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亡き奥様を敬っていたのは、旦那様ではなく後妻の私だったのでは?  作者: 九葉(くずは)


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第3話 完済の朝

約束の刻限より早く着いたのに、完済証書はもう机の上に揃えられていた。


二通。名義の欄、元金の欄、利息の欄、完済の日付。レンナルト氏は一通ずつ条文を読み上げ、語の意味をひとつずつ確かめてから、頁を私のほうへ回した。紙は厚く、インクは乾いている。五年かけて畳んできたものが、綴り五冊ぶんの重さを失って、二枚の紙になっていた。


「受け渡しの控えに、お受け取りの署名を。いつもの形で」


いつもの形とは、家の名のことだ。私は差し出されたペンを見て、それから、受取人の欄の白さを見た。


「今日は、私の名前で書かせてください」


自分でも意外なほど、はっきりした声が出た。氏は異を唱えなかった。ペンを一度引き取り、書き味の重い、事務所でいちばん良いペンに差し替えて寄越す。


マレーナ、と書いた。家の名を添えない、名前だけの署名。紙の上で見ると、自分の名前は思っていたより短い。五年間で何千枚と署名をしてきて、この形で書いたのは初めてだった。


インクが乾くまで、氏は急かさなかった。砂時計は裏返されないまま、机の端に立っている。この面談は、時間で測られていない。


「最初にいらした日を覚えています。買い戻しの順序を書いた紙を、お持ちでした」

「あの紙を、まだ」

「五年で、あれより正確な計画書を見ておりません」


世辞の声ではなかった。帳面の値打ちを読み上げるのと同じ、平らな声。だからそのまま受け取れた。


「お預かりする控えの袋書きにも、同じお名前を頂きます」


氏は封筒の表を私へ向けた。事務所に残る一通は、家の名の綴りにではなく、この袋に入って棚へ上がるらしい。私の名前の袋に。妙な気分だった。この建物のどこかに、私の名前で引ける抽斗ができる。


「精算の残余は、家宛ての為替でお送りします。これで五年間のお取引はすべて終いです」


終い、という言葉を、氏は事務的に言った。事務的に言われたことが、かえってありがたかった。ねぎらいの言葉を長く並べられたら、何かがほどけていたかもしれない。


席を立ちかけたところで、氏が刷り物を一枚、証書の写しに重ねて寄越した。


事務員の求人。筆耕と勘定。住み込みの部屋あり。給金の額まで刷ってある。


「私は、伯爵家を出るという話をした覚えはございませんが」

「ええ。ですから求人です。誰にでもお渡ししています」


嘘の下手な人だ。刷り物のインクはまだ匂うほど新しい。


「逃げ場ではありません。職場です」


氏はそれだけ言って、もう引き留めるでもなく、次の綴りへ手を伸ばした。私は刷り物を畳み、袖口に納めて、礼をして事務所を出た。石段を三つ降りる。袖の中で紙が小さく鳴った。


屋敷に戻ると、午後の光が書斎の窓に入っていた。


旦那様は昼前から倶楽部へお出かけで、戻りは夜半になる。いつもの曜日だ。ティルダ様は学院の寮にいて、次の帰省は月の終わり。屋敷は静かで、静かであることに、誰の許しも要らなかった。


仕事は決めてある。順番も決めてある。五年間、月のはじめに引き直してきた予定表の、最後の欄が今日だった。最後の欄がこの日になるように、最初の月に線を引いた。五度目の命日を、欠けなく勤めてから終わるように。


まず綴りの総目録を作った。仕入れ、給金、修繕、社交、租税、祭壇。それぞれの綴りに題箋を貼り、年の順に紐で括る。開けば誰にでも分かるように、頁の折れを直し、挟み紙を揃えた。分からないところが残らないように、とは思わない。分かろうとする人が読めば分かる。それで足りる。最後の頁には、向こう三月の支払い期日を一覧にした。書きながら、これは親切ではなく癖だと分かっていた。数字の始末を悪くしたまま、机を立てない質なのだ。


給金は来月ぶんまで袋に分けて、家政婦長の棚に納めた。厩番の子の袋には馬の印。修繕費は払い済み。仕立屋も、学院も、酒屋も、払いの残りはひとつもない。


寝室で、奥様の宝飾箱を検めた。十七点。真珠の飾り櫛から順に、目録と突き合わせる。ぜんぶ揃っている。目録を畳んで箱の内蓋に挟み、蓋を閉じた。箱は棚のいつもの場所へ。この箱の中身が一度町に出て戻ったことを、目録の日付だけが知っている。


