第9話「新緑の祝福」
からりと晴れ渡った青空に、王都の大鐘楼から祝福の鐘の音が鳴り響いていた。
新緑の並木を揺らす心地よい風が、広場に翻る純白の天幕を優しく撫でていく。
石畳を踏み鳴らす無数の馬車と、店先を取り囲む人々の熱気あるざわめき。
王都中央広場の一等地に、新装された『加護工房レーヌ』の本店が、本日その門出を迎えていた。
白亜の石壁に、金色の百合の紋章が誇らしげに輝いている。
追放からおよそ九十日。
かつて雨の路地裏で身を縮めていた私が、いま、王都で最も注目を集める工芸工房の主として立っていた。
「エレナ様、開店の準備がすべて整いました」
澄んだ声に振り返ると、仕立ての良い職人服に身を包んだミナが、満面の笑みを浮かべていた。
あの日、怯えて震えていた面影はどこにもない。
彼女の胸元には、黒曜会の一員を示す小さな銀の記章が誇らしげに留められていた。
「ありがとう、ミナ。とても心強いわ」
「へへ、エレナ様のためなら何だってやります! ダンさんもヴェルナーさんも、気合十分ですよ!」
店先へ目をやれば、怪我の完治した荷運び頭のダンが、職人たちとともに見事な手つきで荷を運び込んでいた。
周囲の警戒に目を光らせているのは、私兵隊長ヴェルナー率いる「黒曜の番」の隊員たちだ。
帳簿を片手に流通の指示を飛ばす副会頭ロイの眼鏡が、陽の光を浴びて知的に煌めいている。
裏街で出会ったかけがえのない仲間たちが、全員でこの工房を支えてくれていた。
だが、広場の端には、なおも冷淡な視線を投げかけてくる者たちの姿もあった。
保守的な貴族や大商人の一派が、遠巻きに腕を組み、眉をひそめて囁き合っている。
「平民のギルドが中央広場に店を構えるなど、前代未聞だ」
「いくら王室特許を得たとはいえ、所詮は裏街の出身。貴族に仕える工芸品を平民にも安価で売り捌くなど、秩序を乱すにも程がある」
貴族と平民の垣根を越えようとする私たちの商法に対する、旧弊な偏見の残滓。
身分という枠組みに縋りつく彼らにとって、私たちの存在そのものが目障りなのだろう。
そんな無遠慮な囁き声が広場を支配しかけた、その時だった。
広場の入り口から、ファンファーレの澄んだ音色が高らかに鳴り響いた。
王室の近衛兵たちが左右に分かれ、大通りを埋め尽くしていた市民たちが一斉にざっと道を譲る。
姿を現したのは、白馬四頭に引かれた、王家の豪奢な馬車だった。
ざわめきが急速に静寂へと変わり、馬車の扉が静かに開く。
降り立たれたのは、見事な真珠のドレスを纏った王妃陛下ご自身だった。
「ひ、王妃陛下自らのお成りだと……!?」
陰口を叩いていた貴族たちが狼狽し、慌ててその場に平伏した。
王妃陛下は従者を従え、敷かれた絨毯の上を堂々と歩み、工房「レーヌ」の正面へと進み出られた。
私とカイルは、一歩前へ出て深々と礼を捧げた。
「お顔を上げなさい、エレナ。そしてカイル」
王妃陛下の穏やかな声が響いた。
「そなたたちの作った加護の織物は、我が身を癒やすのみならず、過酷な現場で働く多くの民の命をも救っていると聞き及んでおります」
王妃陛下は侍従から小さな黒天鵞絨の箱を受け取ると、自らの手でそれを開かれた。
中に入っていたのは、王冠と糸巻きの意匠が精巧に彫り込まれた、黄金の栄誉勲章だった。
「身分に溺れて偽りを弄んだ愚者たちとは異なり、そなたの技は真実そのもの。エレナ・クロフォード……いえ、ただのエレナ。王室の名において、そなたに王国最高名誉職人位を授与いたします」
広場が、水を打ったように静まり返った。
最高名誉職人位――国中の全職人の中で、一世代に一人しか与えられない至高の称号。
「謹んで、拝受いたします。王妃陛下」
