第2話「黒曜の契約」
パチパチと、乾燥した薪が爆ぜる静かな音が部屋に満ちていた。
鼻孔をくすぐるのは、甘く落ち着いた香木と、研ぎ澄まされた上質な蜜蝋の香り。
まぶたを押し上げると、見慣れぬ高い天井と、柔らかな朝の陽光が視界に広がった。
肌を包み込んでいるのは、驚くほど軽くて温かい、最上級の羊毛の毛布だ。
昨夜の冷たい豪雨の感触が、まるで遠い夢のように思える。
私はゆっくりと身を起こし、室内を見回した。
落ち着いた深緑の壁紙に、重厚な黒檀の調度品。
ここは伯爵邸の冷え切った自室ではなく、王都の裏街を束ねる商業ギルド「黒曜会」の本部の一室だった。
「目が覚めましたか、エレナ様」
静かなノックの音に続いて、扉が開いた。
入ってきたのは、昨夜、雨の境界線で私を馬車へと招き入れた男――カイル・アシュフォードだった。
黒の外套を脱ぎ、仕立てのよい濃紺のシャツに身を包んだ彼の姿は、朝の光の中でも変わらず息を呑むほどに端正だった。
手には湯気を立てる陶器のカップと、清潔な麻布が握られている。
「まだ熱があるといけませんので、温かいハーブティーを用意させました」
「……恐れ入ります、アシュフォード様。昨夜は、その……取り乱しておりまして、礼も申し上げられず申し訳ありませんでした」
「礼など滅相もありません。それに、どうかカイルとお呼びください」
カイルは寝台の脇に置かれた椅子へと腰掛け、湯気立つカップをサイドテーブルに置いた。
その所作には一片の粗野さもなく、洗練された礼節が宿っている。
「髪がまだ少し湿っていますね。風邪を召されては困ります」
カイルはそう言うと、手にした麻布を私の頭へとそっと掲げた。
「あの、自分で拭きますので」
「じっとしていてください。これくらいは俺にさせてほしいのです」
拒む隙を与えない柔らかな声音に気圧され、私は小さく息を呑んで首肯した。
大きな手にかざされた布が、私の銀髪を優しく包み込み、丁寧に水分を吸い取っていく。
手袋を外した彼の素肌から、昨夜感じたあの驚くほどの体温が、髪越しにじんわりと伝わってきた。
ふいに、カイルの長い指先が、濡れて首筋に張り付いていた髪を払うようにして、白いうなじをかすめた。
「っ……」
微かな摩擦熱に、私の喉が小さく詰まった。
カイルの指もまた、その場でぴたりと止まる。
至近距離で交錯した視線。
彼の切れ長の瞳が、かすかに揺らぎ、吸い込まれそうなほど深い光を湛えていた。
互いの呼吸の音すら聞き取れそうな静寂が落ちる。
カイルはわずかに息を呑むと、名残惜しそうに指を離し、何事もなかったかのように麻布を畳んだ。
「……失礼いたしました」
「い、いえ……ありがとうございます」
熱を帯びかけた首元を隠すように、私は毛布をわずかに引き上げた。
胸の奥で、経験したことのない早鐘が打たれている。
それを平静な面持ちで押し隠しながら、私は彼に問いかけた。
「カイル様。……昨夜、なぜあのような場所で待っていらしたのですか」
偶然などであるはずがない。
貴族街と裏街の境界に、黒塗りの馬車を寄せて待ち構えていたのだ。
カイルは嘲笑うことも誤魔化すこともせず、真摯な眼差しで私を見つめ返した。
「偶然ではありません。俺が部下に命じて、あそこで待機させていたのです」
「……私のことを、ご存じだったのですか」
「ええ。数日前から、クロフォード伯爵邸の周囲に不穏な動きがありました。うちの副会頭であるロイが、伯爵邸の使用人たちの動向と、リリアナ嬢の侍女たちに流れる不審な資金の流れを察知したのです」
カイルは淡々と言葉を続けた。
