11 居場所のかたち
それからピップは、ルシアンからの仕事をこなすうち、街に詳しくなり、貧民街で暮らす術を学んでいった。
次第に仲間も増えていく。
そうして、貧民街の子どもたちからなる小さな情報屋集団――“ミストラッツ”が結成されたのだった。
「ねぇ、兄貴の上にいる人ってどんな人?」
霧に沈む貧民街の路地裏。
ピップはルシアンから貰ったパンを食べながら、隣の木箱に座る彼を見上げた。
ガス灯の明かりはチラチラと揺れながら足元を照らしている。
「上っていうか……。まぁ、上か」
ルシアンは金の短髪をかくと、ピップの目を見てニッと笑った。
「法務官のエドガー・レイブンズって男は厄介だぞ」
「……怖い人なの?」
ルシアンはからっと笑う。
「そうだな。人によってはとんでもなく怖いだろうな」
ピップは食べるのをやめ、ルシアンを見上げた。
「……賢い。優しい。懐が深い。好奇心旺盛。人使いが荒い。
――そして、すごく強い」
「兄貴より?」
ルシアンは建物の隙間から、星の見えない夜空を見上げる。
「腕っぷしなら俺の方が上だよ。
でも、あいつの“強さ”ってそうじゃない」
ピップは眉を寄せて、ルシアンの琥珀の瞳を見つめた。
彼の瞳には、ピップの知らない色があった。
「とにかく、俺の“上”にいる男は、格好いいぞ」
ルシアンは、ピップの目を見て、笑った。
琥珀の瞳に宿っているのは
――信頼と、誇り。
ピップには、まだそれがなかった。
「……会ってみたいな」
ピップの小さな声に、ルシアンは苦く笑った。
「あの男をここに連れてくるのは、難しいかもな。本人は気にしないだろうが、いかんせん、世間的には“法務官様”だから」
「……うん」
――乞食の自分が、会えるような人ではない。
――どんな人なんだろう。
ピップはパンをかじった。
孤児院にいた頃よりも、その指先は硬くなり、いつでも黒く汚れている。
指先を服に擦り付けた。
それでも、取れない汚れ。
ピップも、狭い夜空を見上げた。
霧ばかりで、星は一つも見えなかった。
とある事件の調査をしていた時、ピップは“王家の影”に追われた。それは、王家に仕える、表には出ない追跡者たちだった。
貧民街をがむしゃらに駆け回って逃げた。
だが追いつかれ、調査メモを奪われそうになっていたところを間一髪ルシアンに助けられた。
そして、ピップを匿うためにルシアンがピップを連れて行ったのは――エドガーの下宿先。
ルシアンが戸をたたき、静かに扉が開いた。
暖気が漏れる。
青みがかった黒髪を背に垂らし、白い夜着姿で現れた、エドガー・レイブンズ。
ピップは疲労でぼんやりする頭を叱咤し、その姿を目に焼き付けた。
初めて見る“法務官”。
雲の上の人。
彼は、ピップと目が合うと、その群青の瞳を柔らかく細めて微笑んだ。
ピップは暖炉の前のソファに座らせられると、毛布を肩からかけられた。
温かいハーブティーを持たされ、つい、ぼんやりとしてしまう。
ルシアンはピップの座るソファの肘掛けに腰を下ろしていた。
エドガーは夜着の上からガウンを羽織って、机の椅子に静かに座っている。
「しばらく、ピップは僕が預かる」
エドガーが静かにそう言った。
「そうだな……。頼む」
ルシアンはピップの頭に手を置き、ぽんぽんと優しく叩いた。
「あいつら、俺のメモを欲しがってた……」
ピップがそう言うと、エドガーは立ち上がる。ピップの前まで来ると、膝をついて、その顔を覗き込んだ。
かすり傷の残る眉のあたりに、そっと指先が触れる。
「……すまない」
群青の瞳にまっすぐに見つめられ、ピップは息を呑んだ。
意志のある、深い眼差し。
エドガーは、自分の調査に子どもであるピップを巻き込んだことを、ひどく後悔していた。
でも、彼の瞳の中にあるのは、同情だけではなかった。
――責任と、誇り。
エドガーは手を伸ばしてピップの髪をそっと撫でた。
気恥ずかしくなって、つい、ピップは「くすぐったいよ」と小さく笑って手をはねのけた。
エドガーはそれを見て、ふわりと笑う。
エドガーの手は、ルシアンの無骨で大きな手とは違った。
細長くて白い繊細な手。
指にはペンだこ。
だけど、温かいのは一緒だった。
それからの日々、ピップはエドガーと過ごした。
法務官として立つ彼は、洗練され、凛としていた。
誰よりも賢くて、“怖い”男だった。
だが、エドガーは、ピップにはいつでも優しくて穏やかだった。共にいると、つい心が和らぐほどに。
生活力もないし、休日はずっと寝て過ごしているような人間臭いところもあった。
そんなエドガーにピップは憧れ、惹かれた。
あの優しい手で頭を撫でられるのが、堪らなく嬉しかった。
エドガーは、ピップの後見となってくれた。
今は、王立裁定院補助員として、彼のそばで学べる。
ある日、エドガーはその群青の瞳をやわらげて、こう言った。
「ピップ、その報告書、よく書けているね」
たったそれだけだったのに、胸が熱くなった。
毎日幸せだ。
こんなに、満たされることがあるなんて、思ってなかった。
◇
オイルランプの火が、揺れている。
そこまで話すと、ピップは黙ってその火を見つめた。くるくるとした栗色の髪が、じんわりと橙に染まっている。
「ピップ……」
ピップがゆっくりと顔をエドガーに向けた。彼があれほど憧れた群青の瞳は、今ピップに向けられ、柔らかく細められている。
「……話してくれて、ありがとう」
ピップは視線を下げ、小さく頷いた。
「いえ……」
ピップのまぶたが、ゆっくりと下がる。
壁に大きく映し出された二人の影。
呼吸の音が、そっと部屋に落ちる。
やがて、ピップの頭がこっくりと揺れた。
エドガーは淡く笑むと、彼のそばに寄り、ピップを抱き上げてベッドまで運んだ。
ソファまで戻る途中、ふと窓に近づき、カーテンに指先で小さく隙間を作る。
見上げたオルドンの空。
月が、滲むように静かに浮かんでいた。




