第8話 百二十人分の、おいしい朝
厨房から、戦場は見えなかった。
見えないことが、怖かった。
刃の音。警鐘。走る足音。
窓の外が光るたび、手を止めそうになる。
私は、鍋の中をかき混ぜた。
「火が強いよ」
マルタさんが声をかけた。
隣の竈では、補助員のニルがパンを焼いている。
粉を扱う手が、少し震えていた。
「一度、座ってください。次の分は私が」
私が言うと、彼は壁際の椅子へ座った。
平気な顔をしなくてもいい厨房にしたかった。
最初の鍋には、祝福の光があった。
二つ目にも。
食事を運ぶ人が、隊ごとの籠を持って出ていく。
温かさを保つ工夫は、砦の人の方が詳しかった。
私は、彼らへ任せた。
夜半、四つ目の鍋が空いた。
次の鍋には、光がなかった。
「少し、休みなさい」
マルタさんが、私へ皿を渡した。
「まだ、町から来た人の分が」
「その人たちには、普通の食事だって美味しい。私が仕上げる」
私は椅子へ座った。
皿を持つと、指が震えた。
空腹だった。
自分では、気づいていなかった。
スープを飲んだ。
塩。野菜。よく煮えた豆。
私の作った料理を、マルタさんが最後に温めてくれた。
百年前の聖女は、自分の分を食べただろうか。
記録には、そこまでは書いていない。
私の皿は、空になった。
椅子に背を預けて、目を閉じた。
しばらくして、声がした。
「セナ」
レオンだった。
私は起き上がった。
彼の袖に、石の粉が付いている。砦の内側で指揮をしながら、結界の作業にも立ち会っていたのだ。
「北門の前の群れは退けた。今、古い印を切り離す」
彼の指輪が机の角へ当たった。
細い黒い線が、石の表面で光っていた。
五年前の誓約の印だった。
「今度の誓約も、もう確かめたのですか」
「全員で説明を聞いた。支える時間も、交代も決めた。町の協力者も、条件を読んでから加わる」
「味を、失いませんか」
「失わない」
私は、彼の指輪を見ていた。
その線が、ふっと消えた。
彼が、息を止めた。
「匂いがする」
マルタさんの焼いたパンが、作業台に並んでいた。
ニルが、生地を切り分けたものだ。
私が祝福を入れたパンではない。
レオンは、まだ熱い一つを取った。
端を割り、一口、食べた。
「……美味い」
マルタさんが、口へ手を当てた。
私も、息ができなくなった。
「焼けた粉の味がする。中が、甘い」
彼は、パンを持ったまま、マルタさんへ頭を下げた。
「長く、ありがとう」
彼女は、何も言わなかった。
ただ、次のパンを彼の皿へ置いた。
夜明け前、新しい結界が繋がった。
騎士と、砦の魔術師と、町から来た協力者。
一人ずつの力を、決めた限度の内で分け合う。
古い守りと同じものではなく、これからも調整と交代が必要だった。
それでも、その朝、町へ魔獣は入らなかった。
戻ってきたミラさんが、厨房の入口で叫んだ。
「何でもいい! 食べたい!」
食堂に、皿が並んだ。
祝福のある料理も、ない料理も。
百二十人が、食べた。
笑った。騒いだ。泣いた。
誰かが、胡椒が多いと言った。
「初めての苦情ですね」
私が言うと、マルタさんが笑った。
「今まで五年、聞けなかったものだからね」
レオンは、私の隣へ椅子を置いた。
食事を持ってきて、座るように言った。
料理人が食堂で食べることに、誰も反対しなかった。
「君の料理だけでなくなった」
彼が、小さな声で言った。
「はい」
「寂しいか」
私は、彼の皿を見た。
マルタさんのパンが、もう一つ。
「嬉しいです」
そう答えると、彼は私の手を、机の下でそっと握った。




