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小室泰六=SHERLOCK『裏側の正義と、獣の影』La Ligne de Rose(ラ・リーニュ・ド・ローズ)編  作者: S・C・G


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第九話 森の秘密



 村を出た三人は、古い地図に描かれた道をたどっていた。


空は晴れている。


雨上がりの陽光が、畑や石垣を照らしていた。


しかし、森の入口に近づくにつれて、周囲の景色は少しずつ変わっていった。


木々が高くなり、枝が頭上を覆い始める。道の両側には湿った草が茂り、地面には昨夜の雨を吸った落ち葉が重なっていた。


森の中から、白い霧が流れ出している。


「霧が出ていますね」


ワトソンが言った。


「昨夜の雨で、地面が冷えているのでしょう」


エレノアが答えた。


「この森では、晴れた日でも霧が残ることがあります。特に、木々が密集している場所では」


ホームズは森の入口に立ち、しばらく中を見つめていた。


「なるほど。太陽は出ているのに、森の中は暗い」


「入るのですか?」


エレノアが尋ねた。


「そのために来たのです」


ホームズは地図を取り出した。


教会から森へと伸びる赤い線。


その途中に描かれた、十字架の印。


「この道を進めばよいはずです」


三人は森へ入った。


一歩足を踏み入れると、外の明るさが遠のいた。


木々の枝葉が空を覆い、昼間だというのに薄暗い。幹の間を白い霧がゆっくりと流れ、少し先の景色さえ、ぼんやりと霞ませていた。


足元には湿った土と落ち葉。


踏みしめるたびに、鈍い音がする。


ワトソンは周囲を見回した。


「妙な場所だな。森というのは、もっと鳥の声が聞こえるものだと思っていた」


「聞こえないわけではありませんよ」


エレノアが言った。


「ただ、今日は静かです」


そのとき、遠くで鳥が一声鳴いた。


しかし、その声はすぐに途切れた。


ワトソンが振り返る。


「今のは?」


「鳥でしょう」


ホームズは前を向いたまま答えた。


「ただし、鳥が鳴いたことと、森が安全であることは別の話だ」


「君は、いつもそういう言い方をするな」


「事実を混同しないためだよ、ワトソン」


ホームズは足を止めた。


道の端に、折れた小枝が落ちている。


その先には、泥の上に残された跡があった。


「足跡ですか?」


エレノアが尋ねた。


ホームズはしゃがみ込んだ。


「そうだ。人間のものだね」


「こんなところへ、誰かが来たのでしょうか」


「少なくとも、最近ここを通った者がいる」


ホームズは足跡の周囲を調べた。


雨で地面は柔らかくなっている。靴底の模様が、はっきり残っていた。


「大きな靴ではない。こちらは少し深い。体重のかけ方にも違いがある」


ワトソンが覗き込んだ。


「複数の人間が通ったのか?」


「その可能性はある。しかし、今は断定できない」


ホームズは立ち上がった。


「先へ進もう。十字架が近いはずだ」


霧は、さらに濃くなっていた。


道は次第に細くなり、両側から伸びた枝が、三人の行く手を覆うように垂れ下がっている。


やがて、エレノアが立ち止まった。


「見てください」


霧の向こうに、黒い影が見えた。


近づくと、それは古い石造りの十字架だった。


苔に覆われた台座の上に、長い年月を経た十字架が立っている。


表面は風雨に削られ、ところどころ欠けていた。


周囲には雑草が伸び、根元には枯れ葉が積もっている。


「地図にあった場所だな」


ワトソンが言った。


ホームズは地図を広げ、十字架と周囲の地形を見比べた。


「間違いない。ここが、赤い線の途中に記された場所だ」


彼は十字架の周囲を歩いた。


正面には、古い十字架の形。


台座の側面には、何かを彫り込んだ跡があった。


ホームズは手袋を外し、表面の苔を慎重に払った。


そこに現れたのは、薔薇の花を思わせる彫刻だった。


花弁が幾重にも重なり、中央には小さな円が刻まれている。


「これが、地図にあった印か」


ワトソンが言った。


「そうだろうね」


ホームズは地図の端に描かれた小さな薔薇の印と、石の彫刻を見比べた。


形は完全には一致しない。


しかし、同じ意匠をもとに描かれたと考えるのが自然だった。


「La Ligne de Rose……薔薇の線」


エレノアが小さく呟いた。


「この十字架も、その線の一部なのでしょうか」


「少なくとも、地図に描かれた場所と一致している」


ホームズは十字架の裏側へ回った。


そこには、文字が刻まれていた。


長い年月のため、すべてを読むことはできない。


ホームズは指先で表面をなぞった。


「フランス語だ」


ワトソンが尋ねた。


「何と書いてある?」


ホームズは少し顔を近づけた。


「Souvenez-vous」


「スヴヌヴ?」


「『忘れないでください』という意味だ」


エレノアの表情が変わった。


「忘れないで……」


