奥様はまだここにいらっしゃる
暖炉の火を熾すのは、夜明け前の仕事だ。
メイドたちが五時に起き、主人一家の目に触れる前にすべてを整える。居間の暖炉、廊下の燭台、食堂の窓を拭き、階段を掃き清める。旦那様が朝食の席に着く頃には、屋敷はすでに動いている。誰がそれをやったのか、旦那様が気にしたことはない。暖炉の火は毎朝そこにある。薪の種類を季節で変え、湿気の多い日には焚き付けの量を増やし、煙突の掃除を月に一度手配する。その全てを指示していたのは奥様だった。暖炉の火は自然に燃えているのではない。誰かが燃やしているのだ。
二十年この屋敷に仕えてきた。先代の伯爵夫人に仕え、その方が亡くなった後は若い当主の屋敷を預かり、十年前に奥様がいらした時から、この方の下で働いてきた。
奥様は十八歳だった。持参金の少ない子爵家の三女。華やかさはなく、社交の場では隅に立っていることが多かった。けれど、嫁いで最初の月に貯蔵室の棚を全部確認し、保存食品とスパイスと砂糖の在庫を帳簿に書き起こした時、この方は違うと知った。
棚の奥に置かれた古い蜂蜜の壺の存在まで、奥様は見落とさなかった。砂糖の減り具合を見て季節の菓子の需要を読み、スパイスの在庫が切れる前に商人に声をかける。帳簿に品名と数量と購入日を記し、消費の速度まで書き添えた。出入りの商人への発注を毎週見直し、ツケ払いの精算を月末にまとめた。それを誰にも教わらず、自分で仕組みを作った。
十年間、この屋敷はその仕組みで回っている。旦那様はその仕組みの存在を知らない。
今朝も五時に起きた。メイドたちに暖炉の支度を指示し、廊下を見回り、食堂の準備を確かめる。いつもの朝だった。
いつもと違ったのは一つだけ。
奥様が厨房に下りてこなかった。
毎朝、奥様は夜明け前に厨房に顔を出す。貯蔵室の在庫を確かめ、その日の献立を料理長と打ち合わせ、旦那様の朝食の配膳を指示する。白身魚の焼き加減。パンの温め方。葡萄酒の銘柄。旦那様の好みを十年かけて覚えた奥様の指示がなければ、料理長は自分の判断で出すしかない。出せるが、それは旦那様の好みとは少しずれた食卓になる。
私は厨房の入口で待った。六時を過ぎても奥様は来ない。六時半になり、料理長が不安そうな顔で私を見た。
奥様の居室を訪ねた。扉の前で声をかけると、いつもと変わらない静かな声が返ってきた。
「おはようございます、ヒルダ」
扉を開けた奥様は、身支度を整えている。髪を結い、衣装を選び、鍵束を腰に下げている。いつもの奥様だった。ただ、厨房に下りる気配がない。
「奥様、本日の朝食のご指示をいただきたいのですが」
奥様は少し間を置いてから、穏やかに答えた。
「旦那様のお食事は、側室の方がご手配くださるでしょう。」
声に怒りはなかった。悲しみも、皮肉もなかった。事実を述べているだけの声。昨夜、東の客間の寝具を整えながら聞いた奥様の声と同じ温度だ。決めた後の声だった。
「私は、今朝は自分のぶんだけいただきます。一人分で構いません」
一人分。奥様が自分のためだけの食事を頼んだのは、十年間で初めてだった。
私は頭を下げて厨房に戻り、料理長に伝えた。旦那様の朝食は料理長の判断で。奥様の朝食は一人分。料理長の手が止まった。奥様の指示なしに旦那様の食卓を整えるのは初めてのことだった。
食堂に旦那様が現れた。いつもの時間に、いつもの席に着く。配膳された朝食に目を落とし、一口食べた。何も言わない。魚の焼き加減がいつもと違ったはずだが、旦那様は気づいていないようだった。
奥様が毎朝指示していたことを、旦那様は知らない。
