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未練を捨てた私のほどけない愛  作者: 月雅


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第6話「綻びの連鎖」



 私は磨き抜かれた樫の看板に両手を添え、職人たちとともに工房の正面高くへと掲げた。


 看板の中央には、王室公認の証である金色の百合の紋章。


 その下には、堂々たる筆致で『王室特許 加護工房レーヌ』の文字が刻まれている。


 追放から四十五日。


 貴族院の陰湿な横槍をカイルが完全に封殺し、王立公証役場と宮内省の双方から正式な認可が下りた瞬間だった。


「素晴らしい看板です、エレナ様」


 隣に立つカイルが、満足そうに目を細めて看板を見上げた。


「裏街の小さな工房から始まった光が、今日、王都の正式な歴史に刻まれました」


「カイル様、そして黒曜会の皆様のおかげですわ。私一人の力では、ここまで来ることはできませんでした」


 工房の前には、副会頭のロイや、すっかり脚の完治したダンの姿もあった。


 集まった大勢の職人や労働者たちが、口々に拍手と歓声を上げて門出を祝ってくれている。


 だが、この記念すべき日は、同時にある者たちにとっての審判の日でもあった。


「……そろそろ時間ですね。闘技場へ向かいましょう」


 カイルが静かに告げ、私に手を差し伸べた。


 本日、王立闘技場にて執り行われる、近衛選考御前試合。


 ウォーレン侯爵家の名誉と、アレンの副隊長としての進退、そして王妃への真作納入を命じられたクロフォード伯爵家の命運が決する舞台だった。


 王室特許商人となった黒曜会には、闘技場の貴賓席のすぐ隣、特許商人用の特等席が用意されていた。


◇


 強い日差しが照りつける王立闘技場は、異様な熱気とざわめきに包まれていた。


 上座の貴賓席には、冷ややかな表情を崩さない王妃陛下の姿がある。


 その傍らにあるはずのクロフォード伯爵の席は、開始時刻を過ぎても空席のままだった。


 半月前の最後通牒で命じられた『真作の加護レース』を、リリアナも父も結局納入できなかったのだ。


 王室への不敬と詐欺の罪から逃れる術を失い、屋敷で震え上がっているに違いなかった。


 ファンファーレが鳴り響き、砂塵の舞う闘技場の中央へ、二人の騎士が進み出た。


 近衛副隊長アレン・ウォーレン。


 そして対戦相手は、平民出身の無名騎士だった。


 アレンの姿を目にした瞬間、観客席のあちこちから微かなざわめきが漏れた。


 白銀の甲冑を纏ってはいるものの、その足取りは目に見えて重く、顔色は土気色に沈んでいる。


 肩で息をし、剣を構える両腕が微かに震えていた。


 あの日、自ら焼き捨てさせた加護のマント。


 疲労の回復も、筋力の増幅も得られなくなったアレンの肉体は、度重なる激務と焦燥によって限界を迎えていた。


「試合開始!」


 審判の鋭い号令とともに、平民騎士が一気に間合いを詰めた。


 鋭利な踏み込みから放たれる、袈裟懸けの一撃。


「くっ……!」


 アレンは剣で受け止めようとしたが、その太刀筋は驚くほど鈍く、力強さを欠いていた。


 金属の甲高い激突音が響いた瞬間、アレンの膝が大きく折れ曲がる。


 かつてなら容易くいなせていたはずの単純な剛撃に、耐えきれず押し込まれているのだ。


「そんな……アレン様が、あの程度の打ち合いで圧されている……?」


 観客席の貴族たちがざわめきを広げる。


「なめるな……平民風情が、僕を見下ろすなあああっ!」


 焦燥に駆られたアレンが、怒声とともに無謀な大振りの反撃を繰り出した。


 だが、体幹を支える加護を失った彼の剣撃は、軸が大きくぶれていた。


 平民騎士は眉一つ動かさず、身をわずかに引いてその切っ先を紙一重でかわす。


 空を切ったアレンの身体が、勢い余って前へと大きく崩れた。


 決定的で、無防備な隙。


 平民騎士の剣の腹が、アレンの手首を正確無比に強打した。


 ばちん、と骨の軋む鈍い音が広場に響く。


「ぎゃあっ!」


 アレンの口から無様な悲鳴が上がった。


 彼の手から弾き飛ばされた宝剣が、陽光を反射しながら高く舞い、砂の上へと乾いた音を立てて突き刺さる。


 無防備に晒された首元へ、平民騎士の切っ先がピタリと突きつけられた。


