第七話 雨上がりの朝
夜の嵐が、嘘のようだった。
朝のノルマンディーには、青空が広がっていた。
雨に洗われた石畳は陽光を受けて輝き、屋根の軒先からは、まだ雫が落ちている。村の家々の向こうには、緑の牧草地が広がり、その先に黒々とした森が見えた。
森の木々には雨粒が残り、風が吹くたびに、葉の上の雫がきらきらと光っていた。
昨夜、雷鳴とともに聞こえた獣の遠吠えが、まるで夢だったかのように、村は静まり返っている。
ベイカー街から来た二人の英国紳士は、宿屋の食堂にいた。
ワトソンは窓際の席に座り、外の景色を眺めていた。
「ホームズ。昨夜の嵐が嘘のようだな」
「天候は、人間の都合に合わせて変わってはくれないよ、ワトソン」
「それはそうだが、あれほどの雷雨の翌朝に、こんな青空を見ると気分も違う」
ホームズは返事をせず、テーブルに置かれた朝食に目を向けた。
大きな木の皿には、薄く切られたハムと、白く柔らかなチーズが並んでいる。籠には焼きたての田舎パン。小さな器にはバターと、琥珀色のリンゴのコンフィチュールが盛られていた。
そして、ガラスの瓶には、淡い黄金色のシードルが入っていた。
宿屋の主人が、二人の前にグラスを置く。
「今朝は、地元の辛口シードルです。昨夜の雨で空気も澄みました。よい朝になりましたな」
ワトソンは、グラスを持ち上げた。
「シードルというのは、リンゴから作る酒でしたね」
「そのとおりです。ノルマンディーでは、昔から作られております」
主人は、グラスにシードルを注いだ。
「こちらでは、シードルは食卓に欠かせない飲み物なのですよ」
ワトソンは、グラスの中の液体を眺めた。
「朝食に酒とは、なかなか大胆ですね」
宿屋の主人は笑った。
「ここでは珍しいことではありませんよ。もちろん、飲まない者もおりますがね」
ホームズは、グラスを手に取った。
「水は出さないのかね?」
「井戸水ならございます。ただ、どこの水でも安心して飲めるとは限りません。雨のあとなどは、特に気をつけなければなりません」
ワトソンが主人を見た。
「水が濁っていなくても、ですか?」
「ええ。見た目だけではわかりません。家畜のいる場所や汚物の処理場から、雨水が地下に入り込むこともあります。井戸の場所によっては、飲み水に向かないこともあるのです」
主人は、シードルの瓶を軽く持ち上げた。
「昔は、飲み水を確保するのも簡単ではありませんでした。井戸や泉の水が、いつも安全とは限らなかったのです。その点、リンゴはこの土地でよく育ちます。シードルは保存もできますし、食事にもよく合います。昔から、私たちの暮らしに馴染んでいるのですよ」
「なるほど」
ワトソンは納得したようにうなずいた。
「つまり、単に酒好きだから飲んでいるわけではないのですね」
「もちろん、酒が好きな者もおりますがね」
主人は笑いながら、パンの籠を置いた。
ホームズは、シードルを一口飲んだ。
「悪くない。リンゴの香りが残っている」
「君が朝から酒の味を褒めるとは珍しいな」
「ワトソン、これは食文化の観察だよ」
「便利な言い訳だな」
ワトソンは笑い、パンを手に取った。
バターを塗り、リンゴのコンフィチュールを重ねる。
甘酸っぱい香りが広がった。
「これはうまい。リンゴのジャムですか?」
「ええ。リンゴはこの地方の大切な産物です。保存するために、こうして煮詰めるのです」
「なるほど。パンにもよく合う」
ワトソンは満足そうに食べ始めた。
「ところで、フランス語ではリンゴを何と言うのですか?」
宿屋の主人が答えようとしたとき、ホームズが先に口を開いた。
「Pommeだよ」
「ポム?」
「そうだ。リンゴはフランス語で pomme という」
ホームズは、テーブルの上のコンフィチュールを指した。
「リンゴのジャムなら confiture de pommes。コンフィチュール・ド・ポムだ」
ワトソンは、ゆっくりと繰り返した。
「コンフィチュール・ド・ポム……」
「フランス語では、名詞に男性と女性の区別がある。リンゴの pomme は女性名詞だ。だから la pomme と言う」
「では、シードルは?」
「cidre。こちらは男性名詞だ。le cidre となる」
ワトソンは、少し考え込んだ。
「同じリンゴに関係する言葉でも、男性と女性に分かれるのか」
「言葉の性別と、実際の性別は関係ない。フランス語の名詞には、文法上の性があるのだよ」
ホームズは、何でもないことのように言った。
「英語なら、どちらも the で済むところだが、フランス語では le と la を使い分ける」
「なるほど。覚えることが多そうだ」
「必要なら覚えればよい。必要のないことまで覚える必要はない」
ワトソンは苦笑した。
「君らしい答えだな」
そのとき、食堂の入口にエレノアが現れた。
黒い服を着ていたが、昨日よりも顔色はよくなっている。自宅で休み、身支度を整えてきたのだろう。
「おはようございます」
「おはようございます、エレノア」
ワトソンが立ち上がった。
ホームズも軽く会釈した。
「Enchanté, Madame.」
エレノアは、一瞬だけ目を丸くし、それから微笑んだ。
「ホームズさん、フランス語がお上手ですね」
「必要な言葉を知らないことは、探偵にとって不利ですから」
