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小室泰六=SHERLOCK『裏側の正義と、獣の影』La Ligne de Rose(ラ・リーニュ・ド・ローズ)編  作者: S・C・G


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第一話 アヘン窟のホームズ 改訂版



 最初に感じたのは、ひどく重たい頭痛だった。


 次に、鼻をつく甘ったるい煙の匂い。


 そして、どこか遠くから聞こえてくる、聞き慣れない言葉のざわめきだった。


「ホームズ! ホームズ!」


 誰かが私の肩を揺すっている。


 私は、ゆっくりと目を開いた。


 薄暗い部屋だった。


 天井には煤けた染みが広がり、壁際には見知らぬ男たちが、力なく横たわっている。窓は閉ざされ、空気は淀んでいた。


 ここは、どこだ?


 私は椅子とも寝台ともつかない場所に身体を預けていた。


 目の前には、髭をたくわえた男がいる。


 その顔を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。


 ジョン・ワトソン。


 間違いない。


 彼は私の顔を覗き込んでいた。


「ようやく目を覚ましたな。まったく、君という男は……」


 ワトソンは呆れたように首を振った。


 そして、私の肩に手を置くと、こう言った。


「探したぞ、ホームズ。君を、頼って、フランスから、依頼人が、来ているんだ」


 ホームズ。


 そう呼ばれた。


 私は周囲を見回した。


 煙の立ちこめる部屋。薄汚れた壁。横たわる人々。そして、目の前にいるワトソン。


 ここはロンドンだ。


 しかも、どうやら私は、あのシャーロック・ホームズとして、ここにいるらしい。


「ワトソン……君なのか?」


「ほかに誰がいる?」


「いや、そうではない。少しばかり、頭が混乱している」


「それは見れば分かる。こんな場所で眠り込むとは、君らしくもない」


 ワトソンは、私の腕を取って立ち上がらせた。


 足元が少しふらつく。


 私は壁に手をつき、どうにか身体を支えた。


 そのとき、ふと、自分の服装に気がついた。


 着ているのは、見慣れた日本の衣服ではない。


 ロンドンの街を歩く紳士の装いだった。


 私は、東京・神田で眠りについたはずだった。


 机に向かい、本を閉じ、椅子にもたれて目を閉じた。


 それなのに、今はロンドンにいる。


 以前にも、同じようなことがあった。


 神田で過ごしていたはずの私が、眠りから覚めると、シャーロック・ホームズの世界にいた。


 そして今、また同じことが起きた。


 ただ、今回は少し違う気がする。


 私がロンドンに戻ってきたというだけではない。


 ホームズ自身もまた、神田で過ごした時間を経て、ここへ戻ってきたような、不思議な感覚があった。


「どうした、ホームズ。まだ具合が悪いのか?」


「いや、大丈夫だ。少し考え事をしていただけだ」


「君の考え事は、いつも人を心配させる」


 ワトソンは苦笑した。


 私は彼の後に続き、アヘン窟を出た。


     *


 ロンドンの空は、どんよりと曇っていた。


 通りには馬車が行き交い、石畳には雨の名残が残っている。


 湿った空気の中に、石炭の煙と馬の匂いが混じっていた。


 私は立ち止まり、街を見渡した。


 懐かしい。


 そう思った。


 神田の町並みとはまるで違う。人々の服装も、建物も、街の音も違う。


 けれど、ここには確かに、帰ってきたという感覚があった。


「久しぶりだな、ホームズ」


 ワトソンが言った。


「何がだ?」


「ロンドンの街だよ。君はしばらく姿を消していたからな」


「そうか……」


「まったく、行き先も告げずにいなくなる。君の悪い癖だ」


 私は返事に困った。


 神田にいたことを説明しても、ワトソンには信じてもらえないだろう。


 いや、説明したところで、私自身にも十分に理解できているわけではない。


 ただ、一つだけ確かなことがある。


 私は、再びこの街に立っている。


「ワトソン」


「何だ?」


「ベイカー街へ戻ろう」


「もちろんだ。そのために迎えに来たんだからな」


 ワトソンは歩き始めた。


 私はその後を追った。


     *


 ベイカー街221B。


 その扉を開けたとき、私は思わず立ち止まった。


 階段の手すりも、壁に掛けられた絵も、見慣れた室内の調度品も、以前と変わらない。


 暖炉には火が入り、部屋には紅茶の香りが漂っていた。


「まあ、ホームズさん!」


