奥様の代わりは、私がいたします
この屋敷に来た日、私はアルベルト様に愛されていると思っていた。
男爵家の娘が伯爵の側室に迎えられるのは、身分としては破格だ。父は喜んだ。母は少し心配そうな顔をしたが、何も言わなかった。伯爵家の屋敷は広く、調度品は上等で、使用人の数も多い。私の実家とは比べものにならない。
奥様にご挨拶をした。地味な方だった。控えめで、声が小さく、社交の場では目立たない人だと聞いていた。この方の代わりに、私がアルベルト様のお傍にいる。そう思うと、少し誇らしかった。
屋敷の中が静かに乱れ始めたのは、到着して数日後のことだった。朝食の配膳がいつもと違う、と使用人たちがひそひそ話している。来客の応対が滞っている。領民が正門まで来て、嘆願を受け付ける窓口がないと訴えている。
奥様が屋敷の仕事を止めたらしい。詳しい事情は知らない。けれど、アルベルト様が困っている。ならば私が助ける番だ。
「奥様の代わりは、私がいたします。」
アルベルト様に申し出た時、少しだけ安堵した顔をされた。その顔を見て、やはり来てよかったと思った。私はこの方の役に立てる。
翌朝、貯蔵室に入った。
棚には保存食品、スパイスの小瓶、砂糖の壺、ピクルスの甕が並んでいる。棚板ごとに小さな札が貼ってあり、品名と数字が書かれていた。帳簿が一冊、棚の端に紐で吊るしてある。開いてみた。
何が書いてあるのかわからなかった。
表紙をめくると、最初のページに「春季・在庫一覧」と奥様の字で書かれている。細かく整った字だ。品名の隣に数字が三列並んでいる。在庫量、消費速度、次回発注日。そういう意味だと後で侍女長に聞いて知った。けれど帳簿を見ただけでは、どの数字が何を指しているのかわからない。奥様が独自に作った書式だという。出入りの商人の名前も、ツケ払いの精算日も、すべてこの帳簿に集約されている。
次に、リネン庫を開けた。シーツ、テーブルクロス、ナプキンが種類ごとに棚に分けられている。台帳が一冊あり、枚数と洗濯の周期と補充の予定が記されている。客人の人数と滞在日数から必要枚数を逆算する計算式まで、欄外に書き添えてあった。
台帳の隅に、奥様の字で注意書きが添えてあった。「冬季は乾燥に二日かかるため、予備を一割増す」。季節ごとの注意事項まで書き込まれている。
私にはこの計算ができない。客人が三名で二泊するとき、ナプキンが何枚要るのか。洗い替えを含めると何枚か。傷んだものの補充はいつ手配するのか。奥様はこれを十年間、頭の中で回していた。
午後、領民が来た。
水路の補修について話を聞いてほしいという。控えの間に通し、話を聞こうとした。領民は恐縮しながら、過去の経緯を説明し始めた。三年前の洪水の後、東側の水路を拡幅し、その費用を領主と農民で折半した取り決めがある。今年は西側も補修が必要だが、同じ取り決めが適用されるのか。
私はその取り決めを知らない。三年前のことは聞いたこともない。台帳を探したが、嘆願の記録がどこにあるのかもわからなかった。領民の目が不安に曇った。奥様であればすぐに台帳を出して前例を確認し、返答の方向を示してくれたのだろう。私の前で領民はしばらく待ち、何も得られないまま頭を下げて帰った。
侍女長に聞いた。
「侍女長。奥様は、領民の嘆願をどのように処理なさっていたのですか」
侍女長は少しの間だけ黙る。それから静かに答えた。
「それは奥様のお仕事でございました。」
手伝ってくれるのかと思った。教えてくれるのかと思った。けれど侍女長はそれ以上何も言わない。私の目を見て、深く頭を下げて、立ち去った。
夕食の席でアルベルト様に報告した。貯蔵室の帳簿が読めなかったこと。リネンの計算ができなかったこと。領民の嘆願を処理できなかったこと。アルベルト様は黙って聞いていた。
アルベルト様は食事の手を止めず、私のほうを見ずに言った。
「慣れていないだけだ。そのうちできるようになる」
そう言ったアルベルト様の声に、最初に私を迎えた時の温かさはなかった。困っている。けれどその困惑は、私への心配ではない。屋敷が回らないことへの苛立ちだ。
寝室に戻り、今日一日を振り返った。貯蔵室の帳簿。リネンの台帳。領民の嘆願。来客の爵位と家名。使用人の休暇の調整。商人への発注。それぞれが独立した仕事ではなく、すべてが繋がっている。帳簿の数字が発注に繋がり、発注が商人との取引に繋がり、取引が屋敷の予算に繋がる。一つを間違えると、別のどこかがずれる。
奥様はこのすべてを一人で回していた。十年間、毎日。しかも、それを誰にも教わらず、自分で仕組みを作って。
私は奥様を地味な方だと思っていた。目立たない人だと。アルベルト様の傍にいるのに華がない人だと。
間違っていた。華がないのではない。華を見せる必要がなかったのだ。仕事があまりに完璧で、華を見せる暇がなかった。
奥様がしていたことの一覧を、私はまだ半分も知らない。




