第六話 嵐の夜
モン・サン=ミシェルから村へ戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
昼間は穏やかだった空模様が、いつの間にか変わっている。
西の空には、黒い雲が幾重にも重なり、遠くの海から吹きつける風が、馬車の窓を揺らしていた。
「雨が降りそうですわね」
エレノアが空を見上げた。
「かなり大きな雲だ。急いだ方がよさそうだな」
ホームズが答える。
馬車は村の広場へ向かって進んだ。
そのとき、空の向こうで雷鳴が響いた。
ゴロゴロ……。
「これは、ひと雨来そうですな」
ワトソンが窓の外を見ながら言った。
村に到着したとき、最初の雨粒が馬車の屋根を叩いた。
ぽつり、ぽつり。
それが、すぐに激しい雨へと変わった。
「ホームズさん、私はここで失礼します。自宅は村の外れですが、歩いて帰れます」
エレノアが馬車を降りた。
「この雨では危険です。送ってもらった方がよいのでは?」
ワトソンが心配そうに尋ねた。
「大丈夫です。慣れた道ですから」
彼女は微笑んだ。
「それに、あの家は私の家です。夫と暮らした家でもあります。帰らなくては」
その言葉に、ワトソンは何も返せなかった。
ホームズは静かに頷いた。
「では、明日の朝、宿屋で落ち合いましょう」
「ええ。お二人とも、どうかお気をつけて」
エレノアは傘を広げ、雨の中を歩いていった。
その後ろ姿は、降りしきる雨にすぐに霞んでしまった。
ホームズとワトソンは、村の広場に面した宿屋へ向かった。
宿屋は古い石造りの二階建てだった。一階には食堂があり、暖炉には薪がくべられている。壁には古びた銃や鹿の角が飾られ、窓には厚いカーテンが掛けられていた。
裏手には馬小屋があり、旅人の馬車を預かることもできる。
大柄な主人が二人を出迎えた。
「いらっしゃいませ。お泊まりですか?」
「二人分の部屋を頼みたい」
ホームズが答えた。
「もちろんです。ロンドンからいらした方ですね?」
「そうだ」
主人は二人の顔を見比べた。
「例の事件を調べに来られたので?」
「例の事件?」
ワトソンが尋ねる。
主人は食堂の方へ目を向けた。
「森の獣ですよ」
その言葉を聞いた途端、近くにいた村人が、手にしていたグラスを置いた。
「余計なことを話すな」
低い声だった。
主人は肩をすくめた。
「失礼しました。お部屋はこちらです。夕食もご用意できますよ」
「ありがたい。ぜひお願いしよう」
ワトソンはすぐに答えた。
ホームズは彼を横目で見た。
「君は、どこへ行っても食事のことを忘れないな」
「食事を忘れる医者など、医者として失格でしょう」
「なるほど。では、今夜の献立を楽しみにしよう」
二人は荷物を部屋に置き、食堂へ戻った。
その頃には、雨はさらに激しくなっていた。
屋根を打つ雨音が、食堂の中まで響いてくる。
窓ガラスには雨粒が流れ落ち、外の景色はほとんど見えない。
やがて、夕食が運ばれてきた。
牛肉と野菜をじっくり煮込んだ料理だった。大きな陶器の皿に盛られた肉は、長い時間をかけて柔らかく煮込まれている。添えられたジャガイモには、肉汁が染み込んでいた。
焼きたてのパンからは、香ばしい匂いが漂っている。
ワトソンは一口食べ、満足そうに頷いた。
「これはうまい。ロンドンの食堂では、なかなかこうはいきません」
「ノルマンディーは乳製品やリンゴ酒でも知られている。土地の料理を味わうのも、旅の楽しみだな」
ホームズはリンゴ酒を少し口にした。
しかし、彼の目は料理ではなく、食堂の人々を観察していた。
村人たちは小声で話している。
ときおり、二人の方へ視線を向ける。
そして、森の話題になると、決まって声が小さくなった。
「宿の主人に聞いてみましょうか」
ワトソンが言った。
「いや、今はまだいい。人は、話したくないことを尋ねられると、かえって口を閉ざすものだ」
そのとき、窓の外が一瞬、真っ白に光った。
稲妻だった。
直後、凄まじい雷鳴が村全体を揺さぶった。
ドーン!