「その下にも文字があったようだが、削れている。誰かが意図的に消したのか、自然に失われたのかは分からない」


ホームズは十字架を見上げた。


「宗教的な記念碑かもしれない。だが、なぜ薔薇の印が刻まれ、なぜ忘れないようにと記されているのか」


ワトソンは周囲を見回した。


「ここで何かが起きたということか?」


「その可能性はある」


ホームズは台座の根元に目を向けた。


苔と落ち葉の間に、土がむき出しになった場所があった。


しゃがみ込むと、そこには新しい掘り返しの跡が残っている。


「これは最近のものだ」


「誰かが掘ったのか?」


「そう考えるのが自然だね」


ホームズは、土の上に残った細かな跡を調べた。


落ち葉は周囲と違う方向に重なっている。石の台座の隙間にも、新しい土が入り込んでいた。


「何かを埋めたのか、それとも取り出したのか」


ワトソンが言った。


「どちらもあり得る。だが、ここを調べるには道具が必要だ。今は無理に掘り返すべきではない」


エレノアは十字架を見つめていた。


「村の人たちは、ここへ来てはいけないと言っていました」


「誰が、そう言ったのです?」


「はっきりとは覚えていません。子どもの頃、森の奥へ行こうとしたとき、近所の人に止められたことがあります」


「理由は?」


「危険だから、と。それ以上は教えてくれませんでした」


ホームズは彼女を見た。


「そのとき、誰かがこの十字架について話していましたか?」


「いいえ。私は、ただ森へ行ってはいけないのだと思っていました」


ホームズは頷いた。


「分かりました」


そのときだった。


森の奥から、低い音が聞こえた。


最初は風の音かと思った。


しかし、それは違った。


長く、低く、腹の底に響くような声。


遠吠えだった。


ワトソンが振り返った。


「今のは……」


エレノアの顔が青ざめた。


「ライカン……」


遠吠えは、森の奥へ消えていった。


三人はしばらく動かなかった。


すると、今度は別の方向から、同じような声が聞こえた。


まるで、最初の声に答えるように。


「一頭ではないのか?」


ワトソンが低い声で言った。


ホームズは耳を澄ませていた。


「声の方向が違う」


「複数いるということか?」


「そうとは限らない。森の中では、音が反響することもある」


ホームズは霧の向こうを見つめた。


「だが、少なくとも、誰かがこの音を利用している可能性はある」


「誰かが?」


エレノアが尋ねた。


「獣の声を聞かせることで、人々を森から遠ざけることができる」


ホームズは十字架の台座をもう一度見た。


「この場所を誰にも調べさせたくない者がいるのかもしれない」


ワトソンは、ホームズの視線の先を追った。


そのとき、霧の中で何かが動いた。


三人の視線が、一斉にそちらへ向いた。


大きな黒い影。


木々の間に、四本の脚で立っているように見えた。


その背丈は、普通の犬よりもはるかに大きい。


霧の向こうで、二つの目が光った。


「ホームズ……!」


ワトソンが声を上げた。


黒い影は、じっとこちらを見ていた。


一瞬、動きを止める。


そして、次の瞬間には、木々の向こうへ消えていた。


ワトソンが一歩踏み出そうとした。


「待て!」


ホームズが制した。


「追うな。足元を見ろ。ここは湿地に近い。無闇に走れば危険だ」


ワトソンは足を止めた。


「しかし、今のは確かに……」


「見たものを、見たままに記録するんだ。犬のような大きな影。目が光った。霧の中へ消えた。それ以上のことは、まだ分からない」


ホームズは静かに言った。


「怪物だったと決めるのは、証拠を集めてからでいい」


エレノアは、十字架の方を振り返った。


「ここに、何かがあるのでしょうか」


ホームズは答えなかった。


彼は十字架の彫刻をもう一度見つめていた。


薔薇の花。


そして、消えかけた文字。


 Souvenez-vous―忘れないでください。


それは誰に向けられた言葉なのか。


誰が、何を忘れてはならないと言ったのか。


ホームズは地図を折り畳んだ。


「戻ろう。これ以上、霧が濃くなる前に」


三人は来た道を引き返した。


森の入口に近づくと、少しずつ光が戻ってきた。


振り返ると、十字架はすでに霧の中に沈んでいた。


まるで、最初からそこには何もなかったかのように。


ワトソンが呟いた。


「ホームズ。あの森には、何かがいる」


「そうかもしれない」


「君は、怖くないのか?」


ホームズは歩きながら答えた。


「恐怖は、観察を妨げることがある。だから、恐怖を感じないようにするのではなく、恐怖を感じている自分も観察するのさ」


エレノアは、森を振り返った。


「忘れないでください……」


十字架に刻まれていた言葉が、彼女の頭から離れなかった。


森の奥では、また風が吹いていた。


そして、誰にも聞こえないほど遠くで、何かが低く唸った。


 薔薇の線は、十字架へと続いていた。


しかし、その先に何があるのか。


村の人々は、まだ誰も語ろうとしなかった。

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