第二話 小さな事件
ロンドンの朝は、重たい煤煙に覆われていた。
工場の煙突から吐き出される黒い煙が、低い雲のように街の上へ広がっている。石炭を燃やす匂いが通りに漂い、建物の壁も窓も、長年の煤で黒ずんでいた。
朝になっても、街に明るさは戻らない。
それが、ロンドンの日常だった。
ベイカー街二二一Bの居間では、ホームズが窓辺に立ち、通りを眺めていた。
昨夜、彼は戻ってきた。
神田で過ごした時間は、夢だったのか、それとも現実だったのか。今となっては、簡単に説明できない。
だが、目の前にはロンドンの街がある。
そして、背後にはワトソンがいた。
「ホームズ、朝食を食べないのか?」
「あとでいい」
「君はいつもそう言う。考え事をしていると、食事を忘れる」
「食事を忘れているわけではない。今は、窓の外の方が興味深いのだ」
「工場の煙突か?」
「そうだ。あの煙突の数だけ、この街には働く人間がいる。だが、その煙の下で何が起きているかまでは、新聞に書かれない」
「朝から社会問題の研究か。君らしくないな」
ワトソンが笑った。
そのときだった。
玄関の扉が、勢いよく叩かれた。
続いて、階段を駆け上がる足音が聞こえてくる。
「ホームズさん!」
扉が開くなり、少年が顔を出した。
煤で汚れた帽子をかぶり、擦り切れた上着を着ている。年のころは十二、三歳ほどだろうか。
その後ろには、さらに二人の少年が立っていた。
「ウィギンズか」
ホームズが振り返った。
「お帰りなさい、ホームズさん!」
「君たちも相変わらず元気そうだな」
「そりゃあ、元気でなきゃ、ロンドンじゃ生きていけませんからね」
ウィギンズは、得意そうに胸を張った。
ベイカー街遊撃隊。
ロンドンの街角や市場、駅、波止場を歩き回り、人々の目に留まらない情報を集める少年たちだ。
ホームズは、彼らの働きを高く評価していた。
「ところで、今日は何の用だ?」
「ちょっとした事件がありましてね」
「事件?」
「はい。これが、どうにもおかしいんです」
ウィギンズは、後ろにいた少年を振り返った。
「話してみな」
少年は帽子を両手で握りしめ、少し緊張した様子で口を開いた。
「僕の知り合いの荷車屋が、荷物を盗まれたんです」
「何を盗まれた?」
「小さな木箱です。中には、銀の懐中時計が入っていたそうです」
「銀時計か。持ち主は?」
「時計屋の主人です。修理が終わった時計を、荷車屋が届ける途中だったんです」
「それで?」
「荷車を停めて、ほんの少し目を離した間に、木箱だけがなくなったそうです」
ホームズは、少年を見つめた。
「荷車ごとではなく、木箱だけか」
「そうです」
「荷車はどこに停めていた?」
「コヴェント・ガーデンの近くです」
ホームズは、窓辺から離れた。
「なるほど。話を続けたまえ」
「荷車屋は、近くにいた少年が盗んだと思っているんです。けれど、僕たちは違うと思っています」
「なぜだ?」
ウィギンズが答えた。
「その場所にいた子どもたちは、みんな荷車を見ていたんです。でも、木箱を持っていったところを見た者はいません」
「それだけで、盗んでいないと判断したのか?」
「いいえ。もう一つあります」
ウィギンズは、懐から小さな紙片を取り出した。
「これです」
ホームズは紙片を受け取った。
そこには、時計屋の店名と、荷物を届ける予定だった時刻が記されていた。
「これは誰が持っていた?」
「荷車屋です。時計屋から受け取った伝票の控えだそうです」
ホームズは、紙片を裏返した。
そして、わずかに眉を動かした。
「ワトソン」
「何だ?」
「帽子を取ってくれ。外へ出ることになりそうだ」
「もう事件を引き受けるのか?」
「まだ引き受けたとは言っていない。だが、確かめる価値はある」
*
コヴェント・ガーデンの市場は、朝から人で賑わっていた。
野菜を積んだ荷車が行き交い、商人たちの声が飛び交う。馬のいななきと車輪の音が重なり、街は活気に満ちていた。
ホームズとワトソンは、ウィギンズたちに案内され、荷車が停められていた場所へ向かった。
「ここです」
少年が指さした。
