第4話「光の流通網」
本当に、このやり方で受け入れてもらえるだろうか。
作業台の上に整然と並べられた生成りの加護レースを見つめながら、私は胸の内で小さく自問した。
追放されてから二十日が過ぎていた。
工房には、私が日夜を問わず針を動かして編み上げた、数十本の加護レースが積まれている。
安価な野麻の糸を使い、疲労回復と身体強化の幾何学結び目を定着させた布地。
これらを貴族街のサロンや問屋へ卸すのではなく、裏街で過酷な重労働に耐える港の工夫や、夜警の自警団へ向けて安価に販売する。
それが、私とカイルが下した決断だった。
魔力を宿す工芸品とは、高位貴族が己の権威を誇示するために独占するもの――それがこの国の絶対的な常識だ。
平民の労働者が日常的に手にするなど、前代未聞の試みに他ならない。
どれほど効果があろうとも、裏街の人々にとって日々のパン代を削って買う価値があると認めてもらえるのか、不安が完全に消えたわけではなかった。
ふう、と息を吐き出し、私は次の束を整えようと作業台から立ち上がった。
その瞬間、視界がぐらりと不自然に揺らめいた。
足元から力が抜け、冷たい床が急速に迫ってくる。
ここ数日、少しでも多くの布を用意しようと、夜を徹して針を握り続けていたのが祟ったのだ。
倒れる、と覚悟して目を閉じた刹那、強い力で肩を引き寄せられた。
「危ない……っ!」
低く切迫した声とともに、背後から確かな温もりが私を包み込んだ。
カイルの逞しい腕が、私の腰と肩をしっかりと抱きとめていた。
背中に密着した彼の胸板から、力強い鼓動と熱が直接伝わってくる。
耳元にかかる彼の熱い吐息と、かすかに漂う香木の匂いに、喉が詰まったように呼吸が止まった。
「……エレナ様、無茶をしすぎです」
耳元で落とされた声音は、普段の理知的な響きを失い、痛切な苦悶に満ちていた。
「俺に恩を返そうと焦るあまり、ご自分の身体を損なっては本末転倒だ。……あなたに倒れられたら、俺はどうすればいい」
「カイル、様……」
あまりの至近距離に、全身の血が逆流したかのように熱くなる。
カイルの腕は私の身体を壊れ物のように大切に抱きしめたまま、すぐには離そうとしなかった。
彼の指先がわずかに震えているのが分かり、私は胸の奥を強く締め付けられた。
「申し訳、ありません……少し、立ちくらみがしただけで……」
「言い訳は不要です。今日からは夜通しの作業を禁じます。約束してください」
カイルの真剣な瞳が、覗き込むように私を見つめていた。
私は熱の引かない頬を隠すように伏し目がちに頷くのが精一杯だった。
「……はい。お約束いたします」
カイルは小さく息を吐き、名残惜しそうに腕の力を緩めると、私を作業用の椅子へと静かに座らせてくれた。
◇
その日の午後、工房の重い扉が控えめにノックされた。
姿を現したのはロイだったが、彼の背後には、見慣れた小柄な少女が怯えたように身を縮めていた。
「ミナ……?」
私が思わず立ち上がると、少女はびくりと肩を跳ねさせた。
十四歳の元下級使用人、ミナだった。
粗末な平民の服を身にまとい、その手には古びた布袋が大事そうに抱えられている。
「エレナ様……っ」
ミナは私を見るなり、大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼした。
「クロフォード邸の門外で、当ギルドの警備が保護いたしました」
ロイが静かに説明を添えた。
「伯爵邸で侍女たちの偽証に同調しなかったことで、リリアナ嬢の逆鱗に触れ、数日前に解雇されたそうです。行く当てもなく王都を彷徨っていたところを、私どもの密偵が発見いたしました」
「ミナ、大丈夫だったの? 怪我は……」
私が駆け寄ると、ミナは首を横に振り、抱きしめていた布袋を震える手で差し出してきた。
「あ、あの……エレナ様、これ……っ。お言いつけの、通り……寝台の藁の中に隠して、持ってきました……っ」
布袋の中から現れたのは、厚手の革表紙で綴じられた一冊のノートだった。
私が今世で編み出してきた、加護刺繍の幾何学図案をすべて記録した習作帳。
追放の夜、リリアナに奪われることを見越し、床板の下の隠し場所をミナにだけ伝えていたものだった。
「ミナ……本当に、よく守ってくれたわね」
「わ、わたし……階段のところで、声が出せなくて……っ。リリアナ様が、自分で留め金を外したのを、見たのに……っ、怖くて言えなくて……ごめんなさい、エレナ様……っ」
