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小室泰六=SHERLOCK『裏側の正義と、獣の影』La Ligne de Rose(ラ・リーニュ・ド・ローズ)編  作者: S・C・G


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第三話 海峡をこえてきた、依頼人 改訂版



 ロンドンの朝は、重たい煤煙に覆われていた。


工場の煙突から吐き出される黒い煙が、低い雲のように街の上へ広がっている。石炭を燃やす匂いが通りに漂い、建物の壁も窓も、長年の煤で黒ずんでいた。


朝になっても、街に明るさは戻らない。


それが、ロンドンの日常だった。


ベイカー街二二一B。


シャーロック・ホームズは、窓辺に立って通りを眺めていた。


昨夜の小さな事件は、すでに片づいている。ベイカー街の少年たちも、それぞれの持ち場へ戻った。


ワトソンは暖炉のそばで新聞を広げていた。


「ホームズ、今朝はずいぶん静かだな」


「静かな朝というものは、たいてい長く続かないものだよ、ワトソン君」


ホームズはそう答え、窓から視線を外した。


そのとき、階下からハドソン夫人の声がした。


「ホームズさん、お客様ですよ」


「こんな朝早くから?」


「私の遠縁にあたる方なのです。遠い親戚ですが、わざわざフランスから訪ねていらしたのですよ」


ホームズは新聞から目を上げた。


「フランスから?」


「ええ。ノルマンディーにお住まいなのですが、どうしてもホームズさんに相談したいことがあるそうです」


ハドソン夫人は、少し心配そうな顔をしていた。


「とてもお疲れのご様子です。どうか、お話を聞いてあげてくださいませんか」


「もちろんです。通してください」


ほどなくして、扉が開いた。


入ってきたのは、黒い服を身につけた一人の女性だった。


年齢は三十代半ばほどだろうか。顔色は青白く、目の下には疲労の色が濃い。それでも、背筋を伸ばし、気丈に振る舞おうとしていた。


「こちらが、シャーロック・ホームズさんですか」


「そうです。どうぞ、お掛けください」


女性は小さくうなずいた。


「エレノア・アシュフォードと申します。ハドソン夫人には、幼い頃からお世話になっております」


「久しぶりに会えて嬉しいわ、エレノア。でも、こんな形で訪ねてくることになるなんて……」


ハドソン夫人は、彼女の肩にそっと手を置いた。


エレノアは、膝の上で両手を重ねた。


「夫が殺されました」


部屋の空気が変わった。


ホームズは椅子に腰を下ろし、彼女を見つめた。


「お気の毒に。いつのことですか」


「三週間ほど前です」


「警察には?」


「もちろん届けました。しかし、警察にも説明できないことが多すぎるのです」


「説明できない?」


エレノアは一度、目を伏せた。


「村では、恐ろしいことが起きています」


「順を追ってお話しください」


「私はイギリスで生まれました。数年前、フランス人の夫と結婚し、ノルマンディーの小さな村へ移り住んだのです」


「ノルマンディーですか」


ワトソンが新聞を置いた。


「海峡を渡ってこられたのですね」


「はい。アヴランシュから内陸へ入ったところにある村です。晴れた日には、遠くにモン・サン=ミシェル湾を望むことができます。村の外れには古い森が広がっています」


「森ですか」


「ええ。昔から村人たちは、あまり森に近づきません。昼間でさえ、奥へ入る者は少ないのです」


「その森で何かが起きたのですね」


エレノアはうなずいた。


「最初は、家畜が襲われました。羊や山羊が、朝になると無残な姿で見つかったのです。やがて、人間まで襲われるようになりました」


「何人です?」


「夫を含めて、四人です」


ワトソンが眉をひそめた。


「四人も……」


「村人たちは、夜になると外へ出なくなりました。日が暮れる前に戸締まりをし、窓には厚い布を掛けています。子供たちは森の近くへ行くことを禁じられました」


「犯人は、獣だと考えられているのですか」


「村の人々は、そう信じています」


エレノアの声が、かすかに震えた。


「彼らは、その獣を『ライカン』と呼んでいます」


「ライカン?」


「狼男、あるいは人狼という意味で使われているようです。人間ではない。普通の犬でも狼でもない。そんな恐ろしい存在だと……」


ホームズは表情を変えなかった。


「実際に、その姿を見た者は?」


「何人かいます。ただ、話すことは人によって違います。大きな犬だったという人もいれば、狼のようだったという人もいます。後ろ脚で立ち上がったのを見たという者までいます」


