第十二話 しだれ桜
春の陽射しが、神田の町に降り注いでいた。
冬の寒さが遠のき、通りには新しい季節の匂いが漂っている。
小室泰六は、机の上に置かれた一通の手紙を眺めていた。
三年前に亡くなった父親から届いたという、奇妙な手紙である。
差出人の名前はない。
消印は東京。
そして、便箋には短い一文だけが記されていた。
『蔵を開けてはならない』
「小室さん、どう思います?」
向かいに座る和田進一が尋ねた。
「どう思うも何も、まずは差出人を調べることだね」
「しかし、依頼人のお父さんは三年前に亡くなっているんですよ」
「そうだね」
小室は手紙を裏返した。
「亡くなった人間が手紙を出すことはできない。だが、亡くなった人間の名前を使って手紙を出す人間はいる」
「つまり、誰かが父親の筆跡を真似たということですか」
「その可能性はある。だが、まだ決めつけてはいけない」
小室は手紙を封筒に戻した。
「行こうか、和田くん」
「どちらへ?」
「白山だよ。依頼人の屋敷を見せてもらおう」
二人は事務所を出た。
***
白山へ向かう道すがら、春の景色が広がっていた。
道端には草花が芽吹き、木々の枝には若葉が見え始めている。
和田は歩きながら、ふと立ち止まった。
「小室さん」
「どうした?」
「六義園の枝垂れ桜が、ちょうど見頃だそうですよ」
「そうか」
「帰りに寄ってみませんか?」
小室は和田の顔を見た。
「事件の調査が終わったらね」
「それは楽しみです」
「君は、事件より桜のほうが気になるのかい?」
「どちらもですよ」
和田は笑った。
小室も、わずかに口元を緩めた。
***
依頼人の屋敷は、白山の静かな一角にあった。
古い門をくぐると、広い庭が見える。
その庭の中央に、大きな枝垂れ桜が立っていた。
長く伸びた枝から、薄紅色の花が幾重にも垂れ下がっている。
風が吹くたび、花びらが静かに揺れた。
「見事ですね」
和田が思わず声を上げた。
「ああ」
小室も桜を見上げた。
「この屋敷の主は、桜を大切にしていたのだろうね」
「父は、毎年この桜を眺めていました」
門の内側から、女性の声がした。
二人が振り返ると、先日事務所を訪ねてきた依頼人が立っていた。
黒い着物に、落ち着いた色の羽織。
彼女は二人に頭を下げた。
「お越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。小室です。こちらは助手の和田」
「和田です」
女性は二人を屋敷の中へ案内した。
「父は、この桜が好きでした。花が咲くと、毎年ここに座って眺めていたんです」
「お父様が亡くなられたのは、三年前でしたね」
小室が尋ねた。
「はい。病気で、長く床についておりました」
「その間、蔵には近づくなと?」
女性はうなずいた。
「父は、あの蔵だけは決して開けてはならないと言っていました。母にも、私にもです」
「弟さんは?」
女性の表情が、少し曇った。
「弟は……父が亡くなる少し前から、家にいなくなりました」
「行方が分からないのですか」
「はい。父が亡くなったあとも戻ってきません。母は、遠くで暮らしているのだろうと言っていましたが、詳しいことは教えてくれませんでした」
小室は女性の表情を見つめた。
「お母様は、いつ亡くなられたのですか」
「父の死から一年ほど後です」
「そうですか」
小室はそれ以上、すぐには尋ねなかった。
***
屋敷の奥には、古い土蔵が建っていた。
重い扉には錠前がかかり、長い間開けられていないように見える。
しかし、小室は扉の下に目を留めた。
「和田くん」
「はい」
「ここを見てごらん」
和田が近づいた。
扉の下の土に、かすかな擦れた跡がある。
「最近、誰かが扉を動かしたのでしょうか」
「そうかもしれない。だが、この跡だけでは分からない」
小室は扉の錠前を観察した。
錆びてはいるが、完全に固着しているわけではない。
「鍵は見つかっていないのですね」
「はい。父が持っていたはずなのですが、亡くなったあと、どこを探してもありませんでした」
「鍵屋を呼んで開けることは?」
「母が、それだけは許しませんでした」
「なぜでしょう」
女性はうつむいた。
「分かりません。ただ、母はいつも言っていました。『お父さんとの約束だから』と」
小室は蔵から少し離れ、屋敷の庭を見た。
枝垂れ桜が、春の風に揺れている。
「お母様は、この蔵について何か話していませんでしたか」
「何も。ただ……」
女性は言葉を切った。
「ただ?」
「父が亡くなってから、母は時々、夜中に蔵のほうを見ていました」
和田が顔を上げた。
「夜中に?」
「はい。何をしているのか尋ねても、何でもないと言うだけでした」
小室は、もう一度蔵を見た。
「なるほど」
***
屋敷の座敷に戻ると、小室は女性に手紙を見せてもらった。
「これが、届いた手紙です」
女性は大切そうに封筒を取り出した。
小室は便箋を広げ、文字を一つずつ眺めた。
「この筆跡は、お父様のものだと思いますか」
「はい。父の字によく似ています」
「よく似ている、ですか」
「父は病気になってから、手が震えていました。けれど、この手紙の字は、病気になる前の父の字に似ているんです」
小室は便箋を光にかざした。
「この紙は?」
「分かりません。父が使っていたものと同じかどうかも」
「封筒の差出人はありませんね」
「はい」
小室は封筒を裏返した。
「投函された場所を調べる必要がありますね」
和田が尋ねた。
「お父様の筆跡を知っている人間は、ほかにもいるのでしょうか」
「父と親しくしていた商人や、取引先の人なら知っていると思います」
「では、その方々にも話を聞きたいですね」
女性は不安そうに二人を見た。
「小室さん。もし、蔵の中に何か恐ろしいものがあったら……」
小室は彼女の目を見た。
「恐ろしいものかどうかは、開けてみなければ分かりません。ただ、開ける前に、できる限りのことを調べます」
「お願いします」
女性は深く頭を下げた。
***
屋敷を出ると、午後の陽射しが庭を照らしていた。
門の外からも、枝垂れ桜の花が見える。
和田は、しばらくその姿を眺めていた。
「小室さん」
「何だい?」
「お父さんが亡くなって三年。お母さんも亡くなっている。そして、弟さんは行方不明……」
「ああ」
「この家には、何か隠されているように思えます」
「そうだね」
小室は屋敷の庭を振り返った。
「だが、隠されているのは蔵の中のものだけとは限らない」
「家族の秘密、ですか」
「人間は、言いたくないことを黙っていることがある。だが、黙っている理由まで同じとは限らない」
和田はうなずいた。
「まずは、お父さんのことを知る必要がありますね」
「それから、お母さんと弟さんについてもね」
二人は歩き始めた。
そのとき、風が吹いた。
屋敷の枝垂れ桜から、花びらが一枚、道へと舞い落ちた。
小室は足を止め、花びらを見つめた。
「和田くん」
「はい」
「桜は、何も語らないね」
和田は、屋敷の庭を振り返った。
「ええ。何も知らないように、咲いています」
小室は、もう一度桜を見上げた。
満開の花は、何も語らない。
三年前、この屋敷で何が起きたのか。
誰が父親を殺め、誰がその秘密を守ったのか。
そして、あの手紙は誰が出したのか。
春の風が、静かに吹き抜けていった。




