第2話 遺産と呼ばれていたもの
屋敷の一日は、決裁の判を捺すことから始まる。ただし、判に彫られているのは家の名で、私の名ではない。
朝のうちに、ベルタの出した仕入れの覚えに目を通した。子牛は先週より高い。卵は据え置き。献立の隅に印をつけ、二品を入れ替える。ベルタは黙って覚えを引き取り、厨房へ戻っていく。決裁が誰の手で行われているかを、厨房の者は誰も口にしない。
給金は月のこの日に袋へ分ける。名前を書き、額を数え、封をする。四十二人ぶん。袋にはそれぞれの名前があるのに、分けている手の名は、どこにも残らない。
先月から、袋がひとつ増えた。厩番の子が住み込みになったからだ。読み書きがまだ怪しいというので、袋の名前の横に馬の印を小さく描き添える。取り違えを防ぐ工夫は、名前だけとは限らない。
学院からはティルダ様の月謝の知らせが来ていた。送金票を書き、仕立屋の請求と重ねて綴りに挟む。控えの筆跡はどれも同じ手になる。当然のことで、書いているのが同じ手だからだ。
昼前に、町へ出た。
質屋の主人は、私の顔を見ると奥から小箱を出してくる。
「お約束の品でございます。よいお納めどきで」
主人とは五年の付き合いになる。最初に暖簾をくぐった日、私は買い戻しの順序を書いた紙を渡した。利息のかさむ順、質流れの近い順。主人はそれを一瞥して、以後、期日の前にはかならず文をくれるようになった。商いの相手として扱われる時間が、この五年でいちばん息のしやすい時間だったかもしれない。
箱の中には真珠の飾り櫛。歯は一本も欠けていない。棚の奥で五年、誰の髪にも挿されずにいたのだから、当然のことだ。奥様の嫁入り道具の一つで、五年前にはこの店の棚にあった。細工と利息を検分し、包みを受け取り、受取の欄に家の名を書く。これで十七点。奥様の宝飾で町に出ていたものは、全部戻ったことになる。
戻した品は、屋敷の宝飾箱へ納める。箱を開けるのは私だけだ。旦那様は中身が減っていたことを知らないのだから、増えたことにも気づかない。
公証事務所は、川沿いの通りにある。
石段を三つ上がって扉を押すと、紙とインクの匂いがした。壁は天井まで書棚で、綴りの背が高さを揃えて並んでいる。五年前に初めて来た日、私はこの棚を見て、ここなら任せられると決めた。紙の扱いを見れば、金の扱いは分かる。主のレンナルト氏は、茶を出さない。かわりに話が長引く日は、机の砂時計を黙って裏返す。刻みを新しくして、客を急かさないための癖なのだと、受付の老人がいつか教えてくれた。氏は机の前に立って待っていた。隣国の出だと聞いている。物腰は簡潔で、余計な世辞を言わない。五年通って、天気の話をしたことが一度もない。
「お掛けください。最後の確認です」
机の上に、綴りが五冊。五年分の返済記録。開かれた頁の名義の欄には、几帳面な字でこうある。ヴィオラ、と。
亡くなった奥様の名だ。借用書の名義はすべて奥様のもので、貸付の日付は嫁入りの前後に集まっている。宝飾を質に入れ、それでも足りずに方々から借りた。理由は知らない。知る必要もないと決めている。私が嫁いだ月、老いた家令が暇乞いの間際に、油紙の包みを黙って私へ渡した。それが始まりだった。
「繰上げの計算はお見事でした。利率の高いものから畳んで五年。当初の見積もりより二年早い」
「実家が商家に出しておりましたので。計算は、そこで覚えました」
父はその奉公を家格の傷と呼び、嫁ぐ前に口止めをした。経理の心得など、伯爵家の後添えには要らないものだと。要らないどころか、この五年で減ったのは借金だけで、増えたのは私の筆跡ばかりだった。
「完済金の受け渡しは来週になります。精算で残余が四十リギル出ますが、お返し先の口座を」
「私名義の口座はございません。家の名でお願いいたします」
レンナルト氏は、書きかけの手を止めた。一拍おいて、余白に家の名を書き足す。
「五年、伺いそびれていたことをひとつ」
「どうぞ」
「このご返済は、どなたのお指図ですか」
「指図というものは、特に」
「では、あなたのご判断で」
「家の勘定の内でございます」
答えになっていない返事を、氏は追わなかった。綴りを一冊手前に引き、署名欄を指の先でなぞった。
「五年分の書類の中で、あなたの署名だけが、年々疲れていきます」
顔を上げる。机の向こうの目と、まっすぐにぶつかった。公証人というのは書類を見る仕事だと思っていた。書類の向こう側を見られているとは、考えたこともなかった。
「筆圧の話でしたら、ペンを替えます」
「筆圧の話では」
そこで氏は言葉を切る。綴りが静かに閉じられ、紙の重い音がした。
「来週、完済証書をご用意します。控えは二通。一通はお家へ。もう一通は」
「一通で結構でございます」
「二通お作りします。ご不要でしたら、当所でお預かりするだけです」
押しつけではない言い方で、けれど引きもしなかった。私は礼だけを述べて席を立つ。扉のところで振り返ると、氏はもう次の綴りを開いていて、こちらを見てはいなかった。それがなぜか、見られているより落ち着かなかった。
石段を降りながら、署名の疲れ、という言い方を胸の内で繰り返す。疲れているのは字ではないでしょう、と言われたわけでもないのに、言われた気がして仕方がなかった。
帰り道、花屋に寄って来週ぶんの花を頼んだ。
「命日も済みましたのに、お絶やしになりませんので」
「絶やす理由がございませんから」
主人は白のよい枝ぶりを見繕うと請け合った。帳場の隅では、小さな女の子が花の茎を切りそろえている。孫だという。挨拶をすると、膝を曲げてぎこちないお辞儀を返してくれた。祭壇の花は週にひと括り。五年、欠けた週はない。来週の花も、いつもと同じ白でいい。いつもと同じ、が積み重なって祭壇は祭壇でいられる。水の替えどき、蕾の開きの遅速、燭台との間合い。祭壇まわりの手順を、私はどこにも書き残していない。書き残す相手がいなかったからだが、不便に思ったことはない。
夜、家政室で今日のぶんを綴りに移した。質屋の受取、送金票の控え、給金の記録。どの紙にも家の名がある。社交界は、この家が奥様の遺産で立っていると言う。昨日の弔意の文にも、そう書かれていた。訂正して回るつもりはない。奥様の名誉は、この家に残る数少ない綺麗なものだからだ。
綴りの端には、返済の予定表を挟んである。五年間、月のはじめに引き直してきた表だ。来週の欄で、表は終わる。その先は、白いままにしてある。
ただ、事実だけは、私と川沿いの事務所が知っている。この家に遺産が届いた日は、一日もない。
遺産など、最初から一枚の借用書しかなかった。