「大きさは?」


「馬ほどもあった、と話す人もいます」


ワトソンがホームズを見た。


ホームズは、黙って続きを促した。


「そして、夜になると声が聞こえるのです」


「声?」


「森の方から、狼の遠吠えのような声が響きます」


エレノアは窓の外を見た。


「長く、低い声です。一度聞くと、忘れられません。しかも、一か所から聞こえるのではありません。森の奥から、別の場所へ、また別の場所へと、声が応えるように続くのです」


「複数の獣がいるということですか」


「分かりません。ただ、村人たちは、あれを聞いた翌朝には誰かが犠牲になると恐れています」


「実際に、そうなったことが?」


「何度もありました」


彼女は唇を結んだ。


「夫も、その声を恐れていました。日が暮れると、決して家の外へ出ようとはしなかったのです」


「それなのに、亡くなった晩は外へ出た」


「はい」


エレノアの指が、わずかに震えた。


「その日は夕方から様子がおかしかったのです。何かを気にしているようでした。私は理由を尋ねましたが、夫は何も答えてくれませんでした」


「そして?」


「夕暮れの頃、夫は家を出ました。森へ向かう道の方へ歩いていくのを見たのが、最後です」


「なぜ出ていったのか、分からないのですね」


「ええ。翌朝、森へ続く道の近くで見つかりました」


ワトソンは静かに尋ねた。


「ご遺体の状態は?」


エレノアは一瞬、言葉を失った。


「……恐ろしいものでした。警察は獣に襲われた可能性があると言いました。でも、私は納得できませんでした」


「何か不自然な点が?」


「夫は、あの森を恐れていました。何かに襲われると分かっていて、わざわざ出ていく人ではありません」


ホームズは机の上に置かれた書類へ目を向けた。


「警察は、ライカンの仕業だと?」


「そう考えているようです。しかし、誰も捕まえていません。森を捜索しても、確かな手掛かりは見つからないのです」


「あなた自身は、その獣を見たことがありますか」


「一度だけ」


エレノアの声が小さくなった。


「夫が亡くなる少し前の夜でした。窓の外に、大きな黒い影が立っていたのです」


「立っていた?」


「ええ。最初は人間かと思いました。でも、違いました。あまりにも大きかったのです」


「顔は見えましたか」


「暗くて、よく分かりません。ただ、目が光っていました」


「その後は?」


「影は、森の方へ消えていきました。足音は聞こえませんでした」


ホームズはしばらく黙っていた。


やがて、彼は静かに言った。


「私は怪物というものを信じていません」


エレノアの顔に、落胆の色が浮かんだ。


しかし、ホームズは続けた。


「ですが、あなたが見たものを、最初から否定するつもりもありません。人間が見たものには、必ず何らかの理由があります。暗闇が形を変えることもあれば、恐怖が記憶を変えることもある。あるいは、本当に巨大な獣がいるのかもしれません」


「調べてくださるのですか」


「もちろんです」


ホームズは立ち上がった。


「ただし、現地を見なければ何も分かりません。森も、村も、事件が起きた場所も、すべて自分の目で確かめる必要があります」


「私がご案内します。村のことは、私がよく知っています。どの道を通ればよいかも、森の入口がどこにあるかも」


「それは助かります」


ワトソンが立ち上がった。


「ホームズ、私も同行しよう。遺体の状態を確認できれば、医学的な見地から分かることもある」


「そうしてくれたまえ、ワトソン君。君の目が必要になるかもしれない」


エレノアは、二人を見つめた。


「ありがとうございます。もう、あの村には誰も安心して暮らせる場所がありません」


その言葉には、深い疲れと悲しみが込められていた。


ホームズは窓の外へ目を向けた。


煤煙に覆われたロンドンの街。


その向こうには、海峡がある。


海峡を越えた先には、ノルマンディーの小さな村。そして、夜になると遠吠えが響くという森が待っている。


「ワトソン君」


「何だね」


「荷造りを始めよう。フランスへ行く」


ワトソンはうなずいた。


「相手が人間であれ、獣であれ、調べてみる価値はあるな」


ホームズは、わずかに微笑んだ。


「そういうことだ。だが、ひとつ気になることがある」


「何が?」


「四人もの人間が死んでいる。それなのに、村人たちは獣の姿ばかりを語る。誰も、なぜその人々が襲われたのかを考えようとしない」


「獣が襲ったのなら、理由などないのでは?」


「本当に獣の仕業ならね」


ホームズは、机の上の地図を広げた。


「しかし、もしその背後に人間の意思があるのなら……話はまったく違ってくる」


窓の外で、馬車の車輪が石畳を鳴らした。


ロンドンの朝は、いつものように煤煙に包まれている。


だが、ホームズの目は、すでに海峡の向こうを見つめていた。


ノルマンディーの森。


夜の闇に響く、獣の遠吠え。


そして、村人たちが恐れるライカン。


その正体は、いったい何者なのか。


まだ何もわからなかった。

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