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側室を迎えた夜に私が泣いたのは、悲しかったからではありません  作者: 九葉(くずは)


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お前が何をしていたのか、今なら全部言える

朝、領民が来た。


一人ではない。五人だった。正門の前に集まり、門番が困惑して書斎に報告に来た。水路の補修の件で返答がないという。先月の納税猶予の願い出にも返事が来ていない。寡婦の再婚の件も宙に浮いたままだ。


以前はこんなことはなかった。嘆願書を出せば、数日のうちに返答が届いた。返答には署名があり、慣例に基づいた判断が添えてあった。領民たちはそれを信頼し、不満を溜めずに暮らしている。


その返答を書いていたのは、妻だった。嘆願を受け付け、前例を調べ、判断の方向を定め、下書きを作り、私の机に署名を求める形で並べる。その工程の全てを一人でやっていた。私は署名だけをしていた。署名した後、嘆願書がどこへ行くのかも知らなかった。


門の前の領民に何と言えばいいのかわからない。確認して返答する、としか伝えられなかった。確認する相手がいない。五人の領民の前に立った時、一人の老農夫が言った。「奥方様はお元気でしょうか。いつもは奥方様が話を聞いてくださいました」。奥方様。領民は妻のことをそう呼んでいた。名前ではないが、役割としての敬称がある。私は妻を「お前」と呼んでいた。嘆願書の下書きを作っていたのは妻であり、過去の慣例を記した台帳がどこにあるのかも知らない。侍女長に聞いた。


「嘆願の台帳は、奥様のお部屋の書棚にございます」


妻の部屋。妻はまだ屋敷にいるが、あの部屋に入ることは憚られた。台帳は使用人に持ってこさせた。分厚い帳面だった。開くと、十年ぶんの嘆願記録が年月順に並んでいる。件名、申請者の名前、過去の判例、処理の結果、備考。妻の字で、一件ずつ書かれている。


この帳面の存在を、知らなかった。


書斎の机に戻り、帳面を広げた。隣に妻が作っていた帳簿を並べた。食料庫の在庫管理表。商人への発注記録。リネンの台帳。来客の席順表の控え。使用人の勤務表。季節行事の準備一覧。仕立屋への発注控え。


机の上に帳簿を並べると、書斎の机が埋まった。こんな量の書類が、妻の手元にあったのか。毎日、この量の仕事を処理していたのか。一つずつ開いた。一つずつ、知らなかった仕事が姿を現す。


食料庫の在庫管理。品名、数量、購入日、消費速度、次回発注日。季節ごとに消費量が変わる品目には注釈が付いている。「冬季は蜂蜜の消費が増える。暖炉の前で飲む温かい飲み物に使うため」。誰の指示でもなく、妻が自分で気づいて書き加えた注釈だ。


商人への発注記録。出入りの商人ごとに信頼度と価格の比較が付けてあった。ランゲンフェルト商会には「公正。数字に厳しいが品質は保証される。赤い葡萄酒を好む」と書かれている。商人の好みまで記録していたのか。


来客の席順表。過去三年分の控えが綴じてあった。招待客ごとに「避けるべき話題」「隣席の相性」「前回の反応」が書き込まれている。これがあったから、晩餐会で客は笑い、酒が進み、帰り際に次の招待を約束していたのか。これがなくなった途端に、クロイツ子爵は不機嫌な顔で帰った。


使用人の勤務表。休暇の調整、体調不良の記録、得意な仕事と苦手な仕事の一覧。侍女のエルザは高所が苦手で、シャンデリアの掃除は別の者に回す、とある。使用人一人ずつの事情を把握していたのか。


仕立屋への発注控え。季節と行事ごとに私の衣装を選び、生地の色と裁断の指示を出していた記録。私はただ、衣装掛けに掛かったものを着ていた。


季節行事の準備一覧。春の播種祭、夏の収穫感謝、冬至の祝宴。行事ごとに準備の手順、必要な物資、招待すべき近隣の貴族の一覧が記されている。去年の冬至の祝宴で出した菓子の種類まで書いてある。同じものを二年続けて出さないための記録だ。


帳簿を開くたびに、知らなかったことが増えていく。知らなかったのではない。見ていなかった。見る必要がないと思っていた。屋敷は回っている。食卓は整っている。領民は穏やかだ。それでいいと思っていた。回していた人間のことを、考えなかった。