「妹君の自作自演と、侍女たちの買収。それらが結託し、近いうちにあなたが無実の罪を着せられて放逐されると、ロイは読んでいました。だから、俺は境界線であなたを待っていたのです」
淀みのない説明だった。
裏街の経済と情報を掌握する黒曜会であれば、貴族の屋敷内の金の流れを嗅ぎつけることなど容易いのだろう。
だが、それでも疑問は残る。
「……なぜ、そこまでして私を助けるのですか。今の私は爵位も財産も奪われ、ただの罪人として放り出された平民にすぎません。黒曜会に何の利ももたらさないはずです」
貴族社会で受けてきた裏切りが、私の胸に防壁を築いていた。
理由のない庇護ほど恐ろしいものはない。
他者の施しには、必ず見返りという名の鎖が付きまとう。
私の警戒を敏感に察したのか、カイルは苦笑を浮かべることもなく、懐から一通の羊皮紙を取り出した。
「あなたが利のない存在などと、誰が決めたのですか。俺はあなたを無償で養う気はありません。――これは、商談です」
差し出された書類の表題には、王立公証役場の紋章とともに、明確な文字が記されていた。
『婚姻契約書』。
「……契約、結婚……?」
「そうです。俺と、形だけの夫婦になっていただきたい」
思いもよらない単語に、私は瞬きを繰り返した。
カイルは書類の条文を、指先で一つずつ示しながら説明を始めた。
「条項は極めて単純です。第一に、婚姻期間は一年。契約の更新は双方の合意があった場合のみ行われ、エレナ様の一方的な意思でいつでも離縁が可能です」
「私の意思だけで……?」
「ええ。あなたを縛る鎖にはいたしません。そして第二に、黒曜会会頭の妻は、王室特許商人の家族として扱われます。これにより、あなたは黒曜会の絶対的な庇護権と、治外法権的な保護を享受できます」
カイルの声は理知的で、何一つ感情を押しつけてこない。
「専属職人としての契約を結ぶだけでは不十分なのです。もし職人契約にとどまれば、貴族側が『母の形見の髪飾りを盗まれた』などの言いがかりをつけ、窃盗被害の当事者としてあなたの身柄引き渡しを王立憲兵に請求する恐れがあります」
アレンが強奪した、母の形見。
あの男たちなら、己の非を隠すために、平然と私を泥棒に仕立て上げるだろう。
「ですが、俺の妻となれば話は別です。王室特許商人の家族に対する身柄拘束には、王宮の正規の許可状が必要となる。伯爵家や侯爵家ごときの私兵や息のかかった憲兵が、手出しすることは絶対に不可能です」
「……公証の登録は、そんなにすぐ済むものなのですか」
「王室特許商人の婚姻は、特権として本日中に公証役場へ登録を完了させられます。夕刻には、あなたは名実ともに黒曜会会頭夫人となる」
提示された条件は、あまりにも私にとって有利すぎるものだった。
理不尽な追手から身を守る盾を得られるだけでなく、一年後には何の後腐れもなく自立への道を歩むことができる。
「……私に、何を求めますか」
私はカイルの双眸をまっすぐに見据えて問うた。
「これほどの庇護を与えてくださるのです。私にも、対価を支払う義務があります」
「あなたの刺繍です」
カイルは即座に、一切の迷いなく言い切った。
「あなたの刺繍には、人を救う力があると思っています。黒曜会の工房で、あなたの思うままに布を織り、針を振るっていただきたい。それが、俺の求める唯一の対価です」
実家では「地味で無価値」と切り捨てられ、妹に奪われ続けてきた私の技術。
それを、この男は真っ直ぐに求めてくれた。
胸の奥で、固く閉ざされていた氷が、微かに軋みを上げて溶け出すのを感じる。
利用されているとしても、己の技術を正当に求められるのであれば、職人としてこれ以上の喜びはない。
「……承知いたしました。そのご提案をお受けいたします」
