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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第一章 青の三日月 ―名を持たぬ少年の初恋―
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9 見えない孤児院


 整然と並んだ白い石畳を、ブーツが打った。

 霧が足元に沈み、向こうまで広がる庭園の芝を湿らせている。


 ――王都の中心にあるセント・アークライト大聖堂。


 黒鉄の柵に囲われたそれは、白い石造りの荘厳な建物だった。

 正面に五つのアーチを連ね、その中央から細く高い塔が伸びている。

 

 足音が、いやに遠くまで響く。

 

 ピップは、前を歩くダークブルーのフロックコートの裾を見つめていた。

 

 ――ここに来るのは、すごく久しぶり。


 肩に掛けていたバッグを体の前に持ってくると、それを抱くようにして持った。


 ふと、エドガーの足が止まる。


 ピップが顔を上げると、彼は振り返り、群青の瞳を細めて淡く笑んでいた。


「ピップ」

「……はい」


 エドガーは一度だけ小さく頷くと、また背を向けて歩き出した。

 ピップは、鞄を抱えたまま隣に並ぶ。

 

 名を呼ばれただけ。

 だけど、ピップは鞄から手を離して前を向いた。


 白い石畳。

 二人の靴音が、並んで響く。




 

 大司教室。

 

 窓枠から差し込む淡い光は、部屋の隅に鈍い影を作っている。

 壁に飾られた金のタペストリーと、歴代の教皇たちの肖像画。


 深い臙脂色の毛足の長い絨毯は、足音を吸った。

 呼吸をするたび、甘く、重い香りが肺に沈む。


 部屋の主に促され、エドガーとピップは並んでソファに腰掛けた。

 像嵌細工の施された巨大なテーブルは、重厚な艶を帯び、そこに座るものを威圧している。


 白い長衣に、ストラを肩からかけた大司教は、柔和な笑みを浮かべながら、彼らの向かいに腰を下ろした。

 彼のストラに満遍なく施された金刺繍が、鋭く光を返している。


 若い司祭がエドガーとピップの前に静かに陶器のカップを置く。

 

「……大司教様。本日はお時間をいただき――」

 

 大司教は、しわがれた厚みのある手を持ち上げてエドガーを制した。


「いやいや。理の法務官と名高いレイブンズ法務官殿がわざわざこちらに足を運んでくださるとは……こちらこそ光栄ですよ」


 笑みは穏やかだが、どこか値踏みするような気配があった。


 エドガーは革の書類用フォリオから一枚の紙を取り出すと、テーブルに置き、大司教の前に静かに滑らせた。


「既にお聞きと存じますが、こちらの令嬢を保護していただきたいのです」


 ピップはその書類に目を落とすと、小さく息を呑む。


 大司教は書類をちらと見ただけで、視線をすぐにエドガーに戻した。


「えぇ、喜んで預かりますよ」

「……裁定院案件の重要な証人です。

 なにとぞ、よろしくお願いいたします」


 男はゆっくりと頷く。

 それから、いくつかの確認事項をやり取りし合う。


 やがて、エドガーは、大司教の瞳を静かに見つめた後、ソファを立った。ピップも慌てて立ち上がる。


「私は、セント・アークライト大聖堂を信頼しております」

「……お任せを」


 大司教も立ち上がり、エドガーと大司教は再び視線を交わした。


 司祭が扉を開け、エドガーは踵を返して廊下へ向かう。ピップは大司教に深く頭を下げてから、急いでエドガーの背を追った。


 扉が閉まる。


 廊下の石床に足音が落ちると、ピップはつい、息を吐いた。

 エドガーがその背にそっと手を触れる。

 目が合うと、彼はふっと笑った。


「……豪華な部屋だったね」


 ピップもつられて笑う。


「はい」


 建物を出ると、鐘楼の音が響いた。

 その余韻がいつまでも白の石壁に静かに残る。


 ピップは足を止めて、振り返った。 


 大聖堂の裏手にあるはずの聖ルミナ孤児院。

 今は、大聖堂の奥に隠れ、姿は見えない。

 

 見えないはずなのに、あの建物の気配だけが、はっきりとそこにある気がした。


 奥歯を噛んで、再び前を向いた。


「……ピップ、今日は官舎に戻るの?」


 少し前を歩いていたエドガーが、ピップに体を向けて、彼を待っていた。


「……はい。そのつもりです」


 ピップは急ぎ足で彼に並ぶ。

 エドガーは手を伸ばし、ピップの頭にふわりと触れた。


「……今日はうちへおいでよ」

「え?」


 エドガーは、柔らかく笑んでいた。

 ピップは俯くと、小さく頷いた。





 官僚街の一角、ブリクストン街にある石造りの二階建ての建物。

 その二階角部屋が、エドガーの下宿部屋だった。


 夕食を終えたエドガーとピップは、暖炉前の一人がけソファにそれぞれ腰掛けていた。


 小さなテーブルにはオイルランプ。

 紅茶の香りが、部屋を満たしていた。


 本の頁をめくる音。

 時折、通りを抜ける馬車の音が外から聴こえてくる。

 

「エドガーさん……」


 両手でカップを持っていたピップが呼びかけると、エドガーは静かに本から顔をあげた。


「……ん?」


 ランプの橙の光が、二人の顔を柔らかく照らしている。


「俺、聖ルミナ孤児院にいたんです」


 エドガーは淡く笑みながら、小さく頷いた。


「……ルシアンから、少しだけ聞いたよ」

「昔話……聞いてくれますか?」


 ピップの茶の瞳に、ランプの光が差し込む。

 

 エドガーは本を閉じると、テーブルに置いた。


「うん。聞くよ」


 カップから立ち上る湯気。

 それはゆらりと、小さく揺れた。


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