数え上げる。一つ、食料庫の管理。二つ、商人への発注と精算。三つ、リネンの在庫と補充。四つ、来客の席順と根回し。五つ、領民の嘆願処理。六つ、使用人の勤務管理。七つ、私の衣装の選定。八つ、季節行事の準備。九つ、社交の場での体面維持。十。


十、社交で私が失言した際のフォロー。何度かあった。客人の前で不適切な話題を出した時、妻が隣から別の話題を差し挟んで場を収めた。あれも好意だったのか。


十一が見つからない。いや、十一もあるだろう。いや、十もあるだろう。十二も十三もあるだろう。この帳簿の山の中に、まだ開いていないものがある。まだ知らない仕事がある。妻がやっていたことの全容を、私はまだ把握しきれていない。


扉が叩かれた。マルグリットだった。


入ってきたマルグリットは、机の上に広がった帳簿の山を見て足を止めた。目が帳簿から私の顔へ移り、また帳簿に戻る。


「アルベルト様。それは、奥様の帳簿ですか」


「ああ」


マルグリットは帳簿の一冊を手に取った。席順表の控えだった。しばらく眺めてから、静かに机に戻した。


「私がやると申し上げたことの、これが全部ですか」


全部ではない。これはまだ一部だ。けれどこの一部ですら、マルグリットには何一つできなかった。それは慣れの問題ではなく、十年かけて蓄積した知識と判断の問題だった。


マルグリットの指が帳簿の表紙を撫でた。奥様の字を見ている。細かく整った字だ。マルグリットにはこの字で帳簿を埋める技術も知識もなかった。十八歳で嫁いできた妻にも最初はなかったはずだ。違いは十年という時間と、誰にも頼まれず自分で仕組みを作った意志の有無だ。


マルグリットの目が赤い。けれど泣かなかった。


「私は、あの方の代わりだったのですか。」


答えなかった。答えられなかった。


マルグリットを迎えた時、何を考えていたのか。妻に飽きたわけではない。飽きるほど関心を持ったことがない。ただ、男爵家から話があり、側室を迎えることが伯爵家の体面に適うと思った。妻がいても側室がいても、屋敷は変わらず回るだろうと思っていた。


回らなかった。


マルグリットが立ち上がる。


「私は実家に戻ります」


引き止める言葉が出なかった。引き止める理由が見つからない。マルグリットを愛していたのか。愛してはいなかった。では何のために迎えたのか。体面のためだ。そして、妻がいなくなった穴を埋めるためだ。穴があることに気づいていなかったが、埋めようとした。埋まらなかった。体面のために迎えた女が、去ると言っている。去られることで体面が傷つく。けれどそれを理由に引き止めることはできない。


マルグリットは扉の前で一度だけ立ち止まった。何か言いかけて、やめた。振り返らずに出ていった。薄桃色のドレスの裾が扉の向こうに消える。華やかな色だ。この屋敷に来た日と同じ色。けれどあの日の自信は、もうどこにもなかった。


一人になった書斎で、帳簿の山を見た。妻の字で埋められた紙の束。十年分の好意が、ここに積まれている。


侍女長が入ってきた。マルグリットが去ったことの報告だろう。けれど侍女長は報告をせず、帳簿の山を見て、私を見た。


侍女長の目は、二十年仕えた者の目だった。仕えてきた三人の主人のうち、最も長くこの屋敷を支えた人の働きを、始めから終わりまで見てきた目。


「旦那様」


「何だ」


「奥様は十年間、旦那様に名前を呼んでいただいたことがございません。」


息が止まった。


名前。リーゼロッテ。十年間、呼ばなかった。「お前」と呼んだ。「妻が」と言った。名前を呼ぶ必要がなかったからだ。この屋敷にいる正妻は一人しかいない。名前がなくても特定できる。


だが、名前を呼ばないということは、その人間を一人の人間として認識していないということだ。


名前を呼ばなかった。十年間。三千数百日の朝を共に過ごし、食卓を挟んで座り、屋敷の用件を伝え、了承を受けた。その間ずっと「お前」と呼んだ。名前のない人間。名前のない好意。名前のないまま消えた十年。


侍女長は頭を下げて去った。


書斎に一人、帳簿の山に囲まれて座っている。朝食の配膳。来客の席順。領民の名前。衣装の選定。全部言える。今なら全部言える。だが、それを言う相手は、もうこの屋敷にはいない。

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