第10話「幸福の輪郭」
こんなにも穏やかな夕暮れを、かつての私は想像できただろうか。
西の空が茜色から柔らかな紫紺へと移ろう中、私は私邸のテラスで、心地よい風に吹かれていた。
新装開店から数週間。
王都中央広場に構えた『レーヌ』本店は、身分を問わず多くの人々で連日賑わい、王室や騎士団への納入も極めて順調に進んでいた。
工房の運営は頼もしい仲間たちに支えられ、日々の業務は確かな軌道に乗っている。
広々とした庭には花々が咲き乱れ、甘い花の香りが夕風に乗って漂っていた。
テラスの欄干に掛けられた、私が織り上げた加護のレースが、風を孕んでふわりと優雅に揺らめく。
私はそっと、自らの結い上げた銀髪へと手を伸ばした。
指先に触れたのは、ひんやりとした金属の質感。
三枚の葉が透かし彫りにされた、銀細工の櫛型の髪飾り――母セシリアの形見だった。
あの日、法廷で手元に戻ってきて以来、私は毎朝、この髪飾りを大切に挿して一日を始めている。
胸元を温めるのは、奪われた過去への執着ではなく、母に見守られているような静かな安らぎだった。
そして左手の薬指には、夕暮れの光を吸い込んで澄んだ青を湛える、特注の魔石の指輪。
カイルから贈られた確かな誓いが、私の指元で変わらぬ温もりを灯し続けていた。
「エレナ様、少々よろしいでしょうか」
静かな足音とともに、副会頭のロイがテラスへと現れた。
手には、公的な封蝋が押された一通の報告書が握られている。
「ロイ。何かありましたの?」
「辺境の修道院工房を監督する監察官より、定期報告が届きました」
ロイは眼鏡の位置を直すと、感情を交えずに書類を開いた。
「リリアナ元令嬢の現状に関する記録です」
差し出された羊皮紙へ、私は静かに視線を落とした。
そこには、王都から遠く離れた寒冷地の修道院における、過酷な日々の記録が記されていた。
暖房もない冷え切った石造りの作業場で、リリアナは朝から晩まで、粗悪な野麻の布を織る強制労働に従事しているという。
かつて姉の手柄を横取りし、加護の構造も理解しないまま贅沢を貪っていた彼女の指先は、硬い麻糸に削られて常に血で赤く滲んでいる。
魔力結び目ひとつ再現できず、織り上がるのは市場にも出せないような歪な布切ればかり。
監督官の厳しい叱責を受けながら、彼女は夜ごと冷たい藁の寝台で、二度と戻ることのできない王都の栄華を思い出し、悔恨に咽び泣いているのだと。
かつて私を陥れ、誇りを踏みにじった妹の、逃れようのない現実。
私は報告書を静かに畳み、ロイへと返した。
「……そうですか」
胸の中に湧き上がったのは、冷たい納得だけだった。
かつては妹の身勝手な悪意に傷つき、憤ったこともあった。
けれど、いまの私には、もはや怒りも恨みも残っていなかった。
己が蒔いた悪意の種が、法と現実の前に刈り取られただけのこと。
彼女の存在は、私のこれからの人生において、一片の影すら落とすことはないのだ。
「ご苦労様でした、ロイ。届けてくれてありがとう」
「滅相もございません。……それでは、私はこれで失礼いたします」
ロイは深々と一礼し、踵を返して館の奥へと去っていった。
◇
夜の帳が静かに下り始める頃、背後から確かな足音が近づいてきた。
「エレナ様」
低く、甘く落ち着いた声音。
振り返ると、執務を終えたカイルが、柔らかな微笑みを浮かべて立っていた。
「カイル様、お疲れ様でした」
「あなたのお顔を見れば、どんな疲れも吹き飛びます」
カイルは私の隣へと歩み寄り、テラスの欄干に手を置いた。
夕闇の中に浮かび上がる彼の美貌は、息を呑むほどに端正で、その切れ長の瞳には私だけが映し出されている。
カイルは懐から、一通の羊皮紙を取り出した。
王立公証役場の印が押された、見覚えのある書類。
