第八話 神父様の沈黙
雨上がりの村には、静けさが戻っていた。
石畳の隙間には、まだ雨水が残っている。教会へ続く細い道の両側では、濡れた草が朝の光を受けて輝いていた。
ホームズは歩きながら、村の家々を眺めていた。
「ホームズ、何を見ているんだ?」
ワトソンが尋ねた。
「家の窓だよ、ワトソン」
「窓?」
「鎧戸が閉じられている家と、開いている家がある。昨夜の嵐のせいだけではない。こちらを見ている者もいる」
ホームズは視線を動かさなかった。
「村人たちは、我々が何を調べに来たのか知っている。だが、全員が同じことを考えているわけではない」
先を歩くエレノアが振り返った。
「この村の人たちは、あまりよそ者を歓迎しません。特に、昔のことを尋ねる人には」
「それは、なぜです?」
「私にも分かりません。夫も、村の人たちと親しく付き合っていたわけではありませんでした」
ホームズは、それ以上尋ねなかった。
彼女が知らないことを、知っているかのように話させても意味はない。
三人は、古い石造りの教会に到着した。
扉を開けると、冷たい空気が頬に触れた。
長い年月を経た石壁。高い天井。色あせたステンドグラスから、淡い光が差し込んでいる。
祭壇の前には、年老いた神父が立っていた。
「お待ちしておりました」
神父はフランス語で挨拶した。
「ホームズです。こちらはワトソン博士。そして、エレノア夫人です」
ホームズは、自然なフランス語で答えた。
「Enchanté, Monsieur le Curé.」
(アンシャンテ、ムッシュ・ル・キュレ)
「お会いできて光栄です、神父様」という意味だ。
神父はわずかに微笑んだ。
「こちらこそ。ロンドンから、ずいぶん遠くまでいらっしゃいましたな」
「遠くまで来たからには、確かめたいことがあります」
ホームズは教会の内部を見回した。
「この村で亡くなった四人について、記録を拝見できますか」
神父の表情が、ほんの少し変わった。
「四人とも、私が葬儀を執り行いました」
「では、記録が残っているはずですね」
「もちろんです」
神父は奥の部屋へ案内した。
そこには、古い書棚と机があった。棚には革表紙の帳簿が並び、背表紙には年代が記されている。
神父が帳簿を取り出した。
「洗礼、婚姻、死亡。教会では、昔から記録を残しております」
ホームズは椅子に座り、帳簿を開いた。
ワトソンも隣から覗き込む。
「四人の名前を確認しましょう」
ホームズは、エレノアから聞いた名前と、神父の記録を照らし合わせた。
死亡した日付、年齢、埋葬された場所。
一人ずつ、丁寧に確認していく。
「不思議だな」
ホームズが呟いた。
「何が分かったんだ?」
「まだ何も分かっていない。だが、分からないことが明確になった」
ワトソンは苦笑した。
「それは、君らしい答えだ」
ホームズは帳簿から目を離さずに続けた。
「四人の死に、明白な共通点は見つからない。年齢も職業も異なる。家族関係も、今のところ結びつかない」
「では、獣の仕業なのか?」
「それを決めるのは早いよ。死体の状態を確認しなければならないし、そもそも四人が同じ原因で亡くなったのかどうかも分からない」
ホームズは帳簿を閉じた。
「神父様。古い記録は、ほかにもありますか?」
「古い記録?」
「この村の歴史です。昔の地図や、土地の境界に関する記録など」
神父はしばらく黙っていた。
やがて、書棚の一番下から、細長い筒を取り出した。
「これは、ずっと昔のものです。教会の修繕の際に見つかりました」
筒から取り出されたのは、黄ばんだ一枚の地図だった。
羊皮紙ではなく、厚手の紙に描かれている。端は擦り切れ、何度も折り畳まれた跡があった。
ホームズは机の上に広げた。
村の建物、畑、森、古い道。
現在の地図とは違い、建物の位置も道の形も、ところどころ異なっている。
「これは興味深い」
ホームズは身を乗り出した。
地図には、教会から村の外れを通り、森の奥へと続く一本の赤い線が描かれていた。
その線は、途中で古い石造りの十字架の印を通り、さらに森の奥へ伸びている。
終点には、小さな薔薇のような印があった。
「これは何でしょう?」
ワトソンが尋ねた。
神父は、すぐには答えなかった。
ホームズは地図の端を指で押さえた。
「線が引かれた理由は分かりますか?」
「昔の境界線かもしれません」
「かもしれない、ですか」
「私が神父になる前から、ここにあったものです」
ホームズは赤い線を目で追った。
「この線には、名前があるのですか?」
神父の視線が、地図の片隅に移った。
そこには、古い筆跡で文字が書かれていた。
**La Ligne de Rose**
ラ・リーニュ・ド・ローズ。
薔薇の線。
「村の人々は、そう呼んでいたのでしょうか?」
ホームズが尋ねた。
神父は答えなかった。
「薔薇の線……」
ワトソンがフランス語の文字を読み上げた。
「何か宗教的な意味があるのだろうか?」
「まだ分からない」
ホームズは、地図をさらに近くへ引き寄せた。
