第十話 十字架の下に残されたもの
森の中には、まだ朝の霧が残っていた。
昨夜の雨を吸い込んだ落ち葉は、靴の下で湿った音を立てる。高く伸びた木々の枝が空を覆い、差し込む陽光も、地面までは十分に届かない。
ホームズは、古い石の十字架の前で立ち止まった。
「ワトソン、昨日の場所を覚えているかね」
「十字架の裏に刻まれた言葉だろう。Souvenez-vous――忘れないでください」
「そうだ。そして、もう一つある」
ホームズは十字架の台座に目を向けた。
その根元には、周囲の土とは違う色をした場所があった。落ち葉が不自然に寄せられ、土がわずかに盛り上がっている。
「ここだ。誰かが掘り返した跡がある」
ワトソンが膝をついた。
「雨でかなり流されているな」
「表面はね。しかし、土の中まではそう簡単に流されない」
ホームズは手袋をはめ、周囲の落ち葉を慎重に取り除いた。
エレノアは少し離れた場所で、森の奥を気にしていた。
「この場所には、昔から近づいてはいけないと言われていました」
「誰に言われたのですか?」
「村の大人たちです。子供の頃、森へ入ろうとすると、必ず止められました。でも、理由は教えてくれませんでした」
「理由を知らないまま、禁止だけを守ってきたわけですね」
ホームズは土から目を離さずに答えた。
「人間は、ときどき理由を忘れても、決まりだけは守り続けるものです」
やがて、ホームズの指先が小さな金属の箱に触れた。
「ワトソン、少し手を貸してくれ」
二人で周囲の土を崩さないように取り除くと、手のひらに収まるほどの古い箱が現れた。
表面は黒ずみ、蓋の端には錆が浮いている。
「誰かが、ここに隠したのだろうか」
ワトソンが尋ねた。
「少なくとも、偶然ここに落ちたとは考えにくい。十字架の台座のすぐ下だ。隠す場所として選ばれた可能性が高い」
ホームズは箱を開いた。
中には、色あせた布切れと、小さな銀色の指ぬきが入っていた。
布の端には、赤い糸で小さな薔薇の刺繍が施されている。
エレノアが息をのんだ。
「薔薇……」
「地図に描かれていた印と同じですね」
ホームズは布を持ち上げず、箱の中を観察した。
「この指ぬきは、裁縫に使うものです。特別な品ではない。しかし、持ち主にとっては大切なものだったのかもしれません」
「なぜ、こんな場所に?」
ワトソンの問いに、ホームズはすぐには答えなかった。
「それを知るには、まだ情報が足りない」
彼は箱を閉じ、布と指ぬきを慎重に戻した。
「この箱がいつ埋められたのか。そして、誰が埋めたのか。それを調べる必要がある」
そのとき、森の奥で小枝の折れる音がした。
三人が振り返る。
木々の間に、人影があった。
遠く、霧の残る木立の向こうに、誰かが立っている。
「誰だ!」
ワトソンが声を上げた。
人影は動かなかった。
ホームズは目を細めた。
「追うな、ワトソン」
「なぜだ?」
「こちらを見ている。私たちが何を見つけたのか、確かめに来たのかもしれない」
ホームズが一歩踏み出した瞬間、人影は木々の向こうへ消えた。
ワトソンが後を追おうとしたが、ホームズは手で制した。
「森の中で、相手の姿を見失うのは得策ではない。今は箱の方が重要だ」
エレノアは不安そうに、消えた人影の方を見つめていた。
「村の人でしょうか」
「その可能性はある。しかし、今の段階では分からない」
ホームズは箱を手にした。
「一つだけ、確かなことがある」
「何だね、ホームズ?」
「この十字架は、ただの記念碑ではない。誰かが、何かを忘れないために、ここへ品物を残したのだ」
三人は森を出ることにした。
村へ戻る道すがら、エレノアは何度も後ろを振り返った。
森は静かだった。
鳥の声も、風の音も聞こえる。
それなのに、誰かに見られているような気がしてならなかった。
村の入り口に差しかかったとき、ホームズが足を止めた。
「エレノアさん」
「はい?」
「この村に、昔から裁縫を仕事にしていた女性はいませんでしたか?」
彼女は少し考えた。
「分かりません。私は結婚してから、この村に来たのです。古いことは、あまり知りません」
「そうでしたね」
ホームズはそれ以上尋ねなかった。
彼は、知らないことを知っているふりはしない。
そして、知らないことを一つずつ確かめていく。
手の中の小さな箱には、薔薇の刺繍が残されていた。
誰かが大切にしていたもの。
誰かが忘れたくなかったもの。
その持ち主は、今もこの村にいるのだろうか。
それとも――。
ホームズは、村の家並みを見つめた。
「ワトソン。今度は、村の人々に話を聞こう。箱の持ち主を知っている者がいるはずだ」
森の奥では、霧がゆっくりと流れていた。




