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小室泰六=SHERLOCK『裏側の正義と、獣の影』La Ligne de Rose(ラ・リーニュ・ド・ローズ)編  作者: S・C・G


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第四話 巴里の夜



 ロンドンの朝は、まだ薄暗かった。


ベイカー街二二一Bの玄関には、旅行鞄が三つ並んでいた。


シャーロック・ホームズは、いつもの黒い外套を身につけ、手袋をはめている。ワトソンは医療用具を詰めた鞄を確認していた。


「ホームズ、薬品はこれで全部だ。包帯も消毒薬も入っている」


「結構だ、ワトソン君。今回は君の医者としての腕が必要になるかもしれない」


「できれば、必要にならないことを願いたいね」


そのとき、階段からエレノア・アシュフォードが降りてきた。


黒い旅行用のドレスに、同じ色の外套。手には小さな鞄を持っている。


「お待たせしました」


「いいえ。こちらも準備ができたところです」


ホームズは時計を確認した。


「では、出発しましょう。まずは港へ向かわなければなりません」


ハドソン夫人が玄関まで見送りに出てきた。


「エレノア、どうか気をつけてね」


「ありがとうございます。ハドソン叔母さま」


「無理をしてはいけませんよ。何かあったら、必ずホームズさんたちに相談するのです」


エレノアは、夫人の手を握った。


「ええ。約束します」


ハドソン夫人は、彼女の肩を優しく抱いた。


「早く、安心して暮らせるようになるといいわね」


エレノアは、静かにうなずいた。


三人は馬車に乗り込み、ベイカー街を後にした。


ロンドンの街は、朝から忙しかった。


荷馬車が石畳を進み、商人たちが店先で品物を並べている。工場の煙突からは、相変わらず黒い煙が立ち上っていた。


ホームズは窓の外を眺めながら言った。


「ロンドンという街は、いつ見ても興味深い。人間が作り出したものが、人間の暮らしを覆い隠している」


「煤煙のことかね?」


「それもある。だが、街の表面だけを見ていては、そこに暮らす人々の本当の姿は分からないということさ」


ワトソンは、エレノアに視線を向けた。


「あなたの村も、外から見れば静かな田舎町なのでしょうね」


「ええ。美しい場所です。牧草地が広がり、遠くには湾が見えます。晴れた日には、モン・サン=ミシェルの姿も望めるのです」


「それほど美しい場所で、四人もの人が亡くなったとは……」


ワトソンは言葉を止めた。


エレノアは窓の外へ目を向けた。


「以前は、夜が来るのが楽しみでした。夫と食事をして、暖炉のそばで話をする。それだけで十分だったのです」


「今は違うのですね」


「ええ。日が暮れると、あの声を思い出してしまいます」


彼女は、それ以上話さなかった。


やがて馬車は港へ向かう道を進んでいった。


***


港には、海峡を渡る人々が集まっていた。


船員たちが荷物を運び、乗客たちが乗船の準備をしている。潮の匂いが漂い、海鳥の鳴き声が響いていた。


ワトソンは海を眺めた。


「こうして見ると、フランスはすぐそこにあるように思えるな」


「海峡は狭く見えても、天候によっては厄介なものだよ」


ホームズは船を見上げた。


「さあ、乗ろう。パリまでの道のりは、まだ長い」


蒸気船は、やがて港を離れた。


ロンドンの街並みが少しずつ遠ざかっていく。


海面には白い波が立ち、船はゆっくりと海峡を進んだ。


エレノアは甲板に立ち、イギリスの陸地を見つめていた。


「故郷を離れるときは、こんな気持ちになるとは思いませんでした」


「フランスも、あなたにとって故郷ではありませんか?」


ワトソンが尋ねた。


「そうです。夫と暮らした家があります。好きな景色も、親しくなった人々もいます。けれど……」


「けれど?」