「勝負あり!」


 審判の宣告が闘技場に木霊した。


 アレンは尻餅をついた体勢のまま、砂塗れの自分の手と、突き刺さった剣を見つめ、茫然自失となっていた。


 静まり返る闘技場。


 歓声すら上がらない。そこにあるのは、圧倒的な失望と侮蔑の視線だけだった。


「見苦しいぞ、アレン・ウォーレン!」


 貴賓席の下から、近衛騎士団長が厳しい足取りで闘技場の中央へと歩み出た。


 団長は平民騎士に勝利の礼を返すと、砂の上にへたり込んだアレンを見下ろし、冷徹に通告した。


「先の粗悪品献上の不始末に加え、この無様な醜態。ウォーレン侯爵家の名に泥を塗るばかりか、近衛の矜持を著しく損なった! よって本日付で、貴様の近衛副隊長の権限を即時剥奪する!」


「そ、そんな……っ! 隊長、お待ちください! 今日は少し身体の調子が狂っていただけで……っ!」


「言い訳は聞かん! 武勲のすべてがまやかしであったと、自ら証明したようなものだ。衛兵、この者を連れて行け!」


「隊長! 隊長おおっ!」


 必死に縋り付こうとするアレンの腕を、近衛兵たちが容赦なく左右から掴み上げ、引きずっていく。


 白銀の甲冑を泥だらけにしたその背中に、かつて自分を全能のエリートだと信じて疑わなかった男の面影はなかった。


 私は観覧席の手すりに手を置いたまま、遠ざかるアレンの姿を静かに見つめていた。


 怒りすら湧かない。


 彼が誇っていた武勲も、名声も、そのすべては私が編み込んだ加護の糸の上に成り立っていたにすぎなかった。


 支えを自らの手で焼き捨て、その価値にすら最後まで気づけなかった愚かな男。


 胸の中に残ったのは、ただ乾いた憐憫の情だけだった。


◇


 夜、黒曜会の本部広間では、工房「レーヌ」の看板披露と認可を祝う、ささやかな祝杯の席が設けられていた。


 ロイやダン、職人たちが美酒に酔いしれ、笑顔で歓談している。


 喧騒から少し離れたテラスへ出ると、夜風が火照った頬を心地よく撫でてくれた。


「エレナ様、寒くはありませんか」


 背後から、カイルが静かに歩み寄ってきた。


 手には葡萄酒の注がれた二つのグラスがある。


「ありがとうございます、カイル様。今夜の風は、とても清々しく感じられますわ」


 私が微笑みながらグラスを受け取ると、カイルは欄干に寄り添い、夜空を見上げた。


「両家の処分は、王宮の沙汰を待つことになります。伯爵家は、真作を納められませんでした」


「……悪意の報いが、ようやく形になったのですね」


「ええ。ですが、俺にとって大切なのは彼らの破滅ではありません」


 カイルはグラスをテラスの小机に置くと、私の方へと向き直った。


 その切れ長の瞳に、揺らめく篝火の光と、深い決意が宿っている。


「カイル様……?」


 カイルは私の両手を、壊れ物に触れるかのような優しさで包み込んだ。


「エレナ様。あなたと交わした一年期限の契約結婚は、あなたを理不尽な追手から守るためのものでした」


 低く、切実な声音が、静まり返った夜の帳に染み渡っていく。


「ですが……俺の心は、最初から契約などではありませんでした。十年前、路地裏であなたに命を救われたあの日から、俺の命も、魂も、すべてあなたのものです」


 カイルの手が、わずかに熱を帯びて震えていた。


 裏街の絶対的な支配者として君臨する彼が、いま私の前で、一人の男として無防備に心を差し出している。


「契約ではなく、本当の妻として、俺の隣にいてほしいのです。一生をかけて、あなたを愛し、守り抜くと誓います」


「っ……」


 真摯で、熱い求婚の言葉。


 心臓が激しく跳ね上がり、呼吸を忘れたように喉が詰まった。


 偽りの愛に裏切られ、冷え切っていた私の胸の奥に、言葉にできない熱い感情が溢れ出してくる。


 あまりの熱量に、私は言葉を失ったまま、カイルの瞳を見つめ返すことしかできなかった。


◇


 翌朝、工房に現れたロイから、密偵の報告がもたらされた。


「昨夜遅く、アレン氏が近衛詰所裏のゴミ捨て場に現れたそうです」


 ロイは淡々と事実だけを口にした。


「あの日、自ら焼き捨てを命じたマントの切れ端を探していたようですが……すでに黒曜会の廃品回収が持ち去った後でしたので、何も見つからなかったとのことです」


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