荷車屋の男は、近くの店先で待っていた。
「あなたが荷物をなくした方ですか?」
ワトソンが尋ねた。
「そうです。まったく、困ったことになりましたよ。時計屋には弁償しなければならないし、警察には相手にされないし」
「荷物を置いたのは、いつです?」
「ほんの数分です。荷車を停めて、店の主人に声をかけていたんです」
「木箱は、どこに置いていましたか?」
「荷車の上です。布をかけてありました」
ホームズは、荷車を一周した。
荷台の端に、布が引っかかった跡がある。
彼はそれを指先で確かめた。
「荷物を盗まれたと気づいたのは、いつです?」
「戻ってきたときです。布はそのままでしたが、木箱がなくなっていました」
「誰かを見かけませんでしたか?」
「子どもが二人ほど、近くにいました。だから、あの連中が怪しいと思ったんです」
ウィギンズが不満そうに口を開いた。
「僕たちは盗んでいませんよ」
「まあ、落ち着きたまえ」
ホームズが静かに制した。
彼は荷車の周囲を見回した。
地面には、馬の蹄の跡と、いくつもの靴跡が残っている。
しかし、荷車のすぐ脇には、不自然なほど何もなかった。
「妙だな」
「何がです、ホームズさん?」
ウィギンズが尋ねた。
「この荷車は、ここにどれくらい停まっていた?」
「十分ほどです」
「その間、誰かが荷台に手を伸ばせば、荷車屋は気づいたはずだ」
「でも、盗まれたんですよ」
「そうだ。だからこそ、考える必要がある」
ホームズは、荷台の布を持ち上げた。
その下には、木箱が置かれていたと思われる四角い跡が残っている。
「荷車屋さん。木箱の大きさは?」
「このくらいです」
男は両手で大きさを示した。
「重さは?」
「時計が入っているだけですから、たいしたことはありません」
ホームズは、少し考えた。
「ワトソン。君なら、どうする?」
「私か?」
「この木箱を盗むとしたら、どうやって持ち去る?」
「荷車屋が目を離した隙に、手に取って逃げるだろう」
「それが普通だ。だが、誰も持ち去るところを見ていない」
「では、どうしたんだ?」
ホームズは、荷車の車輪を指さした。
「箱は、最初から荷車の上にはなかったのかもしれない」
「何だって?」
「荷車屋さん。時計屋から荷物を受け取ったとき、木箱を自分で確認しましたか?」
「もちろんです。確かに受け取りました」
「そのとき、箱はどこにありました?」
「荷車の荷台です」
「本当に?」
「ええ。そうだったはずです」
ホームズは、伝票の紙片を取り出した。
「この伝票には、届ける予定の時刻が書かれている。しかし、受け取った時刻は記されていない」
「それが何か?」
「時計屋から荷物を受け取ったのは、いつです?」
「今朝です」
「何時ごろ?」
「八時前だったと思います」
ホームズは、荷車の上に目を向けた。
「ウィギンズ。君たちは、荷車がここへ来る前から見ていたのか?」
「いいえ。ここに停まってからです」
「そうか」
ホームズは荷車屋に向き直った。
「荷物を受け取ったとき、時計屋の主人は木箱をあなたに手渡しましたか?」
「いや、店の奥から持ってきて、荷車に載せてくれました」
「あなた自身は、木箱を手に取りましたか?」
男は言葉に詰まった。
「……いいえ」
「つまり、あなたは木箱の中身を確認していない」
「でも、時計屋の主人が渡したんです」
「それは分かっている。では、時計屋へ戻って確かめよう」
*
時計屋は、市場から少し離れた通りにあった。
店の主人は、ホームズたちの話を聞くと、困ったように額を押さえた。
「確かに、懐中時計は修理を終えていました。木箱に入れて、荷車に載せたのも私です」
「箱を載せたとき、中身を確認しましたか?」
ホームズが尋ねた。
「もちろんです。時計を入れました」
「その後、箱を閉じましたか?」
「ええ」
「封印は?」
「封印はしていません」
ホームズは、店の中を見回した。
作業台の上には、修理途中の時計や工具が並んでいる。
「荷車屋が来たとき、あなたは一人でしたか?」
「いえ、見習いがいました」
「彼を呼んでもらえますか」
しばらくして、若い見習いが現れた。
