第1話「雨の決別」
私は左手の薬指から蒼硝子をあしらった銀の環を引き抜き、広間の奥に据えられた父の書き物机の脇に置かれた屑籠へ、迷わず放り込んだ。
指輪は真鍮の縁に硬い音を立てて当たり、丸められた反古紙の隙間へと静かに沈んでいく。
社交界の令嬢たちが羨望の眼差しを向けた、ウォーレン侯爵家との婚約の証だった。
「なっ……! き、貴様、何を……っ!」
正面に立つアレン・ウォーレンが、息を呑んで声を上擦らせた。
端正な顔立ちを怒りで歪め、腰の帯剣の柄を強く握りしめている。
その背後には、大階段の下で床に崩れ落ち、肩を震わせて泣きじゃくる妹、リリアナの姿があった。
「お父様、アレン様……っ。わたくし、お姉様に突き落とされましたの……!」
リリアナは涙に濡れた瞳を伏せ、縋るように叫んだ。
「お姉様を問い詰めようとしたら、急に背中を強く押されて……わたくし、死ぬかと思いましたわ!」
「黙っていなさい、リリアナ。お前がこれ以上怯える必要はない」
アレンはリリアナを背にかばい、私を射抜くように睨みつけた。
「悪女のお前など追放だ! 我がウォーレン侯爵家は、今この場をもってお前との婚約を破棄する!」
広間に響き渡る怒声に、私は冷めた視線を向ける。
大階段の踊り場を見上げれば、敷き詰められた緋色の絨毯を留める真鍮の金具が、不自然に外れていた。
金具の浮いた絨毯は、段の縁からわずかにずれている。
そして、その踊り場の大理石柱の陰には、身を縮めている十四歳の下級使用人、ミナの姿があった。
ミナは恐怖に顔を青ざめさせ、口元を両手で押さえている。
彼女の位置からなら、階段の上で何が起きていたのか、その一部始終が見えていたはずだった。
ミナが震える唇を開き、何かを叫ぼうと身を乗り出しかける。
だが、その細い手首を、背後に立った侍女頭の分厚い手が乱暴に掴み止めた。
侍女頭の威圧的な視線に射すくめられ、ミナは絶望に目を見開いたまま、暗がりの中へと引き戻されていく。
それと同時に、壁際に控えていた侍女たちが口々に甲高い声を上げた。
「わたくしたちも見ましたわ! エレナ様がリリアナ様のお茶に、怪しげな薬草を落とすところを!」
「ええ、昼下がりのサロンでも、リリアナ様を執拗に睨みつけていらっしゃいました!」
淀みなく重なる証言。
最初からこうなるよう、屋敷の中で周到に準備されていたのだろう。
「……何か弁明はあるか、エレナ」
沈黙を守っていた父、クロフォード伯爵が、重々しく口を開いた。
娘の無実を信じようとする色は、その瞳のどこにもない。
そこにあるのは、侯爵家への醜聞を恐れる保身と、持参金のかかる長女を厄介払いできるという冷淡な計算だけだった。
「申し開きなど、何もございません」
私は静かに答えた。
感情を交えず、淡々と、社交辞令を口にするのと変わらない平坦な声で。
「エレナ、貴様……っ! 己の非を認める気か!」
「信じてくださらなくて結構です、と申し上げているのです。アレン様」
私が眉ひとつ動かさずに告げると、アレンは気圧されたように息を詰まらせた。
床に膝をつき、涙を流して無実を叫ぶ姿を期待していた彼にとって、私の態度は予想外だったのだろう。
前世の私は、ただひたすらに糸を紡ぎ、刺繍に命を捧げた末に過労で倒れた職人だった。
今世に生まれ落ちてからも理不尽に耐え、妹に成果を奪われながら家のために尽くしてきたが、もう十分だ。
これ以上、この一族に関わり続ける価値など、どこにもない。
「話が早くて助かるよ。我が家に、妹を害そうとするような毒婦を置いておくわけにはいかん」
父は冷淡に告げ、執事から受け取った一枚の羊皮紙を書き物机の上へと放り出した。
王立裁判所の認証印が押された、正式な公証文書。
「『身分剥奪および絶縁誓約書』だ。これに署名捺印しろ。お前は今この瞬間をもってクロフォードの家名を剥奪され、平民となる。二度と我が家の敷居を跨ぐことは許さん」
私は書き物机の前へと進み、羊皮紙に記された条文を一行ずつ、確実に目で追った。
貴族籍の剥奪。
クロフォード家名義の全財産に対する相続権、および請求権の永久放棄。
実家からの離縁と絶縁。
――事実関係に関する認否条項は、どこにも存在しなかった。
この誓約書が定めているのは、あくまで「身分の喪失」と「家名財産の放棄」だけだ。
リリアナへの傷害や毒殺疑惑について、私が罪を認めたという文言は一行たりとも含まれていない。
父もアレンも、私をただちに追い出すことだけに気を取られ、細部まで確認していないのだ。
「早く書け! 見苦しい足掻きをするな!」
アレンの苛立たしい怒声を聞き流しながら、私は備え付けの羽ペンを手に取った。
迷うことなく、羊皮紙の末尾に自らの名を署名する。
エレナ・クロフォード。
この名を書くのも、これが最後だった。
「……これで、手続きは完了いたしましたわ」
ペンを置いた瞬間、私を縛りつけていた重荷が綺麗に剥がれ落ちたような感覚を覚えた。