自分の部屋の支度は、半刻で済んだ。五年住んだ部屋から持ち出すものが、鞄一つに収まる。収まってしまうことについては、考えないことにした。


花代の先払いだけは、しなかった。


この先の花は、この家の誰かが頼めばいい。頼み方なら花屋が知っている。


日が暮れてから、離縁状を書いた。


用意の紙は一枚きり。日付、家名、そして署名。この家の紙に私の名前だけを書くのは、婚姻の証書に次いで二度目になる。最初の一枚でこの家に入り、二枚目で出ていく。間に挟まった五年間は、家の名前で書き続けた。書き終えた署名を見る。婚姻のときの字より、いまの字のほうが痩せている。署名だけが年を取ったのだと、川沿いの事務所なら言うのかもしれない。


書き終えた紙を机の中央に置き、文鎮を載せる。完済証書は金庫に納めた。借用書の綴りは空のまま、証書の隣に。金庫の中身は、これで紙が二種だけになる。減った借金と、増えた証書。この家の五年間を数えられるものは、それでぜんぶだった。


告げたいことは、ほかに何もない。書き足せば告発になる。告発をするつもりは、最初からなかった。


厨房には、まだ火の気が残っていた。


ベルタが竈の前で、明日の仕込みの豆を選っている。私が戸口に立つと、手を止めずに言った。


「夜食でございますか」

「いいえ。お礼を」


手が止まる。豆がひとつ、桶の縁に当たって、土間を転がった。


「五年間、厨房に助けられました。お世話になりました。帳簿は、書斎の机に」


振り向いたベルタは、私の顔と、旅装ではない普段着とを順に見た。それから何も訊かずに立ち上がり、棚から油紙の包みをひとつ持ってきて、私の手に載せた。焼き菓子と、茶葉の匂い。この焼き菓子は卓には上がらない、厨房の者のためだけの裏方の味だ。その味を、私は五年、この家でいちばん好きだった。


「明け方は、冷えますから」


いつから用意していたのかは、訊かない。ベルタも言わない。ただ包みの結び目が、豆を選る手つきと同じくらい丁寧だった。


「お気をつけて。……マレーナ様」


この屋敷で、その呼び方をされたのは初めてだった。私は深く頭を下げる。長く、床の石目を数えるほど。厨房を出るとき、背中で竈の火の落ちる音がした。


未明に部屋を出た。


鞄はひとつ。着替えと、証書の写しの入った袋と、袖口の刷り物。廊下は暗いが、蝋燭は要らない。この家の段差は、ぜんぶ足が覚えている。階段の三段目は踏むと鳴くので、端に足を置く。五年前、眠れない夜に覚えた歩き方だ。覚えたことのほとんどは、この家に置いていくことになる。持っていけるのは、覚えたという事実だけでいい。


玄関広間の祭壇の前で、足を止めた。


昨日届いたばかりの白い花を、束のまま桶から上げる。茎の切り口を検め、いちばん形の良い一輪を選んで、古いものと差し替えた。水を新しくする。注ぎ口から銀器へ、水音がひとすじ、暗い広間に落ちる。燭台との間合いを直し、芯を切り、肖像画の額の埃を払う。手順はいつも通り。指が勝手に動くほど、いつも通り。この手順を知る者は、夜が明けたら、この家からいなくなる。


絵の中の奥様は、今朝もすこし困ったように微笑んでいる。


お暇をいただきます、と胸の内で告げた。あなたの名前は、綺麗なまま置いていきます。それだけ言って、頭を下げた。五年間で、いちばん長い礼だったかもしれない。


通用口の戸は、音を立てずに開く建て付けを知っている。外は朝靄で、門柱の先の道はまだ白かった。振り返ると、屋敷はまだ眠っていて、窓のどれにも灯りはない。門柱の紋章が、靄の中で輪郭だけになっている。五年前、この紋章の下をくぐって入った。名前は、そのとき門の外へ置いてきた気がする。今日は拾って帰るだけだ。


川沿いの方角から、朝の水の匂いがする。


歩き出すと、袖の中で刷り物がかさりと鳴った。靄の先で、荷馬車の輪の音がする。町の朝は、屋敷より早い。


離縁状は机に。証書は金庫に。給金は棚に。払いの残りはどこにもない。


祭壇の花だけは、新しいものに替えておいた。

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