「ただの装飾ではないようだ。教会、十字架、そして森の奥。意図的に位置を結んでいるように見える」
「古い巡礼路ではありませんか?」
エレノアが言った。
「可能性はあります」
ホームズは彼女を見た。
「この村で、昔から使われていた道について、何か聞いたことは?」
「いいえ。私は、この地図を見たこともありません」
「そうですか」
ホームズは、神父へ視線を戻した。
「神父様。この線の終点には、何があるのです?」
神父は、しばらく地図を見つめていた。
「森の中です」
「それは分かっています。森の、どの場所ですか?」
「今では、何もありません」
「昔は?」
神父は答えなかった。
その沈黙を、ホームズは見逃さなかった。
彼は神父の手元に目を向けた。
地図の端を押さえる神父の指が、わずかに震えている。
恐怖なのか、怒りなのか。それとも、別の感情なのか。
ホームズはまだ判断しなかった。
「神父様。あなたは、この線をご存じですね」
「私は、昔のことをすべて知っているわけではありません」
「すべてとは言っていません」
ホームズの声は静かだった。
「ご存じのことだけを伺いたいのです」
神父は地図を巻き始めた。
「この村には、忘れた方がよいこともあります」
「忘れることと、事実が消えることは違います」
ホームズは言った。
「人々が口を閉ざしても、記録は残る。建物も、道も、墓も残る。人間が忘れたつもりになっているだけです」
そのとき、教会の入口から足音が聞こえた。
年配の女性が、扉のところに立っていた。
彼女はエレノアを見ると、少し驚いた表情を浮かべた。
「エレノア……あなたも、ここに?」
「こんにちは、マダム」
女性はホームズとワトソンを見た。
「ロンドンから来た方たちですね」
「そうです」
ホームズが答えた。
女性の視線が、机の上の地図に移った。
赤い線を見た瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
「それを……まだ持っていたのですか」
神父が立ち上がった。
「マダム、ここでは何も話さないでください」
「でも、あの線は……」
女性は言葉を止めた。
ホームズは、彼女の顔を見つめた。
「マダム。その線をご存じなのですか?」
女性はすぐには答えなかった。
やがて、小さな声で言った。
「知っています。昔から、この村では、あの線を越えてはいけないと言われていました」
「なぜです?」
「分かりません。ただ……」
女性は、教会の窓から森の方を見た。
「昔、あの線の近くで、とても悲しいことがあったのです」
「誰に起きたことですか?」
ホームズが尋ねた。
女性は唇を噛んだ。
「もう、誰も話したがらないことです」
神父が彼女の言葉を遮った。
「お帰りなさい。ここは教会です。過去の噂を繰り返す場所ではありません」
女性は何も言わず、教会を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
ワトソンが、地図を見つめた。
「ホームズ。どう思う?」
ホームズは、赤い線の終点に描かれた薔薇の印を見ていた。
「この線が、何を意味するのかは分からない。磁場でも、呪いでもない。そう決めつける理由はない」
「では、何だと思う?」
「人間が引いた線だよ、ワトソン」
ホームズは地図を巻き戻した。
「問題は、誰が、何のために引いたのかだ」
エレノアが静かに尋ねた。
「夫の死にも、関係があるのでしょうか」
ホームズはすぐには答えなかった。
「まだ分かりません。しかし、四人の死と、この村の過去が無関係だと考える理由もありません」
彼は神父に向き直った。
「神父様。この地図を、しばらくお借りできますか?」
神父は首を横に振った。
「教会の記録です。外へ持ち出すことはできません」
「では、ここで調べさせてください」
「それも……」
神父は言葉を濁した。
ホームズは小さく笑った。
「なるほど。どうやら、私たちが探しているものは、森の中だけにあるわけではなさそうです」
教会を出ると、雨上がりの空は青く澄んでいた。
遠くに森が見える。
その向こうに、赤い線の終点がある。
ホームズは立ち止まり、森を見つめた。
「ワトソン。明日は、あの石の十字架を見に行こう」
「森の中へ入るのか?」
「そうだ。地図に描かれたものが、今も残っているか確かめたい」
「獣が出るかもしれないぞ」
「だからこそ、行くのさ」
ホームズは帽子を直した。
「伝説を信じる必要はない。しかし、伝説が生まれた理由を調べる必要はある」
エレノアは、森から目を離せなかった。
遠くから、風が吹いてきた。
木々の葉が揺れる。
その奥で、何かが動いたように見えた。
けれど、三人の誰も、それが何だったのかを確かめることはできなかった。
La Ligne de Rose―薔薇の線。
それは、村の古い地図に残された一本の線だった。
そして、その線の向こうには、誰も語ろうとしない過去が眠っていた。




