第五話 Mont-Saint-Michel / モン・サン=ミシェル
朝のノルマンディーには、ロンドンとは違う静けさがあった。
窓の外には、朝露を残した草地が広がっている。石造りの家々の屋根からは、細い煙が立ち上り、遠くの農場では牛の鳴き声が聞こえていた。
ホームズは宿屋の食堂で、紅茶を飲みながら窓の外を眺めていた。
「ホームズ、もう出発する時間だ」
ワトソンが声をかけた。
「急ぐ必要はない。馬車は逃げないよ」
「君は、いつもそうだな。事件の調査に来たのか、休暇に来たのか分からなくなる」
「ワトソン、君は昨夜の鴨料理を覚えているかね?」
「もちろんだ。あの赤ワインのソースは素晴らしかった」
「それなら、今日も食事を楽しみにしておけばいい」
「まったく、君という男は……」
そこへエレノアがやって来た。
「お待たせしました。馬車の用意ができました」
彼女は黒い外套を羽織っていた。夫を亡くして以来、その表情には疲れが残っていたが、今朝は少しだけ明るく見えた。
「今日は、アヴランシュへ向かいます。そのあと、モン・サン=ミシェルを訪ねましょう」
「モン・サン=ミシェル……」
ホームズがフランス語の名を口にした。
「聖ミカエルの山、という意味だね」
「ええ。あの岩山には、古い伝説があるんです」
「伝説か。興味深い」
ホームズはカップを置き、立ち上がった。
「では、出かけよう。ワトソン、君は歩くつもりではないだろうね?」
「馬車で行くんだろう?」
「それなら結構だ」
ワトソンは苦笑した。
*
馬車は村を出て、ノルマンディーの田園を進んでいった。
道の両側には低い石垣が続き、その向こうには牧草地が広がっている。ところどころにリンゴの木が植えられ、農家の庭先には薪が積まれていた。
馬の蹄が、石混じりの道を規則正しく叩く。
ワトソンは窓から身を乗り出すようにして、景色を眺めていた。
「実に美しい土地だな。ロンドンの煤煙とは大違いだ」
「その代わり、夜になると森から獣の声が聞こえるのです」
エレノアの言葉に、ワトソンの表情が少し変わった。
「ライカンか」
「ええ」
「昼間は、こんなに穏やかな土地なのにね」
エレノアは窓の外に目を向けた。
「私も、ここへ来たばかりのころは、そう思っていました」
ホームズは彼女を見たが、何も尋ねなかった。
やがて馬車は、アヴランシュの町へ入った。
*
サン・ジェルヴェ教会は、町の一角に静かに建っていた。
三人は馬車を降り、石造りの教会へ入った。
内部には、古い木の香りと、蝋燭の匂いが漂っている。
エレノアは、ある場所で足を止めた。
「こちらです」
そこには、ガラスの覆いの中に、一つの頭蓋骨が安置されていた。
ワトソンは、思わず身を乗り出した。
「これは……」
「司教オベールの頭蓋骨と伝えられているものです」
エレノアは静かに説明した。
「モン・サン=ミシェルの創建にまつわる伝説に登場する人物です」
ホームズは、頭蓋骨を注意深く見つめた。
側面には、小さな穴が開いている。
「この穴は、何によるものなのかね?」
「伝説では、大天使ミカエルが司教の頭に触れた跡だとされています」
「大天使が?」
ワトソンが聞き返した。
「はい。司教オベールの夢に、大天使ミカエルが現れたのです」
エレノアは、ゆっくりと話し始めた。
「八世紀の初め、オベール司教の夢に、大天使が現れました。そして、あの岩山に自分を祀る聖堂を建てるよう命じたのです」
「司教は従わなかったのかね?」
「最初は、夢を信じなかったそうです。二度も同じお告げを受けたのに、彼は動きませんでした」
「それで三度目があった」
ホームズが言った。
「ええ。三度目には、大天使が司教の頭に指を触れた。すると、頭蓋骨に穴が開いたと伝えられています」
ワトソンは、もう一度、ガラスの中の頭蓋骨を見た。
「夢のお告げを信じなかったために、天使が証拠を残したというのか」
「伝説では、そういうことになっています」
ホームズは、しばらく黙っていた。
「それで、司教は聖堂を建てたのだね」
「はい。モン・サン=ミシェルの始まりです」
ホームズは、頭蓋骨から目を離した。
「興味深い。人間は、夢を見ただけでは動かないことがある。しかし、ある夢を信じた人間は、そのために岩山の上に建物を築く」
「ホームズ、君はこの伝説を信じるのか?」
ワトソンが尋ねた。
「信じるかどうかと、伝説が人間に与えた影響を考えることは、別の問題だよ」
ホームズは、教会の高い天井を見上げた。
「少なくとも、この伝説を信じた人々が、あの山に聖堂を築いた。それは疑いようのない歴史だ」
エレノアは、静かにうなずいた。
「その後、修道士たちが集まり、長い年月をかけて修道院が大きくなっていきました」
「夢から始まった場所が、千年以上の歴史を持つようになったわけか」
ワトソンは、感心したように言った。
「そうです。だから、私はあの場所が好きなのです」
エレノアの声には、少しだけ懐かしさがあった。
*
教会を出ると、馬車の御者が手綱を握って待っていた。
三人は再び馬車に乗り込み、モン・サン=ミシェルへ向かった。
道の先に、海が見えてくる。
そして、その向こうに――。
「あれが……」
ワトソンは、窓の外を見つめた。
海と干潟の向こうに、巨大な岩山がそびえていた。
頂には修道院の建物が重なり、その先端には、金色の大天使ミカエルの姿が見える。
空の色を映した海の上に、まるで一つの城が浮かんでいるようだった。
「見事だな」
ホームズも、しばらく言葉を失っていた。
「ロンドンの建物とは、まるで違う」
「ここは、海とともに姿を変える場所です」
エレノアが説明した。
「潮が満ちれば、岩山は海に囲まれます。潮が引けば、広い干潟が現れます。ただし、歩いて渡るのは危険です。泥に足を取られることもありますし、潮が戻るのは驚くほど早いのです」
「案内人が必要ということだね」
ホームズが確認した。
「はい。今日は潮の状態を見てもらい、安全な方法で渡ります」
「賢明だ。ワトソン、君は自分の判断だけで干潟へ入らないように」
「分かっている。私は軍医だ。危険な場所へ無謀に踏み込む趣味はない」
「それは頼もしい」
ホームズは、ほんの少し笑った。
やがて三人は案内人と合流し、潮の状態を確かめながら島へ向かった。
足元の砂地は、場所によって硬さが違う。遠くに見える水たまりも、光の加減で浅く見えるだけかもしれない。
案内人の指示に従い、三人は慎重に進んだ。
ワトソンは何度も後ろを振り返った。
「海の中を歩いているような気分だ」
「実際、海の底だった場所を歩いているのだよ」
ホームズが答えた。
「そう言われると、なおさら不思議だな」
やがて、三人は島へたどり着いた。
*
モン・サン=ミシェルの街並みは、石造りの家々が斜面に沿って重なり、細い坂道が上へと続いていた。
観光客や巡礼者、商人たちが行き交い、店先からは焼き菓子の甘い香りが漂っている。
ワトソンは、周囲を見回した。
「ここには、ずいぶん多くの人が訪れるのだな」
「昔から巡礼者が絶えなかったそうです」
エレノアが答えた。
「大天使ミカエルに祈るために、遠くからやって来た人々です」
「夢のお告げが、これほど多くの人を呼び寄せたのか」
ホームズは、石段の上を見上げた。
「人間の信仰というものは、時に大きな力を持つ」
三人は坂道を上り、修道院へ向かった。
高い石壁、細い窓、重厚な柱。
建物の中へ入ると、外の喧騒が遠のき、ひんやりとした空気が三人を包んだ。
ワトソンは、天井を見上げた。
「これほどの建物を、あの岩山の上に築いたのか」
「長い年月をかけて、何代もの人々が造り上げたのでしょう」
エレノアが答えた。
ホームズは、柱や壁、窓の配置を観察していた。
「建築にも、時代ごとの特徴がある。ひとつの夢から始まった建物が、これほど多くの人間の仕事を積み重ねてきたのだ」
「君は、建物を見ても推理をするのかね?」
「ワトソン、建物にも歴史が刻まれている。人間の足跡を読むのと同じことだよ」
ワトソンは、呆れたように笑った。
「今日は、何を見ても事件の手掛かりに見えるらしい」
「そうとも限らない。今日は、景色を楽しんでいる」
「本当か?」
「少なくとも、今のところはね」
*
昼食の時間になった。
三人は島の食堂へ入り、席に案内された。
エレノアが注文を済ませると、しばらくして、店の人が大きな皿を運んできた。
その上には、こんもりと膨らんだ黄色いオムレツが載っていた。
「これは……卵料理なのか?」
ワトソンは、目を丸くした。
「ええ。モン・サン=ミシェルで有名な、ふわふわのオムレツです」
「ずいぶん大きいな」
「卵をよく泡立てて、ふんわりと焼き上げるのだそうです」
ワトソンは、ナイフを入れた。
表面は香ばしく、中は驚くほど軽い。
「おお!」
ひと口食べたワトソンの顔が、ぱっと明るくなった。
「これは美味しい!」
口の中で、卵の柔らかさがほどけていく。重たい料理ではないのに、卵の味はしっかりしていた。
「ホームズ、君も食べてみたまえ」
「言われなくても食べるよ」
ホームズもひと口口に運んだ。
「なるほど。これは面白い」
「何が面白いんだ?」
「これほど空気を含ませながら、卵の味を失っていない。調理には工夫が必要だろう」
「君は料理まで分析するのか」
「観察するのは悪いことではない」
エレノアは、二人のやり取りを見て微笑んだ。
「気に入っていただけて、よかったです」
ワトソンは、もう一口食べた。
「これは、ロンドンへ戻ってからも忘れられそうにないな」
「ワトソン、君は食事の記憶だけは実に鮮明だ」
「食事は大切だよ、ホームズ」
「それには同意する」
三人のテーブルには、しばらく穏やかな時間が流れた。
エレノアは、ふと窓の外を見た。
遠くに広がる海。その向こうには、彼女が暮らしていたノルマンディーの土地がある。
夫と一緒に、何度も眺めた景色だった。
彼が生きていたころ、二人でここを訪れたこともあった。
「エレノア?」
ワトソンが声をかけた。
「ごめんなさい。少し、昔のことを思い出していました」
「ご主人と来たことが?」
「はい」
彼女は、かすかに微笑んだ。
「主人は、このオムレツが好きでした。私よりも、ずっとたくさん食べていました」
ワトソンは、何も言わなかった。
ホームズも、彼女に視線を向けたまま、黙っていた。
しばらくして、エレノアはナプキンを手に取った。
「さあ、戻りましょう。まだ、村で調べなければならないことがありますから」
*
帰りの馬車は、午後の光の中を進んでいた。
モン・サン=ミシェルは、少しずつ遠ざかっていく。
ワトソンは満足そうに背もたれへ身を預けていた。
「今日は、いい一日だったな」
「そうだね」
ホームズは、窓の外を眺めていた。
「どうした、ホームズ?」
「森が見える」
馬車の進む先、村の向こうに、黒々とした森が広がっていた。
昼間であるにもかかわらず、木々の奥は暗く、光が届いていないように見えた。
「もうすぐ村です」
エレノアが言った。
そのときだった。
遠くから、低い音が聞こえた。
馬車の車輪の音に紛れそうなほど小さかったが、三人は同時に顔を上げた。
ウォオオオオ……。
長く、低い。
狼の遠吠えに似た声だった。
ワトソンは窓の外を見た。
「今のは……」
「森からです」
エレノアの顔から、血の気が引いた。
再び、声が聞こえた。
ウォオオオオ……。
今度は、少し離れた場所からだった。
まるで、最初の声に応えるように。
「一頭ではないのか?」
ワトソンが尋ねた。
ホームズは、森から目を離さなかった。
「まだ分からない」
馬車が村の入口へ差しかかったとき、道端に人影が立っていた。
村人の男だった。
彼は馬車に気づくと、慌てて駆け寄ってきた。
「エレノアさん!」
「どうしたのです?」
男は、息を切らしながら三人を見た。
「森の近くで……また、妙なものが見つかったんです」
エレノアの表情が固まった。
「まさか……」
男は、うなずいた。
「村長が、すぐに来てほしいと言っています」
ホームズは、ゆっくりと馬車の扉を開けた。
「ワトソン。どうやら、観光はここまでのようだ」
「そのようだな」
ホームズは、森の方を見た。
遠吠えは、もう聞こえなかった。
だが、森の奥には、何かが潜んでいる。
それが獣なのか、人間なのか。
ホームズは、まだ答えを出していなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
この村では、誰かが何かを恐れている。
そして、その恐怖は、まだ終わっていないのだった。




