10 差し出された手
「ピップさんは、字が綺麗ですね」
ピップが顔を上げると、司祭ファーザー・エリオットは柔らかく笑った。
傷だらけの簡素な長机が並んだ部屋。
その決して広くはない部屋には、たくさんの子どもがいた。
がたついた椅子。
数も足りていない。
勉強のための鉛筆はどれも短く、子どもが噛んだ跡がいくつも残っていた。
ピップは小さな手で鉛筆を握りしめると、無邪気に笑う。そうすると、ファーザー・エリオットは、優しくその頭を撫でた。
彼は屈めていた腰を伸ばすと、他の子ども達にも声をかける。
「ほらほら、遊んでいないで。文字の練習を続けましょう。
見本帳を写し終わった子は、次の子に椅子を譲ってあげてくださいね」
ここは、聖ルミナ孤児院。
ピップは物心ついた時から、ずっとここにいた。
ピップはせっせと文字を書き写すと、その紙を持ち上げて、窓から差し込む淡い光にかざした。
頬が緩む。
ピップは勉強が好きだった。
文字を書くのも、計算も、やればやるほど上手になる。聖書を読むのも、嫌いじゃなかった。
ピップは書いた紙を抱えて椅子を降りると、ファーザー・エリオットに駆け寄った。
司祭は腰を落とすと、にっこりと笑う。
「文字を書くのは好きですか?」
「はい!」
「そうですか。好きだと、きっともっと上手になれます。楽しみですね」
「はい!」
何よりも、ピップはファーザー・エリオットが好きだった。
穏やかで、優しくて、たくさん勉強を教えてくれる彼が。
「おい! ファーザー・エリオット!!」
部屋の扉が突然開き、怒声が滑り込む。
子どもたちはみな肩を震わせて、小さくなった。
ファーザー・エリオットは、ピップの背を優しく叩いてから立ち上がり、扉に歩み寄る。
「……何でしょう」
「いつまでやってる!」
「……今は勉強の時間のはずですが」
乾いた音。
顔を歪めた大司祭が、ファーザー・エリオットの頬を打った。
「枢機卿様がいらっしゃるんだ!
勉強なんぞより、子どもらにきれいな服を着せとけ!
見目のいい子どもだけでいいからな。あとはここから出すなよ」
「……そんな」
ファーザー・エリオットが言い募ろうとすると、大司祭は彼の足を強く蹴った。
そして、扉を乱暴に閉め、廊下に去っていく。
足音が遠ざかる。
ファーザー・エリオットはため息をついた。
ピップと、何人かの子ども達は彼に駆け寄った。
司祭はしゃがみ込んで、子ども達と目を合わせると、柔らかく笑う。
「……大丈夫ですよ。
枢機卿様がいらっしゃるそうです。準備をしましょうか。
大きな子達はきれいな服に着替えましょう」
「司祭様……」
それでも、彼は優しく微笑んでいた。
◇
定規で、強く手の甲を叩かれる。
ピップは赤くなった手を擦りながら、頭を下げた。
「……申し訳ありません。マザー・クラリス」
「あなたは物覚えが早いので良い子
です。ですが、慢心してはなりませんよ!」
「……はい」
修道女は鼻を鳴らすと、ピップに背を向けた。
また、乾いた音が響く。
別の子どもが叩かれる。
子どもたちは一列に並ばされ、ひたすら繰り返し礼をとった。
マナーの勉強は、いつもとても厳しかった。
皆俯き、震えている子どもさえいる。
鈍い音。
礼の角度が悪いからと、修道女に蹴られた子どもが床に倒れ込んだ。
何人かの子どもが顔を上げたが、マザー・クラリスに睨まれ、また床に視線を向ける。
誰も声を上げなかった。
それが、何よりも怖かった。
ピップは、ため息を飲み込んだ。
叩かれた手の甲が、いつまでも痛い。
◇
ある日、ピップはきれいな服を着せられていた。
金刺繍が長衣にまで施された枢機卿の前で、挨拶をさせられる。
頭を下げて、ゆっくり顔を上げる。
そして、笑顔を作った。
枢機卿の男はピップを見ると、かすかに口角を上げた。
「さすが、セント・アークライト大聖堂の孤児院ですね。よく教育されています」
「えぇ、えぇ。枢機卿様、ありがたいお言葉です」
大司教が手のひらをすり合わせて、枢機卿に寄る。マザー・クラリスも笑みを浮かべながらその列に加わった。
「この子はわたくしが教育を施しましたの。本当に良い子で」
「なるほど、そうでしたか」
大人たちの笑い声。
マザー・クラリスがピップの背に手を添えた。
ピップが眉を寄せると、マザー・クラリスは枢機卿には見えない位置でピップを睨み、腕をつねる。
奥歯を噛み、少しでも笑って見えるようにと、ピップは口角を上げた。
夕食。
ピップの前には、スープとパン。
パンは皿に三つものせられていた。
だが、顔を上げると、ピップの皿を見ている別の子ども。彼の皿には、パンがのっていなかった。
勉強の出来不出来で、与えられるパンの数が違った。
優等生だったピップには、いつもたくさんパンが与えられていた。
ピップはパンを一つ手に取ると、彼の皿にのせた。
「……いいの?」
ピップが頷く。
だが、少年はピップの背後に視線を向けると、さっと顔をこわばらせた。
「何をしているのです!」
ピップは頬を叩かれる。
修道女は机を回ると、ピップからパンを貰った少年の服を掴んで椅子から引きずり下ろした。
そして、その腹を蹴る。
「や、やめてください!」
ピップが駆け寄るも、修道女に突き飛ばされ、背から地面に転んだ。
「あなたは優等生だからいいのです!
あちらへ行ってなさい!」
「……そんな」
蹴られた少年は頭を抱えてうずくまっていた。「ごめんなさい。ごめんなさい」と何度も声を上げている。
ピップは目を強くつむり、その場にしゃがみ込んだ。
もう、見ているのが嫌だった。
耳を手で塞いだ。
もう、何も聞きたくなかった。
ここにいれば、何も感じなくなる気がした。
心が、壊れてしまうと思った。
――その晩、ピップは孤児院を抜け出した。
ピップは、駆けた。
孤児院の外に出るのは、初めてだった。
ずっとこの街で暮らしていたのに、
この街のことを、何も知らない。
歴史だけは知っている。
王都オルドン。アルストリア王国の中心地。王族も住まう、格式高い街。
だが、ガス灯の明かりから逃れるように、月光だけを頼りにたどり着いたその街は、石畳は割れ、泥と油の匂いが混ざる街だった。
ピップは、彷徨った。
飲水さえどこで手に入れたらいいかわからなかった。
裸足でうろついている子どもの真似をして、水を得、乞食をした。
季節は冬。
孤児院にいたピップには、冬の越え方が分からなかった。
お腹が空いて、寒くて、寂しくて。
ピップは雨の路地裏で、壁にもたれて座り込んだ。
「……お前、腹減ってんだろ」
ふいに、声をかけられる。
ぶっきらぼうなのに、なぜか、温もりのある声だった。
ピップが顔を上げると、暗がりから覗き込む男。
黒い外套の内側に、オリーブグリーンの服が見えた。
「……誰?」
自分の声は、かすれていた。
「俺はルシアン。ちょっと面白い仕事をしててな。手が足りねえんだ」
ルシアンの琥珀の瞳が柔らかく細められる。
「パンとスープをやる。
手伝ってくれよ」
音のしない霧雨。
ルシアンが差し出した手に、ピップは自分の手を恐る恐る重ねた。
大きくて、とても温かい手だった。




