↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未練を捨てた私のほどけない愛  作者: 月雅


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/10

第7話「手遅れの懇願」



 人はなぜ、すべてを失ってからしか、己を支えていたものの重さに気づけないのだろう。


 しとしとと冷たい雨が降りしきる朝、私は工房の軒下で、その問いの答えを目の当たりにしていた。


 石畳の路地の先に立ち尽くしていたのは、アレン・ウォーレンだった。


 かつて誇らしげに纏っていた白銀の装飾は剥ぎ取られ、泥水に汚れた近衛の軍服は見る影もなく濡れそぼっている。


 髪を乱し、隈の浮いた目で虚空を睨んでいた彼は、私と目が合った瞬間、弾かれたように駆け寄ってきた。


「エレナ……っ! エレナ、そこにいたのか!」


 工房の敷地を仕切る低い鉄柵に、アレンが縋り付くように手をかけた。


 その指先は泥に塗れ、爪の間には黒い土が詰まっている。


「……何の御用でしょうか、アレン・ウォーレン様」


 私は一歩も近づかず、冷え切った声で問いかけた。


「頼む、エレナ! 僕の話を聞いてくれ!」


 アレンは必死の形相で叫んだ。


 かつて私を冷酷に見下ろし、私が婚約指輪を屑籠へ捨てた夜、怒りに顔を歪めていた高慢な貴公子は、そこにはいなかった。


「僕が悪かった! あの時はどうかしていたんだ! リリアナの嘘に騙されていたんだよ!」


 醜い責任転嫁の言葉が、雨音の混じる路地に響き渡る。


「あいつが自分から階段を滑り落ちたことも、お茶に毒など入っていなかったことも、全部わかった! 僕は被害者なんだ! あいつに嵌められたんだ!」


「……それが、私に何の関係があるのですか」


「関係があるに決まっているだろう! お前は僕の婚約者だったじゃないか!」


 アレンは身を乗り出し、鉄柵を激しく揺らした。


「戻ってきてくれ、エレナ! やり直そう! 父上……侯爵様にも僕から頼み込んでやる! お前の身分を回復させ、侯爵家の正妻として迎え直してやると言っているんだ!」


 身分を回復させてやる。


 正妻にしてやる。


 破滅の淵に立たされてなお、この男の根底にある傲慢さは何一つ変わっていなかった。


「僕には……僕にはお前のマントが必要なんだ! あの加護がなければ、僕は剣も振るえない! 隊長にも見捨てられ、親族からも見放されかけている! 僕を助けてくれ、エレナ!」


 吐き出された本音に、私は乾いた息を零した。


 彼が求めているのは私ではない。


 かつて自分が踏みにじり、焼き捨てさせた、都合のいい奇跡の力だけだった。


「アレン様」


 私は視線を彼から外し、灰色の雨空へと向けた。


 もはや、その瞳と目線を合わせる価値すら感じられなかった。


「あの日、クロフォード伯爵邸の広間で、私が申し上げた言葉を覚えていらっしゃいますか」


「え……?」


「『信じてくださらなくて結構です』と申しました」


 一寸の狂いもなく、あの夜の言葉を返す。


「私はとっくに、あなたを見限っております」


「なっ……! お前、何を言って……っ!」


「お引き取りください。私はすでに貴族籍を放棄した平民であり、王立公証役場において正式に登録された黒曜会会頭の妻です。あなたと交わす言葉など、もはや一言もございません」