私は書類を受け取り、備え付けのペンで署名を行った。
自立のための、第一歩。
理不尽に踏みにじられた尊厳を、己の手で取り戻すための契約だった。
「ありがとうございます、エレナ様」
カイルは深く頭を下げ、契約書を丁重に受け取った。
差し出されたハーブティーを口に含むと、温かな甘みが喉を通り、強張っていた全身の強張りを解きほぐしていった。
◇
夕刻。
王立公証役場での登録を終え、黒曜会本部へと戻った私は、最上階にあるカイルの執務室へと案内されていた。
公証印の押された婚姻証明書の写しが、私の手元にある。
今日から私は、法的に黒曜会会頭夫人となった。
執務室の扉がノックされ、眼鏡をかけた物腰の柔らかな男が入ってきた。
黒曜会の会計と情報を統括する副会頭、ロイだった。
「失礼いたします、会頭。……エレナ様もご無事で何よりです」
ロイは丁寧に一礼すると、手にした羊皮紙に目を落としながら口を開いた。
「伯爵邸に潜ませている密偵から、先ほど定時報告が入りました」
「聞こう」
「はい。本日昼過ぎ、リリアナ嬢が使用人たちを引き連れ、エレナ様の旧私室を荒らしたとのことです。作業机にあった鋼の刺繍針や黒檀の刺繍枠など、上質な道具類をすべて私物として持ち去りました」
淡々としたロイの報告に、私は冷めた感情を抱く。
妹の手癖の悪さは今に始まったことではない。
道具を奪えば私の技術まで手に入ると思い込んでいる浅ましさに、呆れすら覚えた。
「それから、リリアナ嬢は部屋の床板を剥がし、何かを探していたようですが……そこには何も残されておらず、手ぶらで引き返したとのことです」
ロイのその言葉に、私の胸の奥に安堵が広がった。
床板の下に隠していた、私の習作帳。
今世で編み出してきた加護刺繍のすべての幾何学図案を記した、唯一無二の記録。
昨夜の混乱の中、ミナが誰にも見つからずに回収してくれたのだ。
「ご苦労だった、ロイ。下がっていい」
「かしこまりました」
ロイが音もなく一礼し、部屋を退出していく。
静まり返った執務室で、カイルが静かに立ち上がった。
「お疲れになったでしょう。長時間の移動、ご苦労様でした」
カイルは私を上質な革張りの長椅子へ促すと、自らは執務机の奥へと向かった。
机の背後にある壁面には、重厚な鉄の金庫が据え付けられている。
カイルが鍵を差し込み、分厚い扉を開放した。
「エレナ様。あなたに、どうしても見せたいものがあります」
金庫の中から取り出されたのは、年季の入った小さな黒檀の木箱だった。
カイルはその箱を、壊れ物を扱うかのような慎重な手つきで机の上に置き、静かに蓋を開けた。
「これは……」
中に入っていた布片を見た瞬間、私の息が止まった。
それは、酷く色褪せ、端がほつれた一枚の白い麻のハンカチだった。
布の隅には、青い糸で編み込まれた、不格好ながらも確かな秩序を持つ幾何学模様の結び目――。
私が前世の記憶を頼りに、今世で初めて「止血と痛みの緩和」を祈って編み上げた、最初期の加護刺繍だった。
「……十年、探しました」
カイルの低く震える声が、室内に響いた。
「裏街の路地裏で、血を流して倒れていた名も知らぬ俺を助け、傷口にこれを巻き、温かいスープを分けてくれた少女を」
カイルの切れ長の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
その瞳の奥にある、狂おしいほどの忠誠と、途方もない年月を越えて注がれる熱情。
――目の前のこの男が、かつて私が救った、あの泥だらけの少年だった。
記憶の糸が、十年の時を経て、鮮やかに手繰り寄せられていく。




