側室を迎えた夜に、私は泣いた
腰の鍵束が廊下を歩くたびに鳴る。
食料庫の鍵、リネン庫の鍵、東西南北すべての客間の鍵、書庫の鍵、礼拝堂の小扉の鍵。十年前に嫁いできた日、侍女長のヒルダから手渡された鉄の束は、年月のぶんだけ数を増やして重くなった。腰に下げて歩くと、一歩ごとに金属の擦れる音がする。使用人たちはその音で奥様が近いと知り、背筋を正す。
鍵束の音は、この屋敷で私が存在している音だった。
旦那様の耳には届かない音だったが。
夕刻、書斎に呼ばれた。窓の外はまだ薄く明るい。旦那様は帳簿に視線を落としたまま、扉を開けた私のほうを見なかった。部屋に入り、扉を閉め、三歩進んで机の前に立つ。その間もずっと帳簿の列を指で追っている。私がここにいることには気づいているはずだった。ただ、帳簿の区切りのほうが先だっただけだ。十年間変わらない間合い。到着より数字が優先される、それだけのことだった。
やがて指が止まり、帳簿を閉じもせずに口を開いた。
「明日からマルグリット・フォン・ブレーメンがこの屋敷に入る。部屋を用意しておけ。」
相談ではない。決定の通達だ。ブレーメン。男爵家の令嬢の名。社交の場で数度見かけた覚えがある。若く、華やかで、笑い声が広間の隅まで届くような女性だった。旦那様がその名を口にしたのはこれが初めてだったが、「この屋敷に入る」が意味するところを理解するのに時間はかからなかった。
側室を迎える。
旦那様は私の顔を見なかった。通達の間も、私の返事を聞いている間も。窓の向こうの空のほうがまだ顔を向ける価値があったのだろう。十年間ずっとそうだった。私の顔は、旦那様が目を向ける対象に含まれていない。
この屋敷のすべてを、十年間回してきた。毎朝、夜明け前に目を覚まし、厨房へ下りて食料庫の在庫を帳簿と突き合わせた。出入りの商人への発注を手配し、リネンのシーツやテーブルクロスの枚数を台帳で管理し、客人の人数と滞在日数から洗い替えの枚数を逆算した。来客があれば前日に招待客全員の近況と家同士の関係を調べ、晩餐会の席順表を作る。どの男女を隣り合わせにするか。避けるべき話題はどれか。旦那様が客人の前で恥をかかなかったのは、この席順表があったからだ。
けれど、その屋敷に誰を迎え入れるかを正妻に相談する必要は、旦那様にはなかったらしい。帳簿から目を上げもしない横顔を見た。用件を済ませた後の顔だ。次の仕事に移りたいだけで、私の反応を気にしているのではなかった。
「承知いたしました。」
声は震えていない。自分の声を聞いて確かめた。書斎を出るとき鍵束が鳴る。いつもと同じ金属の音。旦那様の反応はない。十年間、一度もこの音に振り向いたことはない。
廊下にヒルダが控えていた。何も聞かなかった。私の顔を見て、それから右手が腰の鍵束を握りしめていることに目を落とし、問いを飲み込んだ。二十年この屋敷に仕えた侍女長は、主人の異変を嗅ぎ取っても、聞くより先に察する人だった。
「東の客間を整えてちょうだい。明日、側室の方がいらっしゃるそうよ」
ヒルダの肩がわずかにこわばった。それ以上のことは何も起きなかった。
「お部屋の調度は、どの程度のものをご用意いたしますか」
「東の客間のままで構いません。寝具だけ新しくして」
それが最後の意地か、務めとしての誠意か、自分でもわからない。ヒルダは深く頭を下げ、足早に東棟へ向かった。
夕食の準備がある。厨房に下り、料理長に白身魚の焼き加減を伝えた。皮を少し焦がした程度。旦那様の好みだ。十年間、一度も美味いと言われたことはないが、焼き加減を変えたこともない。
来週の商談に備え、隣国から来るランゲンフェルト男爵への手土産を確認した。赤い葡萄酒を好むと以前の取引で聞いていた。覚書を作り、翌日の決裁に回す。旦那様は名前と爵位は覚えているが、酒の好みまでは知らない。
廊下を渡り、領民から届いた嘆願書の束を開いた。三件は領地境の水路の補修。一件は納税猶予の願い出。もう一件は寡婦の再婚に関する慣例の確認。五通すべてに返答の下書きを付けて、明朝の旦那様の机に揃えた。旦那様はこの束がどこから来るか知らない。毎朝、署名だけが要る状態で机に並ぶのを、伯爵家の仕組みだと思っている。