食堂の窓がびりびりと震えた。
「これは、すごい雷だ」
ワトソンが思わず声を上げた。
雨はますます激しくなっていた。
屋根を叩く音は、もはや絶え間ない轟音のようだった。風が建物の隙間を通り抜け、扉がわずかに揺れる。
宿屋の主人が、暖炉に薪をくべた。
「今夜は外へ出ない方がいいでしょう。道はすぐにぬかるみます。森へ向かうなど、もってのほかです」
「森は、そんなに危険なのかね?」
ホームズが尋ねた。
主人は火を見つめたまま答えた。
「獣がいるからです」
「あなたは、その獣を見たのか?」
主人は答えなかった。
代わりに、食堂の奥に座っていた老人が口を開いた。
「見た者はいる。だが、見たことを話したがらない者もいる」
「なぜです?」
ワトソンが尋ねた。
老人はグラスを置いた。
「昔から、この村にはよくないことがあった。森の獣は、その報いなのかもしれん」
「報い?」
ホームズが聞き返した。
老人は、ホームズの顔をじっと見た。
「忘れた方がいいこともある」
それ以上、老人は何も話さなかった。
そのとき、再び稲妻が走った。
窓の外が青白く輝き、次の瞬間、雷鳴が轟いた。
ゴロゴロゴロ……ドーン!
そして、雷鳴が遠ざかり始めた頃だった。
ウォォォォォン……。
森の方角から、長く低い遠吠えが聞こえた。
食堂の会話が一斉に止まった。
誰もが、窓の外を見ている。
もう一度。
ウォォォォォン……。
今度は、少し離れた場所から別の声が返ってきた。
まるで、森の奥で何かが呼び合っているようだった。
「犬なのか……?」
ワトソンが窓辺に近づいた。
「分からない」
ホームズは立ち上がった。
その瞬間、稲妻が再び夜空を切り裂いた。
森の入口に、黒い大きな影が立っていた。
犬のようにも見える。
しかし、その身体はあまりにも大きかった。
月明かりのない夜だったが、稲妻に照らされた一瞬、二つの目が光った。
次の瞬間、影は木々の向こうへ消えた。
「ライカンだ……」
食堂の片隅で、村人が震える声でつぶやいた。
誰かが十字を切った。
別の村人は、窓から目をそらして椅子に座り込んだ。
ホームズは窓から離れなかった。
「ワトソン」
「何だね?」
「今の姿を見たか?」
「ああ。確かに大きな犬のようだった」
「そうか」
ホームズは、しばらく考え込んだ。
「今夜は外へ出ない方がいい。これだけの雨では、足跡を調べることもできない」
「明日の朝なら?」
「雨が上がれば、森を調べることができる」
ホームズは宿屋の主人に向き直った。
「この村には、古い教会があると聞いたが」
「ええ。村の中央にあります」
「古い記録も残っているだろうか?」
主人は少し迷った後、答えた。
「司祭に聞いてみることですな。あの方なら、昔のことを知っているでしょう」
「分かった。明日、訪ねてみよう」
ホームズは椅子に戻った。
ワトソンは、まだ窓の外を気にしていた。
「ホームズ、今夜は本当に何も起きないだろうか」
「何も起きないとは言っていない」
ホームズは静かに答えた。
「ただ、今夜は雨が強すぎる。人間にも獣にも、都合のよい夜だ」
その言葉に、ワトソンは顔を上げた。
「人間にも?」
ホームズは答えなかった。
窓の外では、雨が降り続いている。
雷鳴が遠くで響き、風が古い宿屋の壁を揺らしていた。
その夜、二人は宿屋の二階で休むことになった。
しかし、ホームズはなかなか眠ろうとしなかった。
村の人々が口にした「昔からのよくないこと」。
それは、いったい何を意味しているのだろう。
そして、森の獣は本当に人間を襲っているだけなのか。
雨音が、窓を叩き続ける。
ゴロゴロ……。
遠くで雷が鳴った。
その雷鳴に紛れるように、森の奥から、もう一度だけ遠吠えが聞こえた。
ウォォォォン……。
ホームズは暗い窓を見つめた。
嵐の夜は、まだ終わりそうになかった。




