第7話「手遅れの懇願」
人はなぜ、すべてを失ってからしか、己を支えていたものの重さに気づけないのだろう。
しとしとと冷たい雨が降りしきる朝、私は工房の軒下で、その問いの答えを目の当たりにしていた。
石畳の路地の先に立ち尽くしていたのは、アレン・ウォーレンだった。
かつて誇らしげに纏っていた白銀の装飾は剥ぎ取られ、泥水に汚れた近衛の軍服は見る影もなく濡れそぼっている。
髪を乱し、隈の浮いた目で虚空を睨んでいた彼は、私と目が合った瞬間、弾かれたように駆け寄ってきた。
「エレナ……っ! エレナ、そこにいたのか!」
工房の敷地を仕切る低い鉄柵に、アレンが縋り付くように手をかけた。
その指先は泥に塗れ、爪の間には黒い土が詰まっている。
「……何の御用でしょうか、アレン・ウォーレン様」
私は一歩も近づかず、冷え切った声で問いかけた。
「頼む、エレナ! 僕の話を聞いてくれ!」
アレンは必死の形相で叫んだ。
かつて私を冷酷に見下ろし、私が婚約指輪を屑籠へ捨てた夜、怒りに顔を歪めていた高慢な貴公子は、そこにはいなかった。
「僕が悪かった! あの時はどうかしていたんだ! リリアナの嘘に騙されていたんだよ!」
醜い責任転嫁の言葉が、雨音の混じる路地に響き渡る。
「あいつが自分から階段を滑り落ちたことも、お茶に毒など入っていなかったことも、全部わかった! 僕は被害者なんだ! あいつに嵌められたんだ!」
「……それが、私に何の関係があるのですか」
「関係があるに決まっているだろう! お前は僕の婚約者だったじゃないか!」
アレンは身を乗り出し、鉄柵を激しく揺らした。
「戻ってきてくれ、エレナ! やり直そう! 父上……侯爵様にも僕から頼み込んでやる! お前の身分を回復させ、侯爵家の正妻として迎え直してやると言っているんだ!」
身分を回復させてやる。
正妻にしてやる。
破滅の淵に立たされてなお、この男の根底にある傲慢さは何一つ変わっていなかった。
「僕には……僕にはお前のマントが必要なんだ! あの加護がなければ、僕は剣も振るえない! 隊長にも見捨てられ、親族からも見放されかけている! 僕を助けてくれ、エレナ!」
吐き出された本音に、私は乾いた息を零した。
彼が求めているのは私ではない。
かつて自分が踏みにじり、焼き捨てさせた、都合のいい奇跡の力だけだった。
「アレン様」
私は視線を彼から外し、灰色の雨空へと向けた。
もはや、その瞳と目線を合わせる価値すら感じられなかった。
「あの日、クロフォード伯爵邸の広間で、私が申し上げた言葉を覚えていらっしゃいますか」
「え……?」
「『信じてくださらなくて結構です』と申しました」
一寸の狂いもなく、あの夜の言葉を返す。
「私はとっくに、あなたを見限っております」
「なっ……! お前、何を言って……っ!」
「お引き取りください。私はすでに貴族籍を放棄した平民であり、王立公証役場において正式に登録された黒曜会会頭の妻です。あなたと交わす言葉など、もはや一言もございません」
「もはや言葉もないだと!? 馬鹿なことを言うな! 平民の商人風情に誑かされて、侯爵家の未来を捨てる気か!」
アレンが逆上し、鉄柵を乗り越えようと足をかけた。
身勝手な懇願が拒絶されたことで、自制心を完全に失っている。
「お前は僕のものだ! 僕が許すまで、お前が誰かの妻になることなど認めないぞ!」
泥だらけの手が、私の手首を掴もうと宙を裂いた。
あまりの浅ましさと不快感に、私の全身が冷雨による寒さとともに小さく震えた。
その瞬間だった。
背後から力強い腕が伸び、私の肩を引き寄せた。
冷たい雨を遮るように、厚手の漆黒のマントが私の身体をすっぽりと包み込む。
