あなたは、何もしない日を知らない
ランゲンフェルト様が屋敷を訪れたのは、商談の約束があったからだ。
来週の予定だった。けれど覚書を書斎に届けたのは私で、その私がもう書斎に近づいていない。アルベルト様が商談の日取りを把握しているかどうかもわからない。覚書は届いていないはずだ。
それでもランゲンフェルト様は来た。約束通りの日に、約束通りの時刻に。商人とは、そういうものなのだろう。先方が忘れていても、自分は忘れない。
応接間で会った。以前は取引の窓口を私が務めていたから、ランゲンフェルト様と顔を合わせるのは珍しいことではない。赤い葡萄酒を好むこと。数字に厳しいが、交渉は公正であること。使用人にも丁寧に接すること。取引を通じて知ったことだ。年に数度の商談で、私はこの方と帳簿を突き合わせてきた。数字の齟齬を指摘する時も声を荒らげず、誤りがあれば自分の側の帳簿も開いて見せた。対等な取引相手として接してくれた商人は、この方だけだった。
ランゲンフェルト様が席に着く。私の顔を見て、少しだけ眉を動かした。
「ヴェルナー夫人。今日は取引室ではなく応接間ですか」
以前は取引室で会っていた。帳簿を広げ、数字を突き合わせ、発注量と納品の日程を詰める。それが私とこの方の関わり方だった。今日は帳簿がない。発注の予定もない。取引の窓口を私が務める理由が、もうない。
「取引のことでしたら、アルベルト様にお話しいただいたほうがよろしいかと」
ランゲンフェルト様は少し黙った。それから、率直に言った。
「失礼ながら、屋敷の様子が以前と違うように見えます。商人への発注が止まっていると、うちの者から報告を受けました」
発注が止まっている。そうだろう。私が止めたのだから。貯蔵室の帳簿を見て発注を掛ける人間が、今この屋敷にはいない。
「私はもう、屋敷の管理をしておりません」
短く答えた。事情を説明する必要はない。けれどランゲンフェルト様は頷いただけで、驚いた顔はしなかった。
「そうでしたか。となると、今後の取引の窓口はどなたになりますか」
商人の質問だった。感情ではなく実務。誰が窓口になるのかを確認し、取引を継続するための判断をしている。私を憐れんでいない。事情を掘り下げようとしない。ただ、仕事の話をしている。
「わかりかねます。アルベルト様にご確認ください」
ランゲンフェルト様は頷き、立ち上がりかけた。それから、何か考えるように一拍置いて、再び座った。
「ヴェルナー夫人。一つ、仕事の話をしてもいいですか」
仕事。その言葉の響きに、背筋が少しだけ伸びた。
仕事。仕事の相手としての私に。
「うちの商会で、帳簿の管理と取引先との調整ができる人間を探しています。在庫の把握、発注の最適化、納品のスケジュール管理。あなたがこの屋敷でやっていたことと、ほぼ同じです」
心臓が一拍だけ早く打った。在庫の把握。発注の最適化。納品のスケジュール管理。ランゲンフェルト様は私がこの屋敷でやっていたことの中身を、正確に知っている。取引の窓口を通じて、帳簿の精度を見てきたからだ。
「報酬は出します。あなたの仕事に見合うだけの。やりたければ、ですが」
やりたければ。
その一言が、今まで聞いたどんな言葉とも違っていた。アルベルト様は一度も「やりたいか」と聞いたことはない。頼んだこともない。私がやっていることに気づいてすらいなかった。それは義務でも命令でもなく、好意だった。
ランゲンフェルト様は違う。私がやっていたことの価値を知っている。取引の窓口として数字を突き合わせるたびに、帳簿の正確さや発注の的確さを見ていた。この方は私の仕事を、仕事として認識している。
「少し、考えさせてください」
「もちろん。急ぎません」
ランゲンフェルト様は立ち上がり、扉のほうへ歩いた。振り返り、静かに言った。
「あなたは、何もしない日を知らないのだな。」
立ち止まった。
何もしない日。十年間、一日も休まなかった。熱があっても嘆願書の下書きを書いた。風邪をひいても貯蔵室の在庫を確認した。自分のための朝食を取ったのは、つい最近になってからだ。何もしない日など、考えたことがなかった。
ランゲンフェルト様は付け加えなかった。何もしない日を持つべきだとも、休んだほうがいいとも言わなかった。観察を述べただけだ。けれどその一言は、十年間誰にも見られなかった場所を、静かに指で触れたような感覚があった。
ランゲンフェルト様が帰った後、しばらく応接間の椅子に座っていた。窓から差す午後の光が床に四角い影を作っている。この影の形も、カーテンの開き具合も、私が決めたことだった。もう、決めなくていい。
ヒルダを呼んだ。
「ヒルダ。これを預かっていてちょうだい」
腰から鍵束を外した。留め金に指をかけ、ゆっくりと引き抜く。鉄の束が掌の中で鳴った。十年間、毎朝腰に下げて廊下を歩いた鍵束。食料庫の鍵、リネン庫の鍵、客間の鍵。この屋敷で私が存在していた音だった。
ヒルダの手が、かすかに震えた。鍵束を受け取る時、私の手に一瞬だけ触れた。温かい。
「お預かりいたします」
ヒルダはそれだけ言って、鍵束を自分の腰に下げた。鉄の音がする。同じ鍵なのに、ヒルダの腰では少し違う音になる。腰の高さが違うのか、歩き方が違うのか。
鍵束を手放した腰が軽い。十年ぶんの重さが消えている。自由なのだとは思わなかった。ただ、軽い。
自室に戻り、窓辺の椅子に座った。何もすることがない午後。貯蔵室を確認する必要もない。嘆願書の下書きを書く必要もない。来客の席順を考える必要もない。
何もしなくていい。
手が所在なく膝の上に置かれている。この手は十年間、常に何かを持っていた。鍵束、帳簿、嘆願書、ペン。何も持たない手は、こんなに軽いものだったか。
その事実が、恐ろしいほど静かだった。十年間、「役に立つこと」だけが、持参金の少ない子爵家の三女がこの屋敷にいてよい理由だった。その理由を自分で手放した今、私はどこにいてよいのか。
ランゲンフェルト様の言葉が浮かぶ。報酬は出す。やりたければ。
報酬。対価。私の労働に値段がつく。十年間、私がやってきたことは無報酬の好意だった。好意だから気づかれず、好意だからやめる権利があった。けれど、もし最初から対価があったなら。報酬があったなら。それは仕事になり、仕事には正当な評価がついてくる。
報酬。その言葉を、私は十年間、一度も聞いたことがなかった。




