好意は、義務ではございませんので
晩餐会は失敗だった。
隣領のクロイツ子爵夫妻を招いた席で、席順が決まっていなかった。使用人に確認すると、奥様からの指示がないという。以前はそんなことはなかった。客人を招いた翌日には席順表が書斎に届き、客の好みや避けるべき話題までが書き添えてあった。今回はそれがない。
使用人たちは私の顔を見て指示を待っていた。席順を決めるのは初めてだった。普段は書斎の机に席順表が置いてあり、私はそれを確認するだけでよかった。確認すらしないことも多い。客が来れば食堂に行き、席に座る。それだけでよかった。
仕方なく、自分で席を決めた。クロイツ子爵を右手に、夫人を向かいに。それが間違いだった。クロイツ子爵夫人は先月、実家と係争中だという話を社交で耳にしたことがある。夫人の向かいに座った男爵夫人がその話題を出した時、食卓の空気が凍った。
以前は凍らなかった。以前は誰の隣に誰を置くか、どの話題を避けるか、すべて妻が設計していた。あの席順表がなかっただけで、晩餐会は気まずい沈黙と不自然な笑い声の連続になる。
晩餐会が終わった後、クロイツ子爵は不機嫌な顔で帰った。門まで見送る間、一言も口を利かなかった。こちらの何が悪かったのかもわからない。社交とはこんなに難しいものだったか。以前の晩餐会では、客は笑い、酒が進み、帰り際には次の招待を約束して帰った。
数日後の朝、書斎の椅子に座った時、衣装が用意されていないことに気づいた。いつもなら寝室の衣装掛けに、その日の予定に合わせた上着と肌着が掛かっている。今朝は昨日のままだ。侍女長を呼んだ。
「旦那様のお衣装は、従来、奥様がご指示くださっておりました」
知らなかった。衣装は使用人が用意するものだと思っていた。仕立屋との打ち合わせも、季節に合わせた生地の選定も、妻がやっていたのか。
机の上を見た。嘆願書の束がない。毎朝、署名だけで済む状態で並んでいたあの束。あれはどこから来ていたのか。領民が直接持ってくるのか。誰かが下書きを付けていたのか。
考えたことがなかった。嘆願書の束は毎朝ここにあった。冬は水路の補修、春は種子の貸付、夏は境界の争い。季節ごとに中身が変わり、しかしいつも署名だけで済む状態に整えられていた。返答の下書きは的確で、領民の名前と事情が正しく書かれていた。あの字は妻の字だったのか。
些細なことだ。衣装も嘆願書も席順も、一つ一つは大したことではない。けれど三日のうちにそのすべてが同時に止まると、屋敷の中に隙間風が吹いているような心地がする。どこかの窓が開いている。閉め方がわからない。
妻は屋敷にいる。食堂には来ないが、自室にいることは侍女長から聞いた。病気でもなく、実家に帰ったわけでもない。いるのに、何もしない。
マルグリットに聞いてみた。何か手伝えることはないか、と。マルグリットは微笑んで答えた。
「お任せください。奥様のなさっていたこと、私がいたします」
三日後、マルグリットが貯蔵室の帳簿を見て首を傾げている姿を使用人から報告された。帳簿の付け方がわからないらしい。来客の接遇を任せたところ、招待客の爵位を間違えた手紙を出しかけた。侍女長が直前に止めた。マルグリットは恥ずかしそうに笑って「まだ慣れていなくて」と言ったが、慣れの問題ではない。爵位を間違えた手紙は、出した瞬間に伯爵家の信用に傷がつく。妻はそれを十年間、一度も間違えなかった。間違えなかったことを、当然だと思っていた。
妻がやっていたことが、一つずつ形を現す。形を現す時にはいつも、不在という形で。
五日が経った。不便は積み重なる一方だった。商人から届いた請求書の処理がわからない。来月の社交への返答を出していない。使用人の休暇の調整を誰がやるのかもわからない。それらの仕事は、妻がやめるまで存在しなかった。
呼び出した。
書斎に妻を呼んだ。十年間、何度もそうしてきた。用件を伝え、了承を得て、終わり。今日も同じつもりで席に座り、妻が扉を開けるのを待った。
扉が開いた。妻は三歩進んで机の前に立った。いつもと同じだ。いつもと同じはずだ。けれど何かが違う。
妻の立ち方が違う。以前は少しだけ前かがみで、指示を受ける姿勢だった。今日は背筋がまっすぐだ。腰の鍵束の音がしなかった。鳴っていたのかもしれないが、今日は意識に入ってこなかった。いつもは気にしたこともない音だが、鳴っていないかもしれないと思うと、妙に耳についた。
「いったい何のつもりだ。元に戻せ。」
妻は黙っている。
以前なら「承知いたしました」と返ってきた。用件を伝えれば了承される。十年間そうだった。命令し、実行される。それがこの屋敷の仕組みだ。
妻は黙ったまま、書斎の棚に歩み寄った。書棚の三段目、帳簿と書簡の間に挟まれた一通の書類を引き出す。見覚えのある封蝋。黄ばんだ紙。
婚姻契約書だった。
十年前に署名した書類だ。持参金の額、返還の条件、双方の義務。署名した日の記憶はほとんどない。家同士の取り決めであり、内容を精読した覚えもなかった。
妻は契約書を机の上に広げた。紙が黄ばんでいることに初めて気づいた。十年前の紙だ。署名したのは婚礼の三日前、父と先方の代理人が同席した部屋で、形式的に名前を書いただけだった。中身を読んだ記憶がない。一枚目をめくり、二枚目の中ほどを指で示した。
「私の義務はここに書かれている分だけです」
指の先を見た。義務の条項。月に一度の家計報告書の提出。
それだけだった。
屋敷の管理。社交の席順。領民への返答。衣装の手配。季節行事。商人との取引。そのどれもが、この契約書には書かれていない。
「それ以外は、好意でしておりました」
声は静かだった。怒りはない。悲しみもない。事実を読み上げているだけの声だ。契約書の文言と同じ温度で、妻はこの十年間を要約した。
好意。
そうか。あれは好意だったのか。席順も、衣装も、嘆願書も。正妻なら当然やること。そう思っていた。屋敷を回すのは正妻の仕事だ。そう教わり、母がそうしていた。母の前の夫人もそうしていたと聞く。だからそういうものだと思っていた。
けれど契約書には書かれていない。書かれていない以上、義務ではない。義務でないなら、やるかやらないかはこの女の意志だ。
意志。
この女に意志があるということを、十年間、考えたことがなかった。朝起きれば食卓が整い、客が来れば席順が決まり、領民の嘆願は処理され、衣装は季節に合っていた。それらはすべて、屋敷という機構が自動的に生み出すものだと思っていた。機構ではない。一人の人間の好意だった。その人間の名前を、私は十年間、一度も呼んでいない。
名前。妻の名前は何だったか。リーゼロッテ。子爵家の三女。そうだ、知っている。知っていて、呼ばなかった。呼ぶ必要がなかったからだ。「お前」で十分だった。この屋敷にいる正妻は一人しかいない。
「アルベルト様」
呼び方が変わっていた。以前は「旦那様」だった。いつから変わったのか。気づかなかった。
妻は契約書を机に残したまま、一歩下がった。扉のほうへ。
好意は、義務ではございませんので。