あの日、雨の境界線で拾われた翌朝、私が署名した『一年期限の婚姻契約書』だった。
「……エレナ様。この書面を、どうなさいますか」
カイルは真剣な眼差しで私を見つめた。
「一年という期限も、あなたの意思ひとつでいつでも離縁できるという条項も、すべてはあなたを理不尽な追手から守り、あなたの自由を尊重するためのものでした」
カイルの指先が、書類の端を静かに撫でる。
「ですが、先日の広場で、俺はあなたに生涯を誓いました。……俺には、あなたを手放す気など微塵もありません。あなたを一生、誰よりも愛し抜く覚悟です。だからこそ、決めるのはあなたです」
いつでも逃げ出せるようにと、彼が用意してくれていた防壁。
彼がどれほど深く私を想い、どれほど大切に私の心を尊重してくれていたのかが、痛いほど伝わってきた。
私はクスリと小さく笑みをこぼした。
「カイル様」
私は彼の手から、その契約書を受け取った。
そして、両手を使って、躊躇うことなくその紙を真ん中から引き裂いた。
さらり、と乾いた音を立てて破れた羊皮紙を、私はテラスの灰皿の上へ置き、備え付けの小さな火を灯した。
青白い炎が、かつての『契約』を灰へと変えていく。
「公証役場へは、期限と離縁条項を除いた婚姻届を、すでに用意してあります」
灰を見つめながら告げたカイルの言葉に、私は微笑み返した。
「では、明日、二人で参りましょう」
驚きに目を見開くカイルに向き直り、私は自ら一歩、彼へと歩み寄った。
「私にはもう、期限も、逃げ道も、何の契約も必要ありません」
私は彼の広い胸元へ、そっと自らの両手を重ねた。
仕立ての良いシャツ越しに、トクトクと力強く打つ彼の鼓動が掌に伝わってくる。
「私は、私の意志で、カイル様の妻になることを選びました。あなたの隣こそが、私が自分の手で選んだ、世界でたった一つの居場所です。……一生をかけて、あなたと共に生きていきたいのです」
「っ……」
カイルの喉が、熱い息とともに小さく鳴った。
次の瞬間、ふわりと私の身体が宙に浮いた。
「あ……」
カイルの逞しい腕が私の腰と膝裏へと滑り込み、私を軽々と横抱きに抱き上げたのだ。
「カイル様!?」
「もう、離しません」
至近距離で見つめ合う。
カイルの切れ長の瞳に、溢れんばかりの狂おしい愛しさと、歓喜の光が揺らめいていた。
「俺の命も、魂も、生涯のすべてをあなたに捧げます。……愛しています、エレナ様」
「……私もです、カイル」
私が敬称を外し、彼の名をそっと呼んだ瞬間、カイルの顔が急速に近づいた。
重なり合う、熱い唇。
奪われるような激しさと、壊れ物を慈しむような切ない優しさが、同時に押し寄せてくる。
一度離れかけた唇が、途切れることなく再び重なり、深く、甘く、溶け合うように貪られていく。
重なり合う互いの鼓動が、早鐘のように高鳴っていた。
腕の中に抱きしめられながら、私は全身がとろけるような熱情の中に身を委ねた。
理不尽に捨てられ、すべてを失った雨の夜。
あの絶望の淵から歩き出した先で、私はこんなにも温かく、誇らしく、愛に満ちた幸せを掴み取ることができたのだ。
やがて、名残惜しそうに唇を離したカイルが、私の額へと自らの額をこつんと寄せた。
至近距離で交わされる、熱く穏やかな吐息。
「……生涯、あなたを離さない」
「ええ。どこまでも、あなたと一緒です」
見つめ合う二人の口元から、自然と柔らかな笑みが零れ落ちた。
重ねた手から伝わる確かな温もりと、茜色から深い藍へと溶けていく穏やかな空。
二人の紡ぐ幸福の輪郭は、もう二度と、誰にも壊されることはない。
(完)
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