、昼には印がついて戻ってきた。子牛が高ければ二品入れ替わり、卵が余れば菓子がひと品増えた。あの印を待たずに鍋を火にかけたことは、わたしは五年、一度もない。


覚えは三日、家政室の机に置かれたままになった。


三日目に酒屋が来た。月末の払いの日だった。勘定場に人がいない。旦那様にお伺いを立てると、勘定は追って、とだけ仰った。追って、がいつなのかは、誰にも分からない。酒屋は帰り際、納めたばかりの樽をひとつ、荷馬車へ積み直していった。この厨房で二十年働いて、納めた樽が屋敷から出ていくのを見たのは初めてのことだ。


四日目には肉屋と粉屋が並んで来た。話は酒屋から回っている。掛けはご遠慮申し上げます、現金でしたら、と番頭は言った。帽子を取って、詫びまでした。詫びる相手を間違えていると思ったが、口には出さなかった。現金の在り処を知る者が、この屋敷にはいない。仕入れは半分になり、献立はわたしの一存でしのいだ。しのぎながら、これは決裁ではないと分かっていた。決裁というのは、家の勘定ぜんぶを見ている人が、責めを負ってつける印のことだ。


給金の袋は、棚にある。来月のぶんまで、名前が書かれ、封がされて。厩番の子の袋には馬の印まで付いている。けれど、その先の袋を作れる者はもうこの家にいない。袋がどうやって作られていたのか、家政婦長も知らなかった。金がどこから来て、どこへ払われていたのか、誰も知らない。知らずに済んでいたことを、皆、今週になって知った。わたしの給金も、あの棚の袋から出ていた。袋の字が誰の手か、わたしは知っていて、知らないふりをしてきた。それが奉公人の作法だと思っていたからだ。作法を向ける相手は、もういない。


五日目、下働きの娘がふたり、暇を願い出た。年季の途中だが、旦那様はお止めにならなかった。若い者は鼻が利く。傾ぐ家の匂いは、厨房の焦げより早く回る。


厩番の子は残った。袋に馬の印がある限りはいます、と言う。誰が付けてくれた印かは、あの子も知っている。


六日目、ティルダ様が寮からお戻りになった。


馬車を降りるなり、玄関広間で足を止められた。祭壇の前で、長いこと動かれない。


花が、萎れていた。


発たれた朝に活けられた一輪が、七日を待たずに首を垂れている。水を替える者がいなかった。花は生き物だ。手が絶えれば、待ってはくれない。


夕刻、ティルダ様が厨房へいらした。お嬢様が厨房へ降りてこられるなど、年に一度もないことだ。


「ベルタ。祭壇の花のことで、訊きたいの」

「はい」

「あの花、枯れているわ。新しいのは、いつ届くの」

「届きません。ご注文がございませんので」

「注文って……いままでは、どうしていたの。お父様が、花屋に」


手が、勝手に止まった。鍋の湯気の向こうで、お嬢様がまっすぐこちらを見ている。亡くなった奥様によく似た、綺麗な目で。嘘のつける目ではない。つく気も、なかった。


「祭壇の花を替えていたのは、旦那様ではございません」

「……では、誰が」

「マレーナ様でございます。毎週ご自分で花屋にご注文なさって、夜明け前に、ご自分の手で活け替えておいででした。五年のあいだ、一度も欠かさずに」


ティルダ様は、しばらく黙っておいでだった。湯気だけが、ふたりの間で立っている。お嬢様の手が、胸の前に抱えた学院の鞄の紐を、固く握っている。それから、献立は、と小さく訊かれた。


「マレーナ様でございます」

「みんなのお給金は」

「マレーナ様でございます」

「……わたしの、学院のお金は」

「月謝の送りも、仕立屋の払いも。控えの筆跡をご覧になれば、お分かりになります」


お嬢様は、それ以上お訊きにならない。ただ、祭壇の花は、と最後にもう一度だけ言いかけて、言葉のほうが先に尽きた。厨房を出ていく背中が、いらしたときより小さい。階段を上る足音が、途中で一度だけ止まった。玄関広間の、祭壇のあたりで。


夜、竈の火を落としてから、明日の仕入れを考えた。肉はない。卵は少し。酒屋は来ない。それでも覚えは明日も書く。書くだけは書く。二十年の癖というのは、そういうものだ。書いたところで、印をつけて返してくれる人はいないのだけれど。


献立というのは、決める人がいて初めて献立になる。人のいない台所にあるのは、ただの食材だ。


台所には、明日の献立を決められる者がもういない。

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