 奥から顔を出したのは、ハドソン夫人だった。


「お帰りなさい。ずいぶん心配しましたよ」


「ただいま、ハドソン夫人」


 口にした言葉は、自分でも驚くほど自然だった。


 夫人は、ほっとしたように微笑んだ。


「ワトソン先生から、ようやく見つかったと聞きました。まったく、あなたという人は、いつも人騒がせなんですから」


「申し訳ありません」


「さあ、まずはお茶を。今日はゆっくり休んでくださいね」


 そう言って、ハドソン夫人は紅茶を用意してくれた。


 私は暖炉の前に立ち、部屋を見渡した。


 ここは、確かに私の知っている場所だった。


 神田で暮らしている間にも、時折この部屋のことを思い出したような気がする。


 暖炉の火。


 机の上に置かれた書類。


 窓の外を行き交う馬車。


 そして、向かいの椅子に座るワトソン。


 どれも、懐かしかった。


「ホームズ、紅茶が冷めるぞ」


「ああ、ありがとう」


 私はカップを手に取った。


「ところで、ワトソン」


「何だ?」


「私がいない間、何か変わったことはあったか?」


「変わったことか。ロンドンでは毎日のように事件が起きているよ。だが、君がいなければ、私にできることにも限りがある」


「君なら、十分に解決できる事件もあっただろう」


「そういう問題ではないさ」


 ワトソンは紅茶を口に運んだ。


「君がいないと、どうにも調子が出ない」


「それは困ったことだな」


「まったくだ」


 二人は笑った。


 その笑い声が、部屋に静かに広がった。


 しばらくの間、私たちは何も話さなかった。


 窓の外では、馬車の車輪が石畳を叩いている。


 遠くで人々の声が聞こえた。


 ロンドンの音だ。


 私はカップを置いた。


「ワトソン」


「何だ?」


「神田という町を知っているか?」


「神田?」


「日本の東京にある町だ」


「いや、詳しくは知らないな」


「そうか」


「君がそこへ行っていたのか?」


「……そうだな。少しばかり、そこで暮らしていたような気がする」


 ワトソンは不思議そうな顔をした。


「ずいぶん遠いところだな」


「そうだ。ずいぶん遠かった」


「何か面白いものでもあったか?」


「本屋があり、食べ物屋があり、人々が忙しそうに行き交っていた。特別なことはない、ごく普通の町だ」


「それが面白いのか?」


「普通の暮らしというものは、案外、興味深いものだよ」


 私はそう答えた。


 ホームズとして過ごしていると、日常はいつも事件の前後にある。


 事件が起き、推理し、解決する。


 だが、神田で過ごした時間には、事件とは関係のない日々があった。


 そのことが、今になって妙に懐かしく思えた。


「君は変わったな、ホームズ」


 ワトソンが言った。


「そうか?」


「以前より、少し穏やかになった気がする」


「それは、神田での暮らしのせいかもしれない」


「また、その神田か」


 ワトソンは笑った。


「いつか、君の話をもっと聞かせてもらおう」


「そうしよう」


 私は窓の外へ目を向けた。


 ロンドンの空は、相変わらず曇っていた。


 けれど、ここに戻ってこられたことが、少し嬉しかった。


     *


 その夜。


 私はベイカー街221Bの自室に戻った。


 机の上には、以前と変わらぬ書類が積まれている。


 壁際には、使い慣れた道具が並んでいた。


 私は窓を開け、夜の空気を吸い込んだ。


 ロンドンの夜は、神田とは違う。


 街の匂いも、風の冷たさも、聞こえてくる音も違う。


 それでも、私は帰ってきたのだ。


 小室泰六として過ごした時間を胸に抱きながら、再びシャーロック・ホームズとして、この街に立っている。


 明日は何が起こるだろう。


 ワトソンと一緒に、また何か事件を追うことになるのだろうか。


 私は机の上の書類を一枚手に取った。


 そこには、ロンドンの新聞記事が挟まれていた。


 しかし、今夜は読む気になれなかった。


 久しぶりに戻ってきた自分の部屋で、ゆっくりと過ごしたかった。


 私は書類を元の場所へ戻し、椅子に腰を下ろした。


 暖炉の火が、静かに揺れている。


 その火を眺めながら、私は思った。


 神田で過ごした日々も、決して夢ではなかったのだろう。


 そして、このロンドンでの暮らしも、また私の時間なのだ。


 明日になれば、きっと何かが始まる。


 今夜は、ただ帰ってきたことを喜ぼう。


 私は、静かに目を閉じた。


 ベイカー街221Bの夜は、穏やかに更けていった。

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