ミナは言葉に詰まりながら、必死に謝罪を口にしようとした。
恐怖に震えながらも、彼女は約束を守り、この帳面を命がけで持ち出してくれたのだ。
私はミナの手をそっと握りしめた。
「謝る必要なんて、何一つないわ。冬に手袋を渡した時のお礼も、まだ言えていなかったもの。……本当にありがとう、ミナ。あなたのおかげで、私のすべてが守られたのよ」
私の言葉に、ミナは驚いたように顔を上げた。
その顔に浮かんだのは、安堵と、誰かの役に立てたという誇らしげな微笑みだった。
「黒曜会で保護します。伯爵家の追手は指一本触れさせません」
背後から歩み寄ってきたカイルが、静かに、丁寧な口調でミナに告げた。
「は、はい……っ、ありがとうございます……!」
ミナは深々と頭を下げ、その表情には先ほどまでの怯えは消え去っていた。
◇
翌日、黒曜会の全流通拠点で、加護レースの販売が一斉に開始された。
前評判を呼び込んだのは、荷運び頭のダンだった。
「見ろよ! 先週まで松葉杖なしじゃ一歩も歩けなかったこの脚を! エレナ様の縫った布を巻いただけで、この通りだ!」
ダンが広場の荷揚げ場で大声を張り上げ、跳び跳ねてみせる姿に、仲間の工夫たちが色めき立った。
過酷な重労働で腰や膝を痛めていた男たちが、半信半疑でレースを買い求めた。
――そして、結果は劇的だった。
布を身につけた労働者たちの疲労がみるみるうちに回復し、作業効率は跳ね上がった。
重傷者や事故の発生率は激減し、噂は野火のように裏街中を駆け巡った。
用意されていた数百本のレースは、わずか半日で完全に完売した。
「エレナ様! 俺の長年の腰痛が消えました!」
「うちの倅の怪我が、たった三日で治ったんだ!」
「どうか、次の布も売ってください!」
工房の前に集まった労働者やその家族たちが、涙を浮かべて私に頭を下げ、感謝の声を張り上げていた。
実家にいた頃は、私の仕事など誰も見向きもせず、妹の引き立て役として蔑まれるだけだった。
だが、ここでは違う。
私の技術が、確かに名もなき誰かの痛みを救い、正当に感謝されている。
胸の奥底から込み上げてくる熱い充足感に、私は視界が滲むのを覚えた。
◇
夕刻、工房の奥の部屋に、副会頭のロイが書類を手に現れた。
「会頭、エレナ様。伯爵邸および貴族街の調査結果がまとまりました」
カイルが視線で先を促すと、ロイは眼鏡の縁を押し上げ、薄い笑みを浮かべた。
「まず、クロフォード邸での買収工作ですが、リリアナ嬢の侍女たちに資金を貸し付けていた金貸しを特定いたしました。金貸しから債権を買い取り、台帳を正式に預かりました」
外堀は、音もなく確実に埋め立てられていた。
「それから、痛快な報告が二つほどございます」
ロイは手帳を開き、淡々と言葉を紡いだ。
「一つ目はアレン副隊長です。昨日の近衛騎士団の魔獣討伐演習において、原因不明の疲労と反応の遅れから魔獣の一撃を受け、肩を負傷したとのこと。命に別状はありませんが、かつてのような動きがまったくできず、部下の騎士たちの間では『実力に疑問があるのではないか』と公然と囁かれ始めています」
アレンの失調は、日を追うごとに深刻化しているようだった。
加護を失った彼の肉体は、本来の脆弱さを露呈し始めているのだ。
「二つ目はリリアナ嬢です。先日開催された伯爵夫人のサロンにて、エレナ様の私室から奪った道具を使い、自作と称する『新作レース』を披露したそうですが……」
ロイの口元に、冷ややかな皮肉が滲んだ。
「加護の魔力がまったく宿っておらず、結び目の粗雑さが目立つ模倣品だったため、目の肥えた貴婦人たちから失笑と違和感を買ったとのことです。『妹君の腕前は、以前よりずいぶんと落ちたのではないか』と噂になっております」
私の技術は、道具を奪っただけで真似できるような浅いものではない。
幾何学の秩序も魔力の循環も理解できないリリアナが、形だけを真似たところで粗悪な布切れしか生み出せないのは必然だった。
「……身の程知らずの道化どもだな」
カイルは氷のような声で切り捨てた。
「だが、ロイ。これで終わりではないだろう」
「ええ、会頭のお察しの通りです」
ロイは表情を引き締め、声のトーンをわずかに落とした。
「裏街で販売されている『奇跡の加護レース』の噂が、過酷な任務を強いられている近衛騎士団の一般兵たちの間にも、急速に広まり始めています」
アレンの足元で、確実に綻びが広がっている。
光を求める声は、すでに境界線を越えて王宮の門前へと届き始めていた。




