第十一話 ここは、どこだ?!
翌朝。
ノルマンディーの村には、昨夜の雨の名残が残っていた。
宿屋の窓から差し込む光は明るかったが、森の奥には、まだ白い霧が漂っている。
ホームズは朝食を終えると、上着を手に取った。
「ワトソン、もう一度、森へ行こう」
「昨日見つけた箱のことかね?」
「それもある。だが、あの箱を誰かが見に来た理由も調べたい」
ワトソンは帽子を手にした。
「エレノアさんは?」
「彼女には、村で話を聞いてもらおう。私たちが森へ入ることを、あまり歓迎していない村人もいるようだからね」
二人は宿を出た。
村の通りを抜け、森へ続く道を歩く。
昨夜の雨でぬかるんだ道には、いくつもの足跡が残っていた。
「ホームズ、ここを見てくれ」
ワトソンが道端を指した。
泥の上に、大きな犬の足跡が残っている。
「昨日のものか?」
「断定はできない。雨が降った後だから、比較的新しいものだろう」
ホームズはしゃがみ込み、足跡を観察した。
「かなり大きいな」
「村人が話していた獣かもしれない」
「かもしれない、というだけだ。足跡だけでライカンと決めつけるわけにはいかない」
ホームズは立ち上がった。
「行こう。昨日の十字架の周辺をもう一度調べる」
*
森の中は、昼間だというのに薄暗かった。
高い木々が枝を広げ、湿った葉の間から、かすかな光が差し込んでいる。
ホームズは十字架の場所へ向かいながら、周囲を観察していた。
「ワトソン、昨日の箱を覚えているかね」
「薔薇の刺繍がある布と、指ぬきだろう」
「そうだ。あれは誰かにとって、大切な品物だった可能性がある」
「持ち主を探すつもりか」
「まずは、誰があの場所を知っているのかを調べたい」
二人が十字架の近くまで来た、そのときだった。
森の奥で、低い唸り声が聞こえた。
ワトソンが立ち止まった。
「ホームズ……」
「聞こえたよ」
もう一度、唸り声がした。
今度は、さっきより近い。
木々の間に、黒い影が動いた。
大きい。
普通の犬とは思えないほどの体躯だった。
「まさか……」
ワトソンが息をのんだ。
影は、ゆっくりとこちらを向いた。
暗い毛並み。
大きな頭。
そして、霧の中で光る二つの目。
「ライカンだ!」
ワトソンが叫んだ。
次の瞬間、獣が地面を蹴った。
「走れ、ワトソン!」
ホームズは反射的に駆け出した。
濡れた落ち葉が足元で滑る。
背後から、重い足音が迫ってくる。
木々の間を抜け、倒れた枝を飛び越えようとした。
しかし、足元の木の根に靴が引っかかった。
「しまった!」
ホームズの身体が大きく傾いた。
目の前に、太い幹が迫る。
ゴンッ!
額に強い衝撃が走った。
視界が揺れ、音が遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは、獣の唸り声だった。
そして、何も見えなくなった。
*
「小室さん!」
誰かが呼んでいる。
「小室さん、しっかりしてください!」
肩を揺すられ、小室泰六はゆっくりと目を開けた。
目の前に、見慣れた顔があった。
「……和田くん?」
「ようやく目を覚ましましたね。大丈夫ですか?」
小室は額に手を当てた。
「痛い……」
「木に頭をぶつけたんですよ。まったく、何をしていたんですか」
「木?」
小室は周囲を見回した。
石造りの建物でもなければ、深い森でもない。
見慣れた町並み。
行き交う人力車。
商店から聞こえる店員の声。
そして、鼻をくすぐるのは、どこか懐かしい町の匂いだった。
小室は勢いよく起き上がった。
「和田くん、ここは、どこだ!?」
和田は少し呆れた顔をした。
「どこって……神田ですよ、小室さん」
「神田?」
「ええ。東京の神田です」
小室は、もう一度周囲を見渡した。
「ロンドンではないのか?」
「ロンドン?」
和田は眉を寄せた。
「小室さん、また妙な夢でも見ていたんですか?」
「夢……」
小室は額を押さえた。
霧の森。
古い石の十字架。
薔薇の刺繍。
そして、巨大な黒い獣。
どれも、妙にはっきりと覚えている。
「ライカンは?」
「ライカン?」
「大きな犬だ。いや、獣だ。森の中にいたんだ」
「犬なら、町にもいますよ」
「そういう話ではない!」
小室は立ち上がった。
和田は、そんな小室を見ながら小さくため息をついた。
「とにかく、事務所へ戻りましょう。小室さんに聞いていただきたい話があるんです」
「話?」
「依頼ですよ」
小室の表情が変わった。
「依頼人が来ているのか?」
「ええ。今朝から待っていらっしゃいます」
「なぜ、もっと早く言わないんだ!」
「何度も申し上げました。小室さんが気絶していたんです」
和田は、あきれながらも小室の腕を支えた。
*
事務所に戻ると、机の上には一通の封書が置かれていた。
その横には、来客用の湯呑みが二つ。
「お客様は?」
「少し前に、奥の部屋でお待ちいただくようお願いしました」
「そうか」
小室は椅子に腰を下ろし、封書を手に取った。
差出人の名前はない。
封筒の表には、丁寧な筆跡でこう書かれていた。
『小室泰六様』
「和田くん、これは?」
「依頼人が持参されたものです。どうしても、小室さんに直接見ていただきたいと」
小室は封を切った。
中には、一枚の便箋が入っていた。
そこには、短い文章が記されている。
『亡くなった父から、手紙が届きました。
しかし、その手紙には、父が亡くなる前には誰も知らなかったはずのことが書かれているのです。
どうか、その理由を調べていただきたいのです』
小室は便箋を机の上に置いた。
「亡くなった父親から、手紙か」
「ええ。依頼人のお話では、差出人の筆跡も、父親のものに間違いないそうです」
「郵便で届いたのか?」
「はい。消印もあります」
小室は、便箋をもう一度手に取った。
「この手紙を受け取ったのは、いつですか?」
「昨日です」
「差出人の住所は?」
「ありませんでした」
小室は、便箋を開いた。
そこには、女性の名前と、短い言葉が書かれていた。
『蔵を開けてはならない』
小室は顔を上げた。
「蔵?」
女性は、静かにうなずいた。
「父が亡くなる前、家に古い蔵がありました。父は、その蔵に近づくことを、私にも家族にも禁じていたのです」
「今も、その蔵は?」
「あります。でも、鍵は父が持ったままでした。父の死後、探しても見つかりませんでした」
小室は、手紙を机に置いた。
「三年前に亡くなった父親が、昨日、娘さんに手紙を送ってきた。そして、その内容は、蔵を開けるな、という警告ですか」
「はい」
「分かりました」
小室は、和田を見た。
「和田くん」
「はい」
「まずは、この手紙を詳しく調べよう。それから、その蔵を見せてもらう」
和田はうなずいた。
「分かりました」
小室は、もう一度、手紙の文字を見つめた。
ロンドンの霧は、まだ頭の中に残っている。
しかし、目の前にあるのは、明治の神田で起きた新しい謎だった。
「さて、和田くん」
「何でしょう?」
「今度は、木に頭をぶつけずに済む事件だといいのだがね」
「それは、事件次第でしょう」
和田は笑った。
小室も、ようやく笑顔を見せた。
神田の町には、今日も人々の暮らしがある。
そして、その日常の裏側には、まだ誰も知らない謎が隠されているのだった。