ワトソンが横から口を挟んだ。
「ホームズ、君はロンドンではそんな挨拶をしないじゃないか」
「ここはフランスだよ、ワトソン」
エレノアは、思わず笑った。
ホームズの言った Enchanté は、初対面の相手に対する挨拶だった。
「お会いできて光栄です」という意味である。
男性が自分について言う場合は Enchanté、女性なら Enchantée と綴る。ただし、発音は同じだ。
「ホームズさんは、フランス語の細かなところまでご存じなのですね」
「言葉は、その土地を理解するための道具でもありますから」
ホームズは、何事もなかったように椅子を勧めた。
エレノアは席に着いた。
「どうぞ、お食事を続けてください。私も少しいただきます」
宿屋の主人が、新しい皿とグラスを用意した。
「マダム、シードルはいかがですか?」
「ありがとう。少しいただくわ」
主人がグラスにシードルを注ぐ。
エレノアはパンを取り、バターを塗った。
「この土地の朝食は、いつもこんな感じなのですか?」
ワトソンが尋ねた。
「宿屋によって違いますが、パンとバター、チーズ、ハム、リンゴはよく食べます。シードルもね」
「リンゴづくしですね」
「ノルマンディーですから」
エレノアは、そう言ってグラスを持ち上げた。
ワトソンもシードルを一口飲んだ。
「なるほど。リンゴの香りがする。ビールとはまた違う味わいだ」
「アルコール度数も、ワインより低いものが多いですよ」
エレノアが説明した。
「辛口のものは、食事にもよく合います」
「確かに、このチーズにはよく合う」
ワトソンは、満足そうにうなずいた。
ホームズは食事を続けながら、昨夜のことを考えていた。
やがて、ナイフを置く。
「さて、ワトソン。朝食も十分に楽しんだことだ。そろそろ仕事に戻ろう」
「そうだな」
エレノアも表情を引き締めた。
「何から始めるのですか?」
「まず、わかっていることと、わかっていないことを分ける」
ホームズは、テーブルの上に置かれた紙を引き寄せた。
「この村では、すでに四人が命を落としている。そのうちの一人が、あなたのご主人です」
エレノアは静かにうなずいた。
「ご主人は、村はずれの森へ続く道の近くで発見された。しかし、なぜ夕暮れに森へ向かったのかは、まだわからない」
「ええ。主人は、暗くなってから森へ行くことを嫌がっていました」
「それが重要なのです。普段から森を恐れていた人物が、なぜその晩に限って森へ向かったのか」
ホームズは紙に短く書き留めた。
「次に、四人の犠牲者に共通点があるかどうかです」
ワトソンが尋ねた。
「全員が、森の近くで発見されたのですか?」
「それも確認しなければならない。村では、彼らが巨大な獣に襲われたと信じられている。しかし、獣による襲撃だったという証拠は、まだない」
「昨夜、私たちが見た影は?」
「確かに巨大な犬のような姿だった。だが、あれが人を殺した獣なのか、あるいは誰かがそう思わせようとしているのかは、別の問題だ」
ホームズは窓の外を見た。
雨に濡れた森は、朝の光を受けている。
「そして、村人たちは過去について話したがらない」
エレノアが、少し考え込んだ。
「宿屋の主人も、昨夜、昔からこの村にはよくないことがあったと言っていました」
「そうだ。何があったのかを調べる必要がある」
ワトソンが尋ねた。
「教会の司祭に会うのだったね?」
「そうだ。昨夜、宿屋の主人は、古い記録を司祭が保管していると言っていた」
エレノアがうなずいた。
「教会なら、村の古い記録が残っているかもしれません。司祭に会ってみましょう」
ホームズは紙を折りたたみ、上着の内ポケットにしまった。
「その前に、四人の犠牲者について、もう少し詳しく聞きたい。名前、年齢、職業、家族、そして互いにどのような関係があったのか」
「わかりました。知っていることをお話しします」
「あなたが知らないことまで、無理に思い出す必要はありません。事実だけで十分です」
ホームズは立ち上がった。
「ワトソン、準備を」
「もう済んでいるよ」
ワトソンは帽子を手に取った。
宿屋の主人が、食器を片づけながら声をかけた。
「森へ行かれるのですか?」
「まずは教会だ」
ホームズが答えた。
「司祭に会い、古い記録を調べる」
主人は、手を止めた。
「昔のことを、あまり掘り返さないほうがよいかもしれません」
ホームズは主人を見た。
「なぜかね?」
「この村には、忘れたほうがよいこともあるのです」
「忘れたほうがよいことと、忘れてはならないことは違う」
ホームズは、それ以上何も尋ねなかった。
三人は宿屋を出た。
雨上がりの村は、明るかった。
石畳には水たまりが残り、軒先から落ちる雫が、陽光の中で光っている。遠くの森からは鳥の声が聞こえてきた。
昨夜の獣の遠吠えは、もう聞こえない。
しかし、ホームズは森から目を離さなかった。
「ワトソン」
「何だね?」
「昨夜の雷雨は、足跡を消してしまったかもしれない」
「それは残念だな」
「だが、雨はすべてを消し去るわけではない」
ホームズは、森へ続く道を見つめた。
「人間の記憶までは、洗い流せないからね」
三人は、村の古い教会へ向かって歩き始めた。
青空の下に、鐘楼が見えていた。