私はもはや貴族令嬢ではない。
王法に守られた、一個の平民だ。
「ふん、潔いことだな。だが、お前が僕に媚びを売って押しつけてきたこの忌々しい布も、二度と見たくない」
アレンが嘲笑を浮かべ、自らの肩から豪奢な濃紺のマントを乱暴に外した。
彼が初陣から近衛副隊長に至るまで、肌身離さず身に着けていたマントだ。
裏地には、私が幾何学的な結び目を幾重にも施し、疲労回復と身体強化の魔力を定着させた特注の加護刺繍が仕込んである。
「お前の縫ったものなど不愉快だ。おい、この薄汚いマントを庭で直ちに焼き捨てろ!」
アレンは控えていた従僕へマントを投げつけた。
従僕はおろおろとそれを受け取り、頭を下げて下がっていく。
あれを失えば、自身の身体に何が起きるのか、この男は何も分かっていないのだ。
「それから、もう一つだ」
アレンが私の前に踏み込んできた。
無防備だった私の頭部へ乱暴に手を伸ばし、銀髪を留めていた髪飾りを力任せに引き抜いた。
「っ……!」
「これは侯爵家からの結納金や、我が家への不義理に対する慰謝料の一部として没収する。悪女のお前が身に着けていていい代物ではない」
アレンの手の中に収まったのは、銀細工の櫛型の髪飾りだった。
三枚の葉が透かし彫りにされ、裏側には母の名――『セシリア』の文字が小さく刻まれている。
魔石も付いていない、幼い頃に病没した母が遺してくれた唯一の私物。
平民となった者の個人動産を、貴族が不当に奪うことは、平民法における明確な強盗行為に他ならない。
「リリアナ、怪我をしたお前の気晴らしに、これをやろう」
「まあ……! アレン様、ありがとうございます。大切にいたしますわ」
アレンから髪飾りを受け取ったリリアナが、勝ち誇った笑みを浮かべて自らの髪にそれを挿した。
母の形見が奪われたことに、胸の奥底で鋭い怒りが燻る。
けれど、私は眉を動かさず、静かに背筋を伸ばした。
奪われたものは、いずれ法の手続きに則り、完璧な形で取り戻す。
「それでは、失礼いたします。クロフォード伯爵様、アレン・ウォーレン様。皆様のこれからの平穏を、心よりお祈り申し上げます」
完璧な礼法のカーテシーを捧げ、私は踵を返した。
一切の未練を捨て去った私の足取りに、広間が異様な静寂に包まれる。
背後で、アレンが慌てたように屑籠へ駆け寄る気配がした。
視界の端に、屑籠の前で前屈みになったアレンの背中が映る。
彼は屑籠の縁に手を触れ、底に沈む蒼硝子へ向けて伸ばしかけた指を、そのままぴたりと止めていた。
縋り付いてくるはずだった女が、一切の躊躇もなく婚約の証を捨て去った。
その事実の重みが、ようやく届いたのだろう。
私は一度も足を止めることなく、玄関へと向かった。
扉の脇、薄暗い廊下の影から、ミナが涙をいっぱいにためた目で見つめていた。
私はほんの一瞬だけ、彼女と視線を交わす。
私の私室、床板の下。
あらかじめ伝えてあった場所を思い出したように、ミナが小さく、誰にも気づかれないように頷いた。
重厚な玄関扉を押し開けると、夜の冷気と激しい雨の匂いが吹き込んできた。
◇
ざあざあと、容赦のない豪雨が王都の夜を濡らしていた。
傘も持たず、外套すら羽織らないまま、私は石畳の道を歩き続けた。
雨水が瞬く間にドレスを濡らし、重たく足に絡みつく。
貴族街の豪奢な街灯が途切れ、建物の影が低く密集する一角へと差し掛かった。
商業ギルドが実質的な自治権を握る、裏街への境界線だ。
ここから先は、貴族の権力も、あの傲慢な男たちの身勝手な言葉も届かない。
私は足を止め、冷え切った指先を胸の前で重ねた。
その時だった。
雨音を切り裂き、濡れた石畳を擦る重厚な車輪の音が響いた。
夜の闇に溶け込むような漆黒の馬車が、音もなく私の前を塞ぐようにして停まる。
御者が飛び降り、馬車の扉を静かに開けた。
現れたのは、長身の男だった。
黒の外套を羽織り、雨の中に降り立ったその人物は、息を呑むほどに整った美貌の持ち主だった。
夜を溶かし込んだような漆黒の髪に、冷徹な知性を宿す切れ長の双眸。
男は雨を厭う風もなく、まっすぐに私へと歩み寄ってきた。
「こんな夜更けに、ずいぶんと冷たい雨に打たれていらっしゃいますね」
低く、落ち着いた声音が雨音に混じって届く。
男は私を見下ろし、上質な黒革の手袋に包まれた手を、躊躇うことなく伸ばしてきた。
避ける間もなく、その革手袋の指先が、雨に濡れた私の冷たい指先へとそっと触れる。
「っ……」
思わず息を呑んだ。
凍え切っていた私の指先へ、革越しであるにもかかわらず、驚くほどの熱を帯びた体温が流れ込んできたのだ。
あまりの温度差に、心臓が跳ねるような錯覚を覚える。
男の切れ長の瞳が、至近距離で私を真っ直ぐに捉えていた。
慈しむような、深い敬意に満ちた光。
かつて、幼い日に裏街の路地裏で手当てした、泥だらけの少年の面影が、男の双眸の奥にわずかに重なった気がした。