仕組みではない。私だ。
旦那様は今頃、書斎で葡萄酒を飲んでいるだろう。明日の側室の到着について、何か特別な感慨を持っているようには見えなかった。持参金の少ない子爵家の三女を嫁に迎えた時と同じ目をしていた。必要な手配を済ませた、というだけの目。
嫁いでからの三千数百日、こういう夕刻を過ごしてきた。一日も欠かさなかった。
夜。自室に戻った。侍女を下がらせ、自分で髪を解く。寝台の端に腰を下ろし、膝の上に鍵束を置いた。ランプの灯りの下で、一つずつ鍵に触れた。食料庫。リネン庫。東の客間。明日からあの方が寝起きする部屋になる。
鍵の一つ一つに、十年分の朝が詰まっている。
旦那様は私を「お前」と呼ぶ。使用人に話す時は「妻が」と言う。客人の前では名前を出さない。リーゼロッテ。その五音を、この屋敷の主人の口から聞いたことが十年間で一度もない。嫁いだ日の挨拶で呼ばれたかもしれないが、覚えていない。覚えていないのなら、そのときも呼ばれなかったのだろう。
涙が頬を伝った。
鍵束の鉄がかすかに鳴り、その音に驚いて右手で頬に触れた。濡れている。
泣いている。
悲しいのだと、最初はそう思った。愛されない婚姻に十年を費やし、その上に側室まで迎えられて、ようやく溢れたのだと。
けれど、胸の底にある感情の名前を探った時、見つけたのは悲しみではなかった。
安堵だった。
重い荷を下ろした時の、両肩から力が抜けていくあの感覚。もう尽くさなくていい。もう名前を呼ばれない朝に傷つく必要がない。もう鍵束の重さを、自分の誇りにすり替えなくていい。旦那様にはもう、私以外の誰かがいる。だから私は、私のことだけを考えてよい。
十年間、愛されなくても「役に立っている」と思うことで自分を保ってきた。席順を整え、衣装を選び、嘆願書に返答を書くたびに、愛されない代わりの何かを手に入れた気になっていた。役に立つこと。それだけが、持参金の少ない子爵家の三女がこの屋敷にいてよい理由だった。
その理由が、今夜、消えた。側室が来る。旦那様は別の誰かを選んだ。だから。私がいなくても構わないと旦那様は判断した。そしてそれを聞いた時、私が感じたのは絶望ではなく、許可だった。
涙は長く続いた。嗚咽はない。声を上げるほどの激しさではなく、ただ静かに、長く、頬を伝い続ける。十年分の疲労が、たった一つの免罪符を得て身体の奥から溶け出していく。涙が止まった。
窓の外が暗い。屋敷の灯りは私が消す順番を決めている。東棟から始め、使用人の居室を最後にする。嫁いで最初の年に自分で決めた順番だった。旦那様がその順番を知ることは十年間なかった。灯りが正しい順序で消えていく夜を、あの方が窓から眺めたことは一度もないだろう。
あれは好意だった。
十年間やってきたことの、ほとんどすべてが好意だった。婚姻契約書を、嫁いで三年目の冬に引き出しの底から取り出して読んだことがある。紙は少し黄ばんでいた。書かれていた私の義務は、月に一度の家計報告書の提出。一つだけだった。
それ以外のすべて——屋敷の管理、社交の席順、領民の嘆願処理、夫の衣装選定、季節行事の準備、来客の接待、商人との取引の下調べ。全部、好意だった。契約書のどこにも書かれていない。私が勝手に、この屋敷のためにと思い込んで続けてきたことだった。
好意をやめれば、消える。
鍵束を膝の上で握り直した。重い。十年ぶんの好意の重さだ。明日の朝、この鍵束を持って廊下を歩くことはできる。食料庫を開け、帳簿を確かめ、厨房に指示を出すことはできる。
できる。けれど、もうしない。
旦那様が側室を迎えるとき、私への相談はなかった。決定だけがあった。それなら私も同じようにする。相談はしない。明日の朝から、婚姻契約書に書かれた義務だけを果たす。月に一度の家計報告書を出す。それ以外のことは、もう、しない。
それを、今、ここで決める。
窓の外で灯りが一つ消えた。順番が違っていた。今夜は誰かが先に東棟の灯りを落としたらしい。正しい順番を知っていたのは私とヒルダだけだったが、今夜のヒルダは東の客間の準備で手を取られているはずだ。
正しい順番を教えに行く必要は、もうない。
明日からは、私のために生きてよい。