私が深く頭を下げると、王妃陛下は私の胸元に自らの手で勲章を留めてくださった。
「そなたの加護の光を、これからも王国の隅々まで届けておくれ」
王妃陛下の祝福の言葉が落ちた瞬間、広場全体から地鳴りのような拍手と歓声が沸き上がった。
市民たちが帽子を投げ、職人たちが拳を突き上げて喜びを分かち合っている。
先ほどまで蔑みの目を向けていた貴族たちも、いまや完全に圧倒され、平伏したまま動けずにいた。
理不尽に捨てられ、すべてを奪われたあの日から。
私は自らの手で、決して誰にも奪われない、揺るぎない確固たる居場所を築き上げたのだ。
胸の奥底から湧き上がる誇りと感謝に、視界がじんわりと滲んでいく。
◇
熱狂に包まれる広場の喧騒のただ中、私はふと、中央通りを挟んだ向かいの区画へと視線を向けた。
そこには、粗末な灰色の作業服を着て、泥まみれになりながら側溝の清掃作業をさせられている一人の男がいた。
アレン・ウォーレンだった。
近衛の誇りも、侯爵家の威光も剥奪され、平民の清掃夫へと身を落としたかつての婚約者。
彼は悪臭を放つ泥水を掬い上げるスコップを止め、呆然と広場の中央を見つめていた。
彼の視線の先には、黄金の勲章を胸に輝かせ、国中の民から歓声を浴びている私の姿がある。
かつて自分が『悪女』と決めつけ、追放した女性が、いまや王国の至宝として燦然と輝いているのだ。
アレンの泥だらけの手が、がたがたと激しく震え出した。
スコップを取り落とし、彼はその場に崩れ落ちるようにして両膝を泥水につけた。
アレンは泥に汚れた自らの両手を見つめ、顔を覆いながら、肩を激しく震わせて咽び泣いていた。
その惨めな姿に、私の中に残るものは何もなかった。
怒りも、恨みも、憐憫すらも。
私は静かにアレンから視線を外し、二度とその方角を振り返ることはなかった。
◇
式典の終盤、歓声の止まない広場の中央で、カイルが静かに私の正面へと歩み出てきた。
黒曜会の正装に身を包んだ彼の姿は、太陽の光を浴びて神々しいほどに際立っていた。
「エレナ様」
カイルは全市民が見守る中、ゆっくりと私の前に片膝をついた。
大勢の群衆が息を呑み、静寂が広場を包み込む。
カイルが懐から取り出したのは、小さな青い小箱だった。
蓋が開かれると、そこには光を受けて澄んだ青い輝きを放つ、特注の魔石が埋め込まれた白銀の指輪が収められていた。
かつて私が屑籠へ投げ捨てた、あの冷たい蒼硝子の指輪とは比べ物にならない、深い慈愛と魔力を宿した奇跡の石。
「十年前、路地裏であなたに命を救われてから、俺の心は一瞬たりとも揺らいだことはありません」
低く、甘く、けれど広場中に届く凛とした声で、カイルは言葉を紡いだ。
「あなたを誰よりも愛しています。俺の生涯の全てをかけて、あなたを幸せにすると誓います。どうか、俺の本当の妻になっていただけますか」
広場中から、祈るような沈黙が注がれる。
カイルの手が、私の左手へと伸びてきた。
私はもう、何の迷いも躊躇いも抱いていなかった。
私は微笑みながら、自ら一歩前へ踏み出した。
そして、空いている右手をそっと伸ばし、カイルの温かな頬へと自発的に添えた。
「はい、カイル様。喜んで、お受けいたします」
カイルの切れ長の瞳が、歓喜に大きく見開かれた。
彼は震える手で、私の左手の薬指へと、青い魔石の指輪を滑り込ませた。
指元に触れた瞬間、驚くほどの温もりが身体の芯へと広がっていく。
立ち上がったカイルが、私の腰をそっと引き寄せた。
至近距離で交錯する熱い吐息。
私は目を閉じ、彼から贈られる、甘く優しい誓いのキスを素直に受け入れた。
唇が重なり合った瞬間、王都の中央広場は、割れんばかりの祝福の喝采と拍手に包まれていた。




