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亡き奥様を敬っていたのは、旦那様ではなく後妻の私だったのでは?  作者: 九葉(くずは)


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第1話 命日の晩餐

白い花は、夜明け前に届くように手配してある。


花屋の荷を受け取り、露を拭い、祭壇の銀器に活け直すまでが、この日の最初の仕事だった。先妻ヴィオラ様の祭壇は玄関広間の奥にある。屋敷でいちばん陽の入る場所を選んだのは五年前の私で、そのことを知る者は、いまはもう花屋と私くらいのものだ。


「本日もよい枝ぶりを選んでまいりました」


花屋の主人は毎週この時刻に来る。五年前、最初の注文のときに一度だけ宛名を訊かれ、家の名で、と答えた。それきり伝票の宛名は変わらない。主人は荷を降ろし、私は検分し、受け取りの欄に家の名を書く。私自身の名は、この五年、一度も伝票に載ったことがない。主人は私を、奥様とも名前とも呼ばず、ただ丁寧に頭を下げる。それで用は足りている。


祭壇の銀器を磨き、蝋燭の芯を切り、肖像画の額の埃を払う。絵の中の奥様は、すこし困ったように微笑んでいる。生前を知らない私は、この表情としか話したことがない。


厨房では料理長のベルタが仕込みを終えていた。献立は生前の奥様が好んだ品を、当時を知る者たちの記憶から起こしたもの。今年で五度目になる。子牛の煮込みの香草をひとつ減らすこと、葡萄酒は北の谷のものにすること。指示書は昨夜のうちに渡してあった。


「香草はお指図どおりに。亡くなった奥様の味に、今年がいちばん近いはずでございます」


ベルタは鍋の火加減から目を離さずに言った。指示書が誰の手で書かれたかを、ベルタは口にしない。厨房で分かっていれば、それで足りることだからだ。


「奥様、卓の花はいかがいたしましょう」

「祭壇と同じものを。丈は短く」


奥様、と呼ばれるたび、厨房の空気がすこし固くなる。この家で奥様といえば、いまも祭壇の人のことだからだ。私は返事だけをして、支払いの綴りに花屋の請求を挟んだ。署名の欄には家の名を書く。私の名を書く欄は、この綴りのどこにもない。


昼のうちに弔問の返礼を仕上げた。文面の型は三種、書き分けは相手の家格で決める。署名はどれも家の名。夕刻には広間の蝋燭を数えた。五年前から手順は変わらない。変わらないように、私が揃えてきた。


晩餐は日が落ちてから始まった。


旦那様は喪の色の上着で席に着き、祭壇に一礼してから盃を上げた。ティルダ様は目の縁を赤くしている。十五の娘にとって、母の命日は五度目でもまだ生々しいのだろう。給仕は本来なら家政婦長の差配だが、この晩餐だけは五年前から私が立つ。理由は単純で、この日の勘定のすべてを知っているのが私だけだからだ。


「ヴィオラの祭壇は、いつ見ても花が絶えないな」


旦那様が広間の奥へ目をやった。

「屋敷の者が、よく尽くしてくれている。あれの人徳だろう」

「お母様は、皆に好かれていらしたから」


花屋への支払いは月の初めに私が済ませている。けれどそれは、わざわざ言うことでもなかった。盃が空く。注ぎ足す。手を止めなければ、卓の会話は途切れずに流れていく。


「ヴィオラは竪琴が上手かった。夜会のたびに所望されて、なかなか帰してもらえなかった」

「覚えているわ。お客様が何度もおかわりを願って」


二人は小さく笑い合う。よい思い出話だった。私は葡萄酒の壜を替え、燭台から垂れた蝋を紙で受けた。


思い出話に加われないのは、席次のせいではない。私はその夜会を知らない。この家に来たとき、奥様はすでに肖像画の中の人だった。知らない人の好みで卓を整え、知らない人の命日を、五年間違えずに数えてきた。


「今年の花、すこし緑がかっているのね」


祭壇のほうへ目を向けたまま、ティルダ様は続ける。「お母様は、混じりけのない白がお好きだったわ」

「来年は純白のものにいたします」

「……ええ」


謝る場面ではないので、謝らなかった。ティルダ様は皿に目を落とし、それきり私に話しかけてこない。棘というほどのものでもない。母を覚えている娘の、正確な記憶だ。私は空いた皿を下げ、次の皿の温度を指の背で確かめる。


「今日は方々から弔意の文が届いた」


旦那様は上着の内から一通を出し、卓の上で開いた。

「読み上げよう。当家の栄えはひとえに亡き夫人の遺徳と、遺されたご遺産の賜物である、と。ありがたいことだ。あれは逝ってなお、この家を支えてくれている」


ティルダ様がうなずく。二人の視線は祭壇の白い花に向いていて、その花がどこの店のもので、いくらで、誰の指図で今朝そこに活けられたのかは、話題にならなかった。当然のことだ。花は毎週、あの場所にある。五年のあいだ、一度も欠けたことがないのだから。


「ヴィオラが生きていれば、この家はもっと明るかっただろう」


盃を置いて、旦那様は言った。誰かに向けた言葉ではなかったのだろう。ただ、卓にいる人間のうちで、それに返事のできる者は私しかいなかった。


「はい。きっと」


短く答えて、冷めた皿を下げた。嘘は言っていない。奥様が生きていれば、と私も思う。生きていてくださればと、この五年、幾度となく思ってきた。


祭壇の蝋燭が一本、芯を焦がして小さく爆ぜる。私は席を立ち、芯を切って戻った。誰も私が立ったことに気づかなかったし、戻ったことにも気づかなかった。


晩餐は一時間ほどで終わった。旦那様は書斎へ、ティルダ様は自室へ戻っていく。私は片付けを見届け、祭壇の蝋燭の残りを確かめ、それから広間の灯りをひとつずつ落としていった。白い花だけが、暗がりの中でもまだ白い。明日の朝には水を替える。それも、まだ私の仕事だ。


自室へ戻る前に、家政室へ寄った。


抽斗の奥から、油紙に包んだ綴りを出す。借用書の束。紐を解くと、古い紙の角が指に触れる。何度も数えられた紙は、角からやわらかくなっていく。五年前、この家に嫁いだ月に初めて見たときは、いまの倍の厚さがあった。一枚ずつ期日を確かめ、返し、綴りから外して、別の封筒へ移していく。その作業を六十と幾度か繰り返して、残りはこの一枚になった。


封筒のほうは、もう紐が結び直せないほど膨らんでいる。一枚移すたび、裏にその日の日付を書き足してきた。最初の一枚の裏にあるのは、嫁いで二月目の日付だ。


利息の組み直しは、嫁いだ年の冬にやった。月々の返済の額、質流れを止める期日、繰上げの余地。数字は裏切らない。この家で、期日どおりに返事をくれるのは数字だけだった。


名義の欄は、折り目の内に隠れている。開いて確かめる必要は、もうなかった。誰の名であれ、期日までに返すことに変わりはない。


金額を見る。日付を見る。来週、公証事務所での最後の面談を終えれば、この一枚も封筒の側へ移り、綴りは空になる。空になった綴りをどうするかは、まだ決めていない。


蝋燭を消す前に、もう一度だけ日付を確かめた。


最後の借用書の返済期日は、命日の翌週だった。

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