「君は、今朝、荷車屋が荷物を受け取りに来たとき、何をしていた?」
「作業台で時計を磨いていました」
「木箱を見たか?」
「はい。主人が荷車に載せるのを見ました」
「その前に、箱を開けたか?」
見習いは、少し迷った。
「……一度だけ」
時計屋の主人が振り返った。
「何だと?」
「主人が箱を閉じたあと、僕がもう一度開けたんです」
「なぜだ?」
「時計の蓋が、ちゃんと閉まっているか確認したかったんです」
ホームズは、見習いの顔を見つめた。
「そのとき、時計は箱の中にあったか?」
「ありました」
「間違いないか?」
「はい」
「では、君は箱を閉じたあと、どこへ置いた?」
「作業台の端です」
ホームズは、ゆっくりとうなずいた。
「それで分かった」
「何が分かったんです?」
ワトソンが尋ねた。
「時計は、荷車に載せられる前に、すでに別の場所へ移されていた可能性がある」
「しかし、見習いは箱の中に時計があったと言っている」
「そうだ。だが、彼が見たのは、時計を箱に入れた瞬間だ。荷車に載せたとき、箱の中に時計があったかどうかまでは確認していない」
ホームズは、見習いに向き直った。
「君は、箱を作業台の端に置いたあと、何をした?」
「別の時計を磨きました」
「その間、誰かが作業台に近づいたか?」
見習いは、はっとしたように顔を上げた。
「そういえば……店の裏口から、配達人が来ました」
「どんな男だった?」
「いつもの配達人です。時計の部品を届けに来たんです」
「彼は、作業台の近くを通ったか?」
「はい」
ホームズは、時計屋の主人を見た。
「配達人の名前と、届けた品物を教えてください」
*
その日の午後、ホームズたちは配達人を見つけた。
彼は、近くの倉庫で荷物を整理していた。
ホームズが事情を尋ねると、男は最初、何も知らないと答えた。
しかし、見習いの証言と、配達人が店を出た時刻を確かめると、とうとう観念した。
彼は、作業台に置かれた木箱を見つけ、時計だけを抜き取っていたのだった。
箱は空のまま荷車に載せられた。
荷車屋が盗難に気づいたときには、時計はすでに男の手を離れ、別の場所に隠されていた。
時計は無事に見つかった。
荷車屋は、少年たちに何度も頭を下げた。
「疑って悪かった。君たちが盗んだんじゃなかったんだな」
「最初からそう言っていたでしょう」
ウィギンズは、少し誇らしげに答えた。
ホームズは、その様子を見て微笑んだ。
「よくやったな、ウィギンズ」
「へへ。ホームズさんに褒められると、うれしいですね」
「君たちの目は、警察の目よりもよく働くことがある」
「じゃあ、また仕事をくださいよ」
「必要になったら頼む」
少年たちは、顔を見合わせて笑った。
*
夕方、ベイカー街二二一B。
ホームズとワトソンは、暖炉の前に座っていた。
「小さな事件だったな」
ワトソンが言った。
「小さな事件ほど、見落とされるものがある」
「君らしい答えだ」
「それに、少年たちの働きは見事だった」
「彼らをずいぶん信頼しているんだな」
「彼らは、街の人間が見ようとしないものを見ている。誰がどこへ行き、何を運び、どんな顔をしていたか。大人たちが気にも留めないことを、彼らは覚えている」
「なるほど。彼らの目がなければ、今日の事件も解けなかったかもしれない」
ホームズは、窓の外に目を向けた。
ロンドンの街には、まだ煤煙が漂っている。
その下では、無数の人々が暮らしている。
名もない少年たちも、商人も、職人も、貧しい者も、裕福な者も。
誰もが、自分の一日を生きている。
「ホームズ」
「何だ、ワトソン」
「君が戻ってきてから、まだ一日も経っていないのに、もう事件を解決したな」
「事件の方が、私を待っていたのだろう」
「そういうことにしておこう」
二人は笑った。
そのとき、階下からハドソン夫人の声がした。
「ホームズさん、お客様がお見えです!」
ホームズとワトソンは顔を見合わせた。
「今度は何だろうな」
ワトソンが立ち上がる。
ホームズは、椅子からゆっくりと腰を上げた。
「さあ、聞いてみようじゃないか」