「っ……」
カイルだった。
彼の上質な外套から漂う香木の香りと、圧倒的な体温が、凍えかけていた私の肌を一瞬で温めていく。
カイルは私を自らの胸元へと庇い隠すように抱き留め、鉄柵の向こうのアレンへと、氷よりも冷たい視線を向けた。
「俺の妻に、その汚らわしい手で触れるな」
低く、底知れぬ威圧感を孕んだ声が落ちた。
裏街の絶対的な支配者としての、容赦のない覇気。
アレンはその場に縫い止められたように硬直し、息を呑んで後ずさった。
「き、貴様……平民の分際で、僕の前に立ち塞がる気か……!」
「平民、ですか」
カイルの口元に、冷酷な嘲笑が浮かんだ。
「王室特許を賜った我が黒曜会に対し、近衛副隊長を解任された無役の侯爵子息が、何の手続きもなく私有地へ侵入するとは……ずいぶんと身の程を弁えない真似をしてくれたものだ」
カイルが軽く指を鳴らす。
雨煙の立ち込める路地の両脇から、音もなく複数の影が現れた。
重厚な革鎧を纏い、無駄のない動きで路地を封鎖したのは、黒曜会の私兵部隊「黒曜の番」。
先頭に立つのは、顔に深い古傷を持つ筋骨隆々の男――隊長のヴェルナーだった。
ヴェルナーを筆頭に、十二名の屈強な隊員たちが、抜剣の構えのままアレンを包囲していた。
「な、なんだこれは……!? 僕を取り囲む気か!?」
「ここは貴族の我が儘が通るサロンではない。自治治安権を認められた、黒曜会の管轄区だ」
カイルは冷然と告げ、私を抱き寄せたまま、一切の慈悲なく言い放った。
「エレナ様は、あなたを完全に拒絶された。……これ以上の狼藉は、王立治安法に基づく不法侵入および脅迫行為とみなす」
「エレナ……っ! 頼む、僕を見てくれ! エレナああああっ!」
アレンが泥水に両膝をつき、縋るように叫んだ。
だが、カイルのマントの隙間から覗く私の瞳は、ただ冷たく、水たまりに映る彼を見下ろしているだけだった。
かつて自分にすべてを捧げていたはずの女性の瞳に、一片の未練も、怒りすらもなく、ただの塵芥を見るような無関心しか宿っていない。
その絶対的な拒絶を突きつけられた瞬間、アレンの顔から血の気が完全に引いた。
自分が何を捨て、何を手放してしまったのか。
見開かれた両目からとめどなく涙を溢れさせ、顎をがくがくと震わせながら、アレンは泥水に額を擦り付けて狂ったように絶叫した。
「ああああああっ……! 嘘だ、嘘だああああっ!」
後悔と絶望に引き裂かれた男の悲鳴が、雨の中に虚しく木霊する。
「ヴェルナー」
「はっ」
「王立治安憲兵を呼べ。不法侵入者として、身柄を引き渡す」
「承知いたしました」
ヴェルナーの合図とともに、屈強な私兵たちがアレンの腕をねじ上げ、泥の中から引きずり起こした。
暴れる力すら残っていないアレンは、雨水と泥に塗れたまま、憲兵の待つ大通りへと連行されていく。
路地には、再び静かな雨音だけが戻っていた。
「……怖かったですか、エレナ様」
頭上から、先ほどとは打って変わった、甘く柔らかなカイルの声が降ってきた。
彼の手が、私の肩を優しく撫でる。
「いいえ。少しも怖くはありませんでしたわ」
私はカイルの胸元に寄り添ったまま、静かに息を吐き出した。
かつての未練も、実家への情も、すべてが雨水とともに洗い流されていくようだった。
胸の中にあるのは、透き通るような清々しさだけ。
「ただ……カイル様が来てくださって、とても安心いたしました」
「俺はいつでも、あなたのそばにいます」
カイルはそう囁くと、私の額に落ちた一筋の濡れ髪を、愛おしそうに指先で払ってくれた。
温かな彼の腕の中で、私は確かな幸福の重みを感じていた。