少し遅れて、マルグリット様が食堂に入ってきた。薄桃色のドレスに、金の髪飾り。食堂の空気が変わった。華やかで、若い。使用人たちが一瞬だけ手を止めて、それからまた動き出した。
「おはようございます、アルベルト様」
旦那様は顔を上げ、短く応じた。側室の到着は昨日のことで、今朝が屋敷での最初の朝だった。マルグリット様は旦那様の隣の席に座る。食堂の席順は奥様が決めていたが、側室の席は決められていない。何の迷いもなく旦那様の隣を選んだ。
使用人たちの視線が私のほうを向いた。どうすればよいのか、判断を求めている。私は何も指示しなかった。奥様から指示がないのだから、私が代わりに判断することはしない。それが忠誠だった。奥様が動かないと決めたなら、私はその決定を支える側に立つ。二十年仕えた屋敷の混乱を見ていることは苦しいが、奥様の決定を覆す権利は私にはない。
食堂の配膳には奥様が決めた規則がある。旦那様のパンは右手側、バターはその隣、水差しは肘に当たらない位置。十年かけて調整した配置を、使用人たちは体で覚えていた。今朝はその指示がない。
マルグリット様がバターを探して皿の間に手を伸ばした。いつもならパンの右側に置いてある。奥様が決めた配置だ。今朝は料理長が自分の判断で並べたから、バターはパンの左側にある。小さなことだ。
午前中、奥様は自室で過ごした。厨房に下りず、貯蔵室を確認せず、商人への発注を出さず、来客用の席順表を作らなかった。旦那様の衣装の確認もしなかった。旦那様の書斎の机に、嘆願書の束が並んでいないことに、旦那様が気づくのは明日になるだろう。来週の商談に備えたランゲンフェルト男爵への覚書も、旦那様の机には届いていない。商人への発注が止まれば、今週末には貯蔵室の砂糖とスパイスが切れる。屋敷が回っているように見えるのは、奥様が先週までに手配した慣性が残っているだけだ。
私は奥様の居室の前を通りかかった時、扉の隙間から中を見た。奥様は窓辺の椅子に座って、小さな皿の上の朝食を一人で食べていた。パンと果物と紅茶。旦那様のために考え抜いた献立ではなく、自分が食べたいものだけを載せた皿。
奥様の手元を見た。パンを小さくちぎって口に運んでいる。急いでいない。十年間、奥様の朝食はいつも厨房の隅で立ったまま、旦那様への配膳を確認しながら片手で食べるものだった。座って、自分のための皿を見ながら食べる朝食を、奥様は十年ぶんの朝の中で一度も取っていなかった。
奥様の横顔は穏やかだった。疲れが取れた顔ではない。疲れることをやめた顔だ。
二十年仕えてきた。先代の夫人にも、この方にも。屋敷を回すことがどれほどの仕事か、私は知っている。貯蔵室の在庫管理。リネンの枚数の台帳。暖炉の薪の季節ごとの手配。来客の席順。領民の嘆願書の仕分けと下書き。旦那様の衣装。社交の根回し。商人との取引の下準備。それらのすべてを、奥様は十年間、一日も休まず、頼まれもせずにやってきた。
旦那様はその全容を知らない。何一つ。奥様が休んだ日は十年間で一日もなかった。熱を出した日でさえ、嘆願書の下書きだけは寝台の上で書いた。それを旦那様は「仕組みがうまくいっている」と思い、仕組みを作った人間の名前を一度も呼ばなかった。暖炉の火はいつも燃えている。食卓はいつも整っている。嘆願書はいつも署名だけで済む状態で並ぶ。すべてが当然のこととして存在していた。空気に感謝する人間がいないように、旦那様は奥様に感謝したことがない。
奥様はまだここにいらっしゃる。ただ、もう旦那様のためには動かない。