「もはや言葉もないだと!? 馬鹿なことを言うな! 平民の商人風情に誑かされて、侯爵家の未来を捨てる気か!」


 アレンが逆上し、鉄柵を乗り越えようと足をかけた。


 身勝手な懇願が拒絶されたことで、自制心を完全に失っている。


「お前は僕のものだ! 僕が許すまで、お前が誰かの妻になることなど認めないぞ!」


 泥だらけの手が、私の手首を掴もうと宙を裂いた。


 あまりの浅ましさと不快感に、私の全身が冷雨による寒さとともに小さく震えた。


 その瞬間だった。


 背後から力強い腕が伸び、私の肩を引き寄せた。


 冷たい雨を遮るように、厚手の漆黒のマントが私の身体をすっぽりと包み込む。


「っ……」


 カイルだった。


 彼の上質な外套から漂う香木の香りと、圧倒的な体温が、凍えかけていた私の肌を一瞬で温めていく。


 カイルは私を自らの胸元へと庇い隠すように抱き留め、鉄柵の向こうのアレンへと、氷よりも冷たい視線を向けた。


「俺の妻に、その汚らわしい手で触れるな」


 低く、底知れぬ威圧感を孕んだ声が落ちた。


 裏街の絶対的な支配者としての、容赦のない覇気。


 アレンはその場に縫い止められたように硬直し、息を呑んで後ずさった。


「き、貴様……平民の分際で、僕の前に立ち塞がる気か……!」


「平民、ですか」


 カイルの口元に、冷酷な嘲笑が浮かんだ。


「王室特許を賜った我が黒曜会に対し、近衛副隊長を解任された無役の侯爵子息が、何の手続きもなく私有地へ侵入するとは……ずいぶんと身の程を弁えない真似をしてくれたものだ」


 カイルが軽く指を鳴らす。


 雨煙の立ち込める路地の両脇から、音もなく複数の影が現れた。


 重厚な革鎧を纏い、無駄のない動きで路地を封鎖したのは、黒曜会の私兵部隊「黒曜の番」。


 先頭に立つのは、顔に深い古傷を持つ筋骨隆々の男――隊長のヴェルナーだった。


 ヴェルナーを筆頭に、十二名の屈強な隊員たちが、抜剣の構えのままアレンを包囲していた。


「な、なんだこれは……!? 僕を取り囲む気か!?」


「ここは貴族の我が儘が通るサロンではない。自治治安権を認められた、黒曜会の管轄区だ」


 カイルは冷然と告げ、私を抱き寄せたまま、一切の慈悲なく言い放った。


「エレナ様は、あなたを完全に拒絶された。……これ以上の狼藉は、王立治安法に基づく不法侵入および脅迫行為とみなす」


「エレナ……っ! 頼む、僕を見てくれ! エレナああああっ!」


 アレンが泥水に両膝をつき、縋るように叫んだ。


 だが、カイルのマントの隙間から覗く私の瞳は、ただ冷たく、水たまりに映る彼を見下ろしているだけだった。


 かつて自分にすべてを捧げていたはずの女性の瞳に、一片の未練も、怒りすらもなく、ただの塵芥を見るような無関心しか宿っていない。


 その絶対的な拒絶を突きつけられた瞬間、アレンの顔から血の気が完全に引いた。


 自分が何を捨て、何を手放してしまったのか。


 見開かれた両目からとめどなく涙を溢れさせ、顎をがくがくと震わせながら、アレンは泥水に額を擦り付けて狂ったように絶叫した。


「ああああああっ……! 嘘だ、嘘だああああっ!」


 後悔と絶望に引き裂かれた男の悲鳴が、雨の中に虚しく木霊する。


「ヴェルナー」


「はっ」


「王立治安憲兵を呼べ。不法侵入者として、身柄を引き渡す」


「承知いたしました」


 ヴェルナーの合図とともに、屈強な私兵たちがアレンの腕をねじ上げ、泥の中から引きずり起こした。


 暴れる力すら残っていないアレンは、雨水と泥に塗れたまま、憲兵の待つ大通りへと連行されていく。


 路地には、再び静かな雨音だけが戻っていた。


「……怖かったですか、エレナ様」


 頭上から、先ほどとは打って変わった、甘く柔らかなカイルの声が降ってきた。


 彼の手が、私の肩を優しく撫でる。


「いいえ。少しも怖くはありませんでしたわ」


 私はカイルの胸元に寄り添ったまま、静かに息を吐き出した。


 かつての未練も、実家への情も、すべてが雨水とともに洗い流されていくようだった。


 胸の中にあるのは、透き通るような清々しさだけ。


「ただ……カイル様が来てくださって、とても安心いたしました」


「俺はいつでも、あなたのそばにいます」


 カイルはそう囁くと、私の額に落ちた一筋の濡れ髪を、愛おしそうに指先で払ってくれた。


 温かな彼の腕の中で、私は確かな幸福の重みを感じていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。