「今は、帰ることが怖いのです」


ホームズは、海を見たまま言った。


「恐怖は、正体が分からないときに最も大きくなるものです。私たちが調べるのは、その正体です」


「本当に、あの獣の正体が分かるのでしょうか」


「分からないままにしておくつもりはありません」


その言葉に、エレノアは小さくうなずいた。


船は海峡を渡り続けた。


***


フランスの港に到着した頃には、午後になっていた。


乗客たちは船を降り、鉄道の駅へと向かう。


ホームズはフランス語で駅員に尋ね、パリへ向かう列車のことを確認した。


ワトソンはその様子を見ていた。


「君はフランス語も不自由しないな」


「必要なことを伝える程度ならね。言葉というものは、知っているつもりでも、土地が変われば意味合いが変わる。そこが面白い」


「ノルマンディーでは、エレノアさんに助けてもらうことになりそうだ」


「そうだろうね。土地の言葉や言い回しは、辞書だけでは分からない」


エレノアは二人の会話を聞いて微笑んだ。


「私でよければ、お手伝いします。長く暮らした土地ですから、村の人たちの話し方にも慣れています」


「頼もしいことだ」


ホームズはそう言って、列車に乗り込んだ。


***


列車は、フランスの大地を走り始めた。


窓の外には、広い畑と小さな村が次々に現れる。


石造りの家々。教会の尖塔。牛の放牧されている牧草地。


ロンドンとは違う風景だった。


ワトソンは窓の外を眺めながら言った。


「フランスは美しい国だな」


「君は景色を楽しむ余裕があるようだね」


「せっかく海峡を渡ってきたんだ。景色くらい楽しませてもらうさ」


「事件の現場に着けば、そんな余裕はなくなるかもしれないよ」


「分かっている。しかし、食事の時間くらいは楽しみたいものだ」


エレノアが、二人の会話に微笑んだ。


「パリでは、何かお好きなものを召し上がりますか?」


「そうだな。フランス料理は楽しみだ」


ワトソンは少し考えた。


「せっかくなら、鴨料理を食べてみたい」


「鴨ですか」


「ロンドンでも食べられるが、フランスで食べる鴨は、また違うだろう?」


ホームズは新聞から顔を上げた。


「ワトソン君、君は食事のことになると、実に熱心だな」


「事件のことばかり考えていても仕方がない。腹が減っては推理もできないだろう」


「それは、君の持論かね?」


「少なくとも、私の胃袋については正しい」


エレノアは、久しぶりに声を立てて笑った。


その笑顔を見て、ワトソンは少し安心した。


彼女は、夫を亡くしてからずっと張り詰めていたのだろう。


短い笑い声だったが、車内の空気を和らげてくれた。


***


パリに着いたとき、街には夕暮れが迫っていた。


駅を出ると、馬車が行き交い、通りには人々の声があふれていた。


建物の窓からは明かりが漏れ、カフェの店先には客が集まっている。


ロンドンとは違う、華やかな街の夜だった。


「今夜はここで休みましょう」


ホームズが言った。


「明日の朝、ノルマンディーへ向かいます」


エレノアも異論はなかった。


三人は駅から遠くないホテルに部屋を取り、荷物を置いた。


ワトソンは窓を開け、通りを眺めた。


「ずいぶん賑やかな街だな」


「パリは夜になってからが本番なのかもしれませんね」


エレノアが答えた。


「夕食に出かけよう。近くにフランス料理の店があるようだ」


ホームズは上着を整えた。


「君が店を選ぶとは珍しいな」


「今回は私の希望を聞いてもらおう。鴨料理だ」


「分かった。では、案内してくれたまえ」


***


三人が入ったのは、通りに面した小さなレストランだった。


扉を開けると、温かな空気とともに、焼いた肉の香ばしい匂いが漂ってきた。


店内には、低い話し声と食器の触れ合う音が満ちている。


壁には古い絵が掛けられ、テーブルには白いクロスが敷かれていた。


店員がフランス語で挨拶をする。


エレノアが応じ、三人は窓際の席へ案内された。


「何を注文しましょうか」


エレノアがメニューを開いた。


ワトソンは迷わず言った。


「鴨肉をお願いしたい」


「鴨のローストがあります。赤ワインのソースを添えた料理です」


「それにしよう」


ホームズはメニューに目を通した。


「私も同じものをいただこう」


「では、私も」


エレノアも同じ料理を選んだ。


それから彼女は、店員にバゲットと赤ワインを頼んだ。


ほどなくして、赤ワインが運ばれてきた。


深い赤色の液体がグラスに注がれる。


ワトソンはグラスを持ち上げ、香りを確かめた。


「これはいい香りだ」


「フランスの赤ワインです。鴨肉にもよく合いますよ」


エレノアが説明した。


ホームズはグラスを軽く傾けた。


「なるほど。香りがしっかりしている」


ワトソンはひと口飲んだ。


「うまい。ロンドンで飲むものとは、また違う気がするな」


「土地の空気まで味わっているつもりなのではないかね?」


「そうかもしれない」


二人が話している間に、料理が運ばれてきた。


皿の上には、皮目を香ばしく焼いた鴨肉が盛りつけられている。


表面には美しい焼き色がつき、切り口からは肉のしっとりとした様子がうかがえた。


濃厚な赤ワインソースが添えられ、付け合わせのジャガイモも、こんがりと焼き上げられている。


そして、籠には焼きたてのバゲットが入っていた。


外側はぱりっと硬く、内側は柔らかい。


ワトソンは思わず身を乗り出した。


「これは、実にうまそうだ」


「どうぞ、召し上がってください」


エレノアが微笑んだ。


ワトソンはナイフで鴨肉を切り分けた。


皮は軽く音を立て、肉は柔らかく切れる。


ひと口食べると、香ばしい脂の旨味が口いっぱいに広がった。そこへ赤ワインソースの深い味わいが重なる。


「これは素晴らしい!」


ワトソンは、思わず声を上げた。


「皮は香ばしいのに、肉は柔らかい。ソースもよく合っている」


「気に入っていただけたようですね」


エレノアも鴨肉を口に運んだ。


「ええ。フランスに戻ってきたのだと、ようやく実感できます」


ホームズは、鴨肉をひと切れ口にした。


「確かに、よくできた料理だ」


「ホームズ、君も満足しているようだな」


「食事にまで推理を持ち込む必要はないだろう?」


「それはよかった」


ワトソンは笑った。


バゲットを手に取り、ひと口ちぎる。


外側の香ばしい皮が軽く砕け、中の柔らかな生地から小麦の香りが広がった。


ワトソンは、残った赤ワインソースをバゲットにつけて食べた。


「これだ。鴨の旨味がソースに溶け込んでいる。パンにつけても実にうまい」


「ワトソン君、君は料理の観察に関しては、ホームズ以上かもしれないな」


「それは光栄だね」


エレノアは、二人のやり取りを眺めていた。


ほんの短い時間だった。


夫と食卓を囲んでいた頃のことを思い出したのかもしれない。


彼女はグラスを手に取り、赤ワインを少し口に含んだ。


その表情から、笑みが消えた。


「どうかしましたか」


ワトソンが尋ねた。


「いいえ。ただ、夫も鴨料理が好きだったのです」


彼女は皿を見つめた。


「こういう食事をすると、いつも一緒に食べたことを思い出します」


ワトソンは、何も言わなかった。


ホームズも、すぐには言葉を挟まなかった。


しばらくして、彼は静かに尋ねた。


「ご主人は、村でどのような暮らしをしていたのですか」


「農地や家畜のことに関わる仕事をしていました。村の人たちとも付き合いがありました」


「人望はあったのですか」


「少なくとも、私はそう思っていました」


「村人たちとの間に、何か問題があったとは?」


「私の知る限りではありません」


エレノアは首を横に振った。


「夫は、争いごとを好む人ではありませんでした」


ホームズは、彼女の顔を見つめた。


「分かりました。今夜は、これ以上お話ししなくて結構です。明日、現地で調べましょう」


「ありがとうございます」


三人は、再び食事に戻った。


ワトソンはバゲットをもうひと切れ取り、残ったソースを最後まで味わった。


ホームズも、赤ワインをゆっくりと飲んでいた。


パリの夜は、静かに更けていった。


***


翌朝。


ホテルの窓から、朝の光が差し込んでいた。


三人は朝食を済ませ、ノルマンディーへ向かう準備を整えた。


パリの駅には、長距離列車を待つ人々が集まっていた。


ホームズは切符を確認し、ワトソンは荷物を運んだ。


エレノアは、駅の向こうを見つめていた。


「もうすぐですね」


「ええ。今日中には、村へ向かうことになります」


ホームズは彼女に尋ねた。


「村へ戻ることに、不安はありますか」


「あります。でも、行かなければなりません。夫が亡くなった理由を知りたいのです」


「分かりました」


ホームズは短く答えた。


列車がホームに入ってきた。


蒸気が立ち上り、車輪が音を立てて止まる。


三人は乗り込んだ。


列車はやがて、パリの街を離れていった。


窓の外には、広い牧草地が広がり、遠くに小さな村や教会が見えた。


やがて、ノルマンディーの大地が近づいてくる。


エレノアは、故郷へ続く景色をじっと見つめていた。


その先には、夫と暮らした家がある。


村人たちが恐れる森がある。


そして、夜になると遠吠えが響くという。


ホームズは、膝の上に置いた地図を広げた。


「ワトソン君。村に着いたら、まず事件現場を確認しよう」


「分かった」


「エレノアさんには、村の人々を紹介していただきたい。彼らの話を聞く必要がある」


「もちろんです」


エレノアは答えた。


「ただ、村の人たちは、あまり外から来た人を信用しません」


「それなら、なおさら君の助けが必要だ」


ホームズは地図を畳んだ。


列車は、ノルマンディーの田園地帯を走り続けていた。


やがて駅に到着すると、三人は馬車に乗り換えた。


車輪が土の道を進み始める。


牧草地の向こうには、ゆるやかな丘が続いている。


遠くには、湾の方角が見えた。


エレノアが窓の外を指さした。


「あちらです。天気がよければ、モン・サン=ミシェルが見えるのです」


ホームズとワトソンは、彼女の指さす方向を見た。


遠い空と大地の境目に、かすかな影が浮かんでいる。


「美しい眺めだな」


ワトソンが言った。


「ええ。私も、この景色が好きでした」


エレノアの声には、懐かしさと寂しさが混じっていた。


馬車は、村へ向かう道を進んでいく。


やがて、道の先に森が見えてきた。


木々は深く重なり、奥の方は昼間でも暗く見える。


森の入口には、古い道標が立っていた。


ホームズは、その森をじっと見つめた。


「なるほど……」


「何か気づいたのかね?」


ワトソンが尋ねた。


「いや。まだ何も分からない。ただ、あの森を見ていると、村人たちが恐れる理由も少しは分かる気がする」


馬車は、森を横目に村へ向かった。


そのとき、遠くから風が吹いてきた。


木々の枝が揺れ、葉がざわめく。


獣の声にも似た、低い音が聞こえたような気がした。


エレノアは、窓の外を見つめたまま、身を固くした。


「……今の音」


ワトソンが耳を澄ませた。


「風の音ではないのか?」


ホームズは、森から目を離さなかった。


「まだ判断するには早い」


馬車は、村の入口へと近づいていった。


海峡を越えた先に待っていたのは、美しい田園風景だけではなかった。


その森の奥には、四人の命を奪った何かが潜んでいる。


そして、夜が訪れれば、また遠吠えが響くのだろう。


ホームズは外套の襟を整えた。


「さあ、ワトソン君。ここからが本当の仕事だ」


馬車は、静かな村へ